作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 翌日潔子が店に出たところ、ちょうど玲が水から上がったばかりのところだったらしく髪に湿気を帯びたままキッチンに立っていた。  声をかけると「おう」といつもに増して無愛想な返事を寄越してきた。  ──まだ怒ってるのかな……はあ。  昨日、汐乃達との飲み会で、綾子から戻ってこないかと言われたことを話してから玲はずっと拗ねたままだ。なぜそこまで拗ねるのか理由がわかりかねたが、パライソを脅かすような話をしなかった──それに対して頭にきたんだろうという結論に至った。寝る前に至った結論で潔子は自身を納得させる。 「あの、玲さん」 「潔子、昨日はごめん」  ──玲さんから謝った?  自分が悪くてもなかなか謝らない玲が謝った。その事実に驚きすぎて潔子は言葉が出なかった。 「……大切なことは話してほしかった。これからは、もう少し……頼ってほしい」 「あ……ごめんなさい……」 「でも、迷わずにいてくれたことは嬉しい」  玲は仕込みの手を止めずに、ただ口だけを動かす。潔子の方から玲に歩み寄ると、玲はちらりと潔子に目を向けてから、また壁を見た。 「……この店、好きですから」 「ま、まあ辞めるとか言ったら、なにがなんでも止めるけどな」 「あはは、ありがとうございます。必要とされてるんですね、私」 「当たり前だろ」 「まあ、命も握られてますからね。玲さんの姿を知ってる以上はここで働かないといけないんでしょ、私」 「そういやそうだった。お前、命拾いしたな!」  玲は顔を天井に向け、豪快に笑う。キッチンに反響する玲の声を聞きながら、潔子まで同じようにしたくなった。心地がいい空間に酔ってしまいそうだ。なぜ心地いいと思ったのかは、わからない。  ただ、今はなんだか胸の真ん中辺りが温かい。 「まだまだお世話になります」 「当たり前だ。めちゃくちゃこき使ってやる」 「だから、それはちょっと」 *  ここ最近パライソはかなり賑わっている。しかも、急激な勢いで。玲はその原因がわからなかったが、潔子からおそらく玲のせいだと言われてしまった。  先日潔子が友人と食事に行った際に、潔子がSNSに投稿した玲の写真について話をして、玲はそこで容姿を褒められたそうだ。そういうわけで玲をひと目見ようという女性客が増えている──と潔子が分析する。  客が増えることはありがたいが、そういう理由というのも玲にとっては複雑だった。料理人として立っている以上は、料理で評価をされたいところだ。  それに潔子からは「玲さんってイケメンだったんですね、ははは」と言われ、負わなくてもいい傷も負った。悔しかったので玲も潔子の写真を激写して、SNSに投稿してやった。 「あっ、なにするんですか玲さん! 盛れてない写真を載せるなんて」 「俺ばかり載せるのは不平等だろ。どうせお前、顔の半分はマスクで隠れてんだからいいだろ別に」 「最悪……」  忙しいあまりに営業中は潔子と話す時間もなくなってしまった。仕込みをするときも以前より多めに準備をするので、お喋りを楽しむ余裕などふたりにはなく黙々と仕事をする。  ──忙しいのはありがたいけど……それはそれで……。  さびしい、と潔子に伝えたら潔子はどんな顔をするのだろう。そんなことを考えた自分を玲はひどく恥じた。子どもかよ、とひとりで毒づく。  自分を頼ってほしいだなんて潔子へ格好つけたくせに、内心はこんなに情けないなんて潔子に知られたくない。だけど、虚勢を張るのもそろそろ限界に近づいている。  忙しくホールを回す潔子を見ながら、玲もせっせと注文された料理を作っていく。ふと、キッチンのシンク近くに置いている使い捨てゴム手袋の箱が目に入った。潔子が先月くらいに新しい箱を開けていたことを思い出し、箱の中を覗いてみたがまだ十分に残っている。  ──前までは一ヶ月くらいで一箱切らしてたのに。  大量に使うことを見越して、玲が通販で十箱ほど一気に注文しておいた。たくさんあるから遠慮なく使えと言ったときの、潔子の申し訳なさそうな顔を思い出す。  ──気にして、遠慮してんじゃねえのか。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません