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 ──俺とか超おすすめですけど? ど、どうよ。  潔子にまで伝わってくるほどの緊張を帯びた玲の声が再生された。その時の玲の顔は覚えていない──というより、見ることができなかった。それを真正面から見てしまえば判断能力を欠いてしまう気がしたから。  逸った心を落ち着けるために、イルミネーションを凝視した。規則的にちかちかと光るそれを見て、自分が今言うべきことがなんなのか、頭をフル回転させて絞り出した。  とても、嬉しかった。  自分を必要として、自分を本気で心配して、ときどき素直じゃない玲。そんな玲が動揺をなんとか抑えながら、潔子の側にいてくれようとしていること。  しかし、また裏切られたら──そんな思いが潔子にブレーキをかける。  裕也の浮気現場に遭遇して、会社の人から白い目を向けられて、それが原因で会社にもいられなくなって、心身のバランスを崩して、もう恋愛などするもんかと固く誓った。恋愛というぬるま湯に浸かりすぎた結果が、このざまだ。  しかし病気も、だんだんと幸せの陰に隠れていった。だけどまた、姿を現して潔子を脅かす。  ──調子に乗るなってことかな。  潔子はベッドに転んだまま傷だらけの両手を眺めた。  あれから手を洗い続けていたので、潔子は早退させられた。幸い琥太郎や希良、ルキが店にいたので彼らに手伝ってもらったようで店の営業自体は大きな問題はなかった。  裕也は玲が追い出した。今日は帰って欲しいとあの玲が頭を下げて、裕也はしばらく粘ったが、結局店を後にした。  それにしても裕也はなぜ今更潔子の元へやって来たのか。潔子には見当もつかない。  あの浮気相手とは別れて、裕也の転勤が決まったと綾子が話していたが、それが関係するのだろうか。  前向きに考えれば潔子の大切さに気づいただとか、そういう綺麗な理由があるのかもしれない。後ろ向きに考えれば、潔子がまだ自分を好きだと決めつける慢心の表れなのかもしれない。  いずれにしろ、潔子の心には裕也が入る余地などもうない。しかし、裕也が刻んだ傷はまだじゅくじゅくとして治りきらない。  潔子は苦しくなるとまた手を洗って、玲のあの緊張した声を思い出す。玲の声は潔子の胸を締めつけながらも、どこか優しげで、あとちょっと面白い。震える手で抱きしめられているような気分だった。  ベッド脇に置いていたスマートフォンがぶるぶると震えた。無視していたけど、しつこく鳴り続けるので潔子は渋々身体を起こして画面を覗き込む。──玲からだ。 「おう……あの、今大丈夫か?」 「昨日はすみませんでした。あんなに取り乱して……今日休んだら、明日は普通に仕事します。ルキさん達にも迷惑かけちゃいましたね」  努めて明るく振る舞うようにした。しかし、玲はそれをすぐに見抜いて「無理すんな」と静かに言った。いつになく柔らかな声色に潔子の目頭がじんと熱くなる。 「飯は食ったか」 「いえ、食欲なくて」 「はあ……今から飯持って行く。お残ししたらどうなるかわかってんだろうな」 「はは……玲さんイーツは厳しいなあ……」  電話を切ってからしばらくして、玲はガラス容器をいくつか持って本当に潔子の部屋にやって来た。ひとまず洗いたてのシルクの手袋をはめてそれを受け取り、頭を下げる。小さなガラス容器に入っていたチーズリゾットはまだ温かい。 「あの、昨日の男さ……」  玄関に立ったまま玲は話しだす。立ち話もなんなので、と潔子が伝えると玲は安心したように口元を緩ませた。人を上げるのは抵抗がないわけではないが、昨日あんなことをしてしまった申し訳なさから今はぐっと堪えた。 「……以前話した元彼です。急に現れたので驚いちゃって、あはは」  スプーンでリゾットをすくい口に運ぶ。いつも作ってくれる味より、ややしょっぱく感じた。玲でも味つけが狂うことがあるんだと潔子はぼんやり思った。 「そうか。あいつは出禁にしとくから……」 「そこまでしなくても大丈夫です。そういうことやって、下手にネットに悪口書かれちゃかないませんから」 「でも」 「大丈夫です。昨日みたいなことは、もうやらないです。仕事はちゃんとやりますから」  手の甲に小さな虫が這うような感覚があって、食事中にも関わらず潔子は立ち上がり台所のシンクで手を洗った。背中に玲の視線を感じていたけど、潔子はそれを無視した。玲がどんな目で自分を見ているのか想像がついて、今振り向いてしまえば泣きだしてしまいそうな気がしたからだ。

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