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「……葵……潔子です……」 「潔子さん、いやあ素敵なお名前です。本来ならば妖怪の正体を見た者を野放しにしておけないのですが……あなたの命を助ける代わりに、彼の店で働いてくれませんか? 時給は千円と二百円です」 「ちょっと待て、店主は俺っすよ。こんな陰気くさい女雇うなんて嫌っす」  人魚は失礼なことを言っているが、潔子はそれに反論する気力もなかった。もう誰にも口外などしないから、とっとと解放してほしい。人魚もイライラしながら尾びれをばたつかせて、威嚇するように水の音を響かせている。  それに、カフェバーだなんて不特定多数の人間がやって来る。水仕事もあるだろうし、潔子は自身に務まる気が一ミリもしない。 「玲くん、オープンは一ヶ月後です。早くバイト雇えっつったのに、面接に来る人片っ端から落としてるじゃないですか。あなたに決めさせてたら、いつまで経っても決まんないんだよ」  潔子からはルキの背中しか見えないが、先ほどまで興奮気味だった人魚の顔がしゅんとなり、尾びれも静かに水の中に浸かっていくので、ルキは怒った顔を向けているのだろうと察した。 「だってえ、なんか意識高い系の大学生とか、働く前から休むことばかり考えるババアとか、声ばかりでけえ体育会系とか、そんな奴らばっかだぞ。このこじんまりとしたカフェには合わねえんだよ」 「じゃあ、あなたひとりで回せるんですか? 数時間に一回は水に浸からないとやってらんねえくせに! こうでもしないと、あなたはいつまでも決定を先延ばしにして、カフェもまともに運営できずに借金だけが残ることになりますよ!」 「それは……」  人魚は眉尻を下げながら、木から降りられなくなった子猫みたいな声を上げている。そんな人魚に対してルキは容赦なく詰め寄っていく。時折ルキの口調が別人のように荒くなるのを聞きながら、この者達に関わってはいけないと確信する。今、ふたりは潔子に背中を向けているし逃げるなら今だと、力を振り絞りそっと立ち上がる。 「ああもう、わかったよ! もうその女でいいわ!」 「ああ、よかった。潔子さん、よろしくお願いしますね」  ふたりは潔子のことをじっと見ている。不服そうな人魚と、一ミリたりとも崩れない営業スマイルのルキ。対照的な顔なのに、どちらもそれぞれに怖い。  ──私、やるとはひと言も言ってないのに……。  脅迫罪で訴えてもいいだろうか、と考えるも化物に日本の法律が通じると潔子には思えない。その前に首を掻っ切られて食料にでもされるのがオチ──潔子の頭の中はあらゆるホラー映画の残虐なシーンばかりが浮かぶ。  恐怖のあまり、潔子は顔も上げられないし返事もできない。うなだれて床を眺めるだけだ。 「おい、女」  先ほどまで人魚だった男はいつの間にか二足歩行で潔子の前に立っている。ライトブルーのダメージデニムを穿き、上半身は裸で、青い血管がところどころ透けるほど白い肌だった。 「お前を雇ってやってもいい。俺の手となり足となり働け」 「……いえ、無理して雇ってもらわなくても結構です……」 「じゃあ、殺すしかないな。俺の姿を知られてるわけだし。せめて綺麗に溺死させてやるよ」  ──ヒィ……選択肢がない。  ふたりの間にルキが立ち、人魚のことを叱るように腕を組む。潔子はわずかに期待したものの、ルキが「うちで働いてください、でしょうが」と言い放ったので、もうルキには期待できないと肩を落とす。 「わ、わかりました……口外しませんし、一生懸命働きます……まあ、使えないと思いますけど」 「使えなきゃ殺す」 「玲くん、そういう言い方はやめてください。使えるようになるまで、店主がしっかりと教育すればいいだけの話ですから」  ──ああ、神様、なぜ私にこんなにも試練を背負わせるのですか。  潔子はなにも言えずにその場に座り込んだままだった。

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