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 もしそうなら、潔子はそんな気を遣う必要はない。潔子が仕事をしやすいように玲もあれやこれやと考えているので、その辺は甘えてほしいのに。  ランチタイムを終えて、床に叩きつけられた濡れ雑巾みたいにカウンターに突っ伏している潔子に、玲はおずおずと声をかける。 「……おい、潔子。お前ゴム手袋ケチってんじゃねえのか?」 「え?」 「あんまり減ってねえから……その、交換してねえのかなって思って」 「ああ……最近はそんなに交換しなくても平気なんです。手を洗わなくても、平気になりつつあって」  潔子はゴム手袋をはめた手をさすり、顔には喜悦の色を浮かべている。その手に、玲も触れたくなって引き寄せられるように腕を伸ばした。  あと少しで触れられそうだという時に汐乃が店内に入ってくる。その瞬間に玲はさっと手を引っこめて、なにもないふりをした。  ──タイミング悪いよ、汐乃さん……! 「あら、もしかしてお取り込み中だったかしら?」 「いえ、大丈夫です。最近手を洗わなくても、平気になったって話をしてただけで」 「えっ、それは素敵な大ニュースじゃない!」  汐乃もまた顔いっぱいに喜びを溢れさせ、潔子の隣に座った。玲には「いつものお願い」とだけ伝えると、潔子の手を取った。汐乃は潔子の許可を取りゴム手袋をそっと取り外す。まだ乾燥が目立つものの、赤切れが大分減っている。  汐乃のコーヒーを運び、玲も潔子の手を久しぶりに見た。玲の記憶にあるのは最初に見せてもらったあの傷だらけの手だったが、今は傷跡も薄くなり綺麗な手だった。  潔子が元気になっている、なによりの証拠に玲も感極まる。  玲は潔子の手にそっと指を滑らせた。潔子は動じることなく、ほっとしたような目で玲のことを見つめてくる。 「……よ、よかったな、潔子」 「へへ、はい。ありがとうございます」 「このままよくなっていけば、綺麗な手になるわ。その時は私にハンドマッサージをさせてちょうだいね」  汐乃が手に触れても潔子は平気そうだった。  そんな喜びを分かち合っていたら、潔子のスマートフォンが震えだした。画面を見ると、潔子の母親からだったようで潔子は店の外に出た。 「……で、玲ちゃん。そろそろチャンスなんじゃない?」 「チャンス? なんの?」 「潔子ちゃんに告白するチャンスよ。今の潔子ちゃんなら恋愛モードに入れるわよ」 「べ、別に……俺は潔子のことそんな風にっ……見てない……し」 「あらそう。じゃあ私が別の男を紹介しようかしら。いいのかしらねえ、別の男にかっさらわれても」  汐乃がカウンターテーブルに肘をつき、目を細めて玲を煽ってくる。  潔子のことが必要だという思いは否定しない。しかし、恋だの愛だのという観点で考えたことはなかった。話せなければさびしいし、頼られなければ悲しいし、元気になってくれるのなら嬉しいし。それを恋愛感情と呼ぶのであれば、確かに玲は潔子のことが好きなんだろうと思った。 「汐乃さん、ちょっと待ってくれ……よくわかんねえ」 「いい歳して高校生みたいなこと言わないでちょうだい。じゃあ、何度かデートでもしたらどう? それでなにも感じなければ、もうそれまでよ」 「ん……うん、わかりました……」  別に玲は恋愛経験がないわけではない。ただ、ご無沙汰なだけだ。海の中では人並みに遊んではいたけども、地上にやって来てからは人間としての生活に慣れるために必死だったこともあり、恋愛にかまけている余裕などなかった。それに正体がばれないように、玲は必要以上に他人と関係を持たないようにしていた。 「いい? アプローチよ。的確なアプローチが必要なのよ」  汐乃の言葉に玲はゆっくりと頷く。  そこで潔子が戻ってきて、「険しい顔してどうしたんですか?」と問うたが、玲と汐乃は知らぬふりを決めこんだ。

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