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 潔子が玲を拒否したわけではないことは理解できた。だけど素肌の手に触れただけで、こんなに手を洗われるとさすがの玲でも落ち込む。  潔子は手を拭くといそいそとゴム手袋を装着した。履き口を引っ張り、手首をすっぽり覆う。それからまた玲に対して九十度に頭を下げた。  そういうものを求めているわけじゃない、と潔子に言いかけてやめた。潔子だって玲に責められることを望んではいないはずだ。 「……お前、今までどうやってたんだ? 前は普通に会社勤めしてたんだろ」 「会社勤めしてた頃は、平気でした。でも、この世の中は汚いものばかりだって気づいちゃって」 「汚いものばかり? どうして」  素直な疑問がゆっくりと喉の辺りを這っている。通常ならばこのような人の心に土足で入り込むような質問など、理性で押さえつけられるはずなのに、今は潔子のことを知りたいという欲の方が勝ってしまった。粗雑な振る舞いについては自覚があるものの、きちんと弁えることができると思っていたのだが。  案の定、潔子は困ったような顔をして深呼吸をする。 「くだらないと思うかもしれません。あと、話した後に私が手を洗いそうになったら止めてください。できれば我慢してみるようにって医者から言われてて」 「うん……まあ、今思いっきり洗ったけどな」  玲の突っ込みに潔子は苦笑する。  潔子はまた大きく息を吸う。そしてぽつりぽつりと降り出した雨みたいに話を始めた。  潔子には付き合っていた彼氏がいた。同棲もしていて、もう結婚を意識するところだったそうだが、あろうことか彼氏は自宅で別の女と情事に興じていた。その浮気現場に潔子はたまたま出くわしてしまった。しかもよりによって浮気の相手は会社の後輩の女だったらしい。  いつも潔子が綺麗に整えていたベッドも、キッチンもリビングも、全てその女に侵されて汚されている気がした、と潔子は言う。  だけど、それだけが理由ではなかった。  浮気を目撃して、潔子が彼氏と住んでいた家を出て行った後のこと。浮気相手の女は周りの社員を味方につけて、そして彼氏もそれに便乗した。浮気をしたのは彼氏とその女だというのに、いつの間にか潔子の行いが悪いから彼氏は別の女に靡いたのだと、社内でもっぱらの噂となった。  信じていた同僚や先輩、後輩達がその話で盛り上がっているのを目の当たりにして、だんだんと汚れているのは自分だと思うようになった。汚れていたくないから、必死に手を洗う。その時のことを思い出すと我慢ができなくなるらしい。  なにかに触れれば、汚れる。そういう強迫観念が潔子の首を締めつけていった。  潔子は居心地が悪そうに指を動かす。水道の方に身体を向けようとしたので、玲は「洗うな」と冷静に言い放った。 「本当にくだらねえ話で、びっくりしたわ」 「はい……あ、ああ……でも……」 「お前は汚れてねえよ。大体、汚れてる奴を厨房に立たせるほど俺は甘くねえ。汚れてる奴を頼るくらいなら店なんてやらねえわ」  ──なにを言ってるんだ、俺は。もうちょっとこう……。 「お前の元彼とか浮気相手とか会社の奴らの方がよっぽど汚ねえのに、平気な顔して生きてんだぞ。自分ばかりが頑張るのはバカみたいだろ」  潔子の指の動きが止まったものの、目が潤んでそのままぽろりと溢れてしまった。それを指ですくってしまいたいと思ったが、先ほど手を弾かれたのを思い出して、玲は手を引っ込めた。 「この店に立つ以上、お前は誰よりも綺麗だ。俺が保証する。だから、そんなにボロボロになるまで洗わなくていいよ」  潔子はなにも言わずにこっくりと頷く。  こういう言い方でよかったのだろうか。玲は迷いが拭えないものの、この言葉に嘘はないことは確かだ。  そして、自分の言葉を眠る前に思い出して赤面することも、今の玲はまだ知る由もなかった。 

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