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* そうして二週間後、ふたりは一泊二日で近場の温泉旅館へ向かう。出発のときに琥太郎と玲央に出会い、いってらっしゃいと送り出された。潔子は晴れやかな気持ちで二輪の後ろに乗り、玲の腰にしっかりと掴まった。  秋頃に乗ったときより、風はむわっと湿気を含み生温い。とても気持ちがいい風ではなかったが、それでも潔子の気分は高揚していた。  二輪を走らせて二時間ほどで、『うみの旅館』へ到着する。その名の通り周りは海に囲まれていて、潮騒の音が響いている。静かでいい場所だ。  玲の友人が営んでいるというだけあって、比較的新しい旅館だった。老舗の旅館のような厳かさはないものの、古民家風の建物の中にたった五部屋ほど客室があって、どこかアットホームな雰囲気があった。 「玲、久しぶり。いつになったら彼女を連れてくるのかと」  オーナーである玲の友人が穏やかな笑みで迎えてくれた。玲の後ろで潔子がぺこりと頭を下げると、彼も同じような動きをした。 「悪い悪い。店の方が忙しくてな。どうよ、儲かってんのか?」 「ぼちぼちだね。どうぞ、ごゆっくりい」  客室に案内され、玲が鍵を受け取った。室内は畳ばりで木製のベッドが二つ並んでいる。部屋の奥には大きな窓があり、そこからは海が見渡せる。窓を空かせば、潮騒の音と海の香りが部屋の中に入り込む。 「綺麗なところですね」 「だな」  この旅館は全ての個室に露天風呂がついている。特段広いわけではないが、人がふたり入るには十分な広さだ。その理由としては、玲やオーナーのように人間界で暮らす人魚も多く訪れるため、人目に触れないよう個室に温泉を完備した。人魚はお湯や水に浸かると、その変身が解けてしまうからだ。  玲は荷物を投げ捨てるなりすたすたと風呂へ向かう。潔子もその後を追いかけた。  身体を洗って湯船に浸かると、日頃の疲れが抜けていく。海が近いこともあり、お湯からはややしょっぱい香りがする。玲曰く、ここの温泉は塩化物泉らしい。濃度は格段に下がるとはいえ、海水に近いお湯に玲も満足していた。 「玲さん、ここ景色いいですね」 「そうだなあ、海が真っ青だ」  そう言いながら玲は潔子を後ろから包むように抱く。潔子の身体には腹びれの部分がぐるりと巻きつき、顔のすぐ横では尾びれが揺れている。後ろを振り向くと、前方に見える海と同じような色の、ぎざぎざの耳が目に入った。 「はあ、幸せだ……。最初ルキさんがお前を連れてきたときはこんなことになるなんて思いもしなかったな。人間に見つかって、やべえって思ったよ」 「あはは。そうですよね。私も、殺されるのかなあって思いました」 「そんなこともあったな。その……よかった」 「……はい。いろいろとありがとうございます」 玲の腕の力がぐっと強まる。玲は潔子の肩に頬を寄せて、口元を緩ませた。 「いいえ。ふふ……なんかこういうの、普通の人間っぽいな」  玲の頬がほんのりとピンク色に染まっている。温泉のせいなのか、他の理由なのかわからないが、それに頬擦りをしたくなった。潔子が頬を寄せると玲も更にくっつけてくる。そして頬にキスをする。  頬へのキスに嫌悪感はもうなかった。目標をクリアしてから、結構な頻度で玲はそれを繰り返したので、次第に汚れるという意識が薄らいでいるおかげだ。  目標を立てた頃は、全てにペケ印がつくことなんて考えもしなかったのに。 「玲さん」  潔子は玲の唇に自分のをそっと重ねた。今この瞬間だけは汚いだとか汚れるだとか、そういうことを一切考えもしなかった。ただ、好きな人に触れたい。それだけだった。  ぱしゃん、と玲の尾びれが水面を叩く音がした。 「……お前、不意打ちはずりいよ……」 「したくなりました」 「はあー……なんなのお前」  玲は壁際に潔子を追いやると逃げられないように両手と、それから尾びれを潔子に絡ませた。ゆっくりと押し当てられた唇は少しだけしょっぱい香りがした。  好きだ、とただシンプルな思いが潔子の胸を満たしていた。

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