第四章 八月上旬~九月中旬 4 4 巣鴨の地蔵の縁日は、毎月四日である。明美が来る日曜日は四日ではないが、今では、縁日があろうがなかろうが、休日は人で混みあう街となっている。JRの改札口に春夫が付いたのは約束の十一時より十分ばかり早かった。電車が着くたびおばあちゃんの原宿を彩るにふさわしい人達が大勢改札口から出て来る。「今日は曇り空で気温が低く、最高気温三十度位でしょう」と天気予報では言っていたが、日傘を手にした高齢の女性の姿もちらほらみられる。 「ええっ」 春夫は、思わず、声をあげていた。手を振って来たのですぐに分かったが、明美は何と浴衣姿で現れたのだ。白い浴衣地にあやめの花が咲いている。明るいオレンジの巾着袋が手からぶら下がっている。 「三分前ね」 改札を出た明美が振り返り大きな時計に視線を投げて言った。 「驚いたなあ」 「何が?」 「何がって今日の西野さんのファッション」 「ああ、お店から提供された浴衣よ。毎年、浴衣祭りっていうのがあってさ。浴衣着てお客さんの接待とか舞台で踊ったりもするの。裾がミニスカートみたいなのとかラメを入れた浴衣なんていうのもあったわね」 相変わらず、声が大きい。 出来る限り、巣鴨で有名な店を紹介してあげたい。そんな春夫の気持ちが交番の前を通り、向いの人だかりの方に向かわせる。しばしば行列の出来る店があったのだ。今日も並んでいる。 「何の店?」 「肉まん、あんまん。食べたい?」 「食べたいけど、ランチ食べられないと困るから」 「だな」 行列を尻目にまっすぐ進み信号を渡り、地蔵通りに入って行く。肩が触れ合う混みようである。赤いパンツで有名な店で明美は笑いながら「勝負下着にするわ」とMサイズを買った。 「ちょっと待って」 明美は、狭い手作りジュエリーの店に入るとあれこれ眺め、貝殻のネックレスを購入した。 洋品店で立ち止り中を覗いていると、中から出て来た三人連れのおばあさんのひとりが、 「美人ね。モデルさん?」 明美に向かって言うのに他のふたりも同調する。 「ありがとうございます。残念ながらモデルではございませんのよ」 明美が、にこやかに答えた。 「声がすごくハスキーね。もしかして」 「ニューハーフとか言いたいんですか?」 「違うわよね?」 「れっきとした女性です。ハスキーな声よりセクシーな声って言って欲しかったわ」 「セクシー、じゃあ、セクシーでハスキー」 美人ね、と言って来たおばあさんが言い直す。 「ああ、ごめんなさい、前ふさいじゃって」 店から出て来た数人のやっぱりおばあちゃん軍団に押される形で、三人のおばあちゃん達は去って行った。 「本当に女性と思ったかなあ」 その背中を見ながら春夫が言った。 「どっちでもいいわ。だけど、ニューハーフでしょう、とか言って来た人に『失礼ねえ、証拠見せましょうか』なんていうのも楽しいものよ」 明美は、ご機嫌で下駄の音を鳴らしながら春夫を引っ張るように歩みを進める。 お地蔵さんがある高岩寺に入ると線香の匂いが漂って来る。煙が立ち込める所の周りをおばあちゃん、それより、ひと回り、ふた回り若い女性達、おじいちゃんも取り囲んでいる。それぞれに煙を掌に乗せるようにして頭やお腹やぐるりと手を回し腰に持っていったりしている。 「体の不調の所に煙をあてるといいんだって」 「だったら、私は、頭ね」 明美は、煙を迷わず掌を頭に持っていく。 「ハル君は?」 「全身」 煙を両手で体の方に引き寄せ浴びるようにした。 お堂でお賽銭を投げ入れ、春夫は冴子との仲がうまく続くことを願った。明美は、春夫が焦れるほどに長々と手を合わせていた。夏休み実家に帰って両親と会ってからのことを祈っているのだろうか。 「いいなあ。こういう通り。谷中よりこっちの方がよかったかも」 地蔵通りに戻ると明美が言った。 「そんなことないよ。谷中の方が西野さんに合ってる」 「拒絶してる?」 「うん、拒絶してる」 「ひどい。冷たいハル君。ねえ、お腹空いた。ランチしましょう」 「そうだな。店は決めてるから」 春夫は、地蔵通りの真ん中辺りにあるスパゲッティーナポリタンやらお蕎麦やらウナギやらデパートの大食堂みたいなメニューが並ぶ店に春夫を連れて行った。 「おごるわ」 「いいよ、割り勘」 「遠慮しないで。案内してくれたんだから、私におごらせて」 係のおばさんがテーブルの上に水を置き、「ご注文は」と聞いて来る。 「いや、ここは、割り勘でいこう。僕は、ナポリタンとコーヒー」 「じゃあ、私は、親子丼とコーヒーにするわ」 明美が言った。 ローズピンクに塗られた口紅、頬にも紅が塗られている。アイシャドーは薄い。この日のマニュキュアは、黒に近い色である。 「黒のマニュキュア」 春夫が、思わず言葉を発すると、「いいでしょ」と両手の指を曲げて春夫の前にだらんと見せる。 「黒豆みたい」 「黒豆?少なくとも誉めてないよね」 「けなしてもいないけど」 「こっちは?」 明美は、足元の下駄を鳴らした。 素足の爪には、真っ赤なペニキュアが塗られていた。 「いいんじゃない。情熱が迸(ほとばし)ってる」 「オーバー。黒豆は、ちょっとショックだったけどね」 「浴衣姿もなかなか西野さん似合うね」 「でしょう。ラッ」 ラッで言葉が途切れた。春夫の中でラウンジスリーというフレーズが反射的に浮かんだ。 「今、ラッって聞こえたけど続きは?」 「えっ、――ラッタッタ」 「何、それ。やっぱり、西野さんが働いていたニューハーフクラブは、パピルの店長が言ってたラウンジスリーとかじゃなかったの?」 「違うわよ」 明美は、強く否定して来る。まあ、無理じいすることでもない。 「ハル君、着物着たことある?」 「ない」 「男の着物姿も粋でいいものよ。下駄じゃなくて草履ね」 「考えとこう」 「着る気ないわね」 「分かる?」 「分かるわよ。だけど、素敵に着れば彼女からさらに好かれること請け合いなんだけどな」 「けっこうです。今で満足でございます」 春夫は、冴子の顔を思い描きながら答えた。 ナポリタンと親子丼が運ばれて来た。 トマトソースがたっぷりと使われ、千切りのハムがまざったスパゲッティーが春夫の前に置かれる。昔ながらのスパゲッティーって奴だ。巣鴨には、こういうのが似合う気がした。 「お腹空いてる。いただきます」 明美は、飛びつくように親子丼に箸を伸ばした。 「おいしい」 明美の食べ方は、その時々によって違う。いかにも女性っぽく食べる時をあれば、女を忘れれたようにパクパク食べる時もある。今日は、浴衣姿に合わないパクパクの方である。 「本当におばあちゃんが多い街ね」 「うん。それで、元気なんだよなあ、皆」 「私も、今日、私のこと美人ねえ、なんて言ってくれたおばあちゃんみたいになりたい」 「将来の自分の姿なんて考えることあるわけ?」 「余りないわね。でも、しわくちゃババアにはなりたくないからアンチエイジングだけはしっかりやっていこうと思う」 明美は、一緒について来たスポーンで丼の底をかきとって親子丼を平らげた。 「ゆっくり食べて」 そう言うと、「すいません」と店員を呼び、コーヒーを求めた。 「予定通り、木曜日に帰るの?」 「うん。向こうから聞いて来たしね」 コーヒーカップを置いた明美の顔がちょっと突き出された。 「お店で働いている時にも、休みはあったわよ。でも、いつ帰って来るのかなんて聞いて来ることはなかった。ハル君は、夏休み帰るの?」 「帰るよ。帰るったって、いつでも、帰れるから距離だから」 「埼玉のどこだっけ?」 「杉戸」 「ハル君は、いつからひとり暮らし始めたの?」 「就職して三年目から」 「お正月とか帰ってるんでしょう?」 「そりゃあ、毎年」 「温かく迎えられていいわね」 「普通だよ」 「ハル君ってひとりっ子でしょう」 「うん」 「お母さん、寂しがらなかった?巣鴨でひとり暮らしするって言った時」 「初めのうちは、はっきり反対の意思表示をしたよ。ここにいれば、家賃の分貯金出来るじゃないなんて引き留め工作に出たけどね。電車がめちゃくちゃ混む、を繰り返して納得させた」 電車がめちゃくちゃ混むは本当だった。東武春日部線から秋葉原で乗り換えるのだが、北千住から先の混みようは半端なかった。ただ、春夫がひとり暮らしをしようと思ったのは、それだけではなかった。自分は特に母親から過保護に育てられているという意識をずっと持っていた。サラリーマン生活を続けるにあたってプラスにならない、と考えたのである。 引っ越して一月後に父親から電話があった。 「お母さん落ち込んでいるからたまには帰って来いよな」 と。だから、三ヶ月に一度は帰るようにしている。今度の夏休みは、二日間は杉戸の実家で過ごすつもりであった。 先にコーヒーを飲み終わった明美は、ぼんやりと地蔵通りを行きかう人達を眺めていたが、春夫がコーヒーカップを空にしたのを見届けると、 「さて、ハル君のお家に行きましょうか」 明美は、にんまり顔で春夫に言った。 「本気だったの?」 「あたり前でしょう。冗談で言ってどうするのよ?行くわよ」 巾着袋をぶらさげ立ち上がった。 地蔵通りを出ると春夫は横道にそれ、裏通りを通って、自宅に明美を案内した。 「うちもコンパクトだけど、ハル君のところもそんな印象」 「言われてみれば似ているかも、色的には西野さんの方がいいかも」 春夫は、明美の谷中のマンションを思い出しながらワンルームマンションを見上げた。 エレベーターの扉が開いた。見覚えのある顔が飛び込んで来た。
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