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* 「玲さん、大丈夫ですか?」  随分と長いこと水に浸かっていたせいか、心配した潔子が玲の様子を見に来た。今何時、と尋ねると十六時半ですと返ってくる。昼の営業が終わったばかりだ。 「悪かったよ、ひとりで回させて。大丈夫だったか?」 「はい、ティータイムで長居するお客さんが多かったので。ああ……店としては、それはよろしくないんでしょうか」  潔子はしまったと言わんばかりに頭を掻いた。ルキへ借金を返すために儲けは必要ではあるが、玲としてはお客さんに愛される料理と場所を提供する方が優先だ。なので、心地よく長居してもらう分にはありがたい。  玲が潔子の言葉に対して首を横に振ると、安心したように潔子の口元が緩んだ。 「はあ……今度こそ、ひとりで生きていけるって思ったのに。俺は誰かに助けてもらわねえと、生きていけねえのか」  一年ほど前にルキと出会い、やっとこの店をオープンさせて、玲は自身を変えられると信じていた。が、それは容易いことではなかった。結局誰かに手伝ってもらわないと、なにひとつできやしない。そんな現実を店舗のオープン日にぶつけられるとは。玲は出鼻を挫かれた気分だった。 結局、妖怪は妖怪らしくひっそりと暮らすべきなのだ。自分が人間と同じようになろうなんて、なれるかもしれないだなんて、勘違いも甚だしい。  ぬるくなった水が身体にまとわりつくような感覚。玲はその重さに溜息をついた。 「……誰かに助けてもらうのは、悪いことでしょうか」  潔子かぽそりとつぶやく。なにを言ってるんだこいつは──と玲は右腕をバスタブの縁に乗せ、重々しい頭を支えた。じろりと潔子のほうを見ると、潔子は申し訳なさそうな目を向けた。 「あ? そりゃそうだろ。いい大人がひとりで生きていけねえってさあ」 「そうしたら、私は極悪人です。家族を頼って、ルキさんを頼って、今は玲さんに頼って生きてます。でも私は自分が悪いというより、周りが優しいだけなんだって思ってましたが……違うんでしょうか」  潔子の目はやや不安そうに揺れていた。別に潔子のことを責めているわけでもなく、極悪人なんて思ってもいない。むしろ玲は潔子に感謝すらしている──こんなに弱々しく、情けない自分のフォローをしてくれていることに。 「……悪い。そういうつもりはねえんだ。ただ、俺は普通の人間みたいにちゃんと暮らしたいってだけ。好きな料理して、お客さん喜ばせて。そういう夢を、パライソにはつめこんでた……でも現実は甘くはねえよ」  潔子はよいしょ、と言いながらしゃがむと玲の目を真っ直ぐに見た。マスクをしているせいかやけに目力が強く思えて、玲は視線を落とした。視線の先では尾びれが弱々しく水の中で揺れている。  ──妖怪ケッペキのくせに、なんて目をしやがる。 「……誰かを、頼ってもいいんじゃないですか」 「え?」 「一応、頼られるためにいるんですし、私」  潔子の口調は淡々としている。玲を励ますためにとり繕った言葉ではなく、ただ心の内をそのまま声にして出しているだけ。そんな言い方だった。だからこそ真っ直ぐに玲に飛んでくる。豪速球のストレートみたいに。  玲の目が熱いのはきっと豪速球を受け取り損ねて、胸の真ん中に当たってしまったから。それを潔子に悟られるのは気恥ずかしくてまた水の中に潜り込む。  本当はもう水の中から出ても問題ないし、夜のバータイムに向けて支度をしなければいけないのだけど、玲はそのまま動けなかった。  だけど、潔子にひとつだけ伝えておきたいことがあったので、顔を水面から出した。 「潔子、その、ありがと……」 「いいえ」 「……これからも、その、頼りにしてる」 「は、はい……!」 「め、めちゃくちゃこき使ってやるからな」 「それはちょっと」  潔子の眉毛が緩く波打って、その真ん中には何本もしわが寄った。それをちらっと見てから、玲はまた水の中に顔をつけた。水を伝ってくる胸の音にほんの少しだけ動揺していた。

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