第四章 八月上旬~9月中旬 6 明美が部屋を出ると、冴子は、改めて「美人」と言った。それから、余程ふたりの仲が気になるのか「本当に恋してないよね、ハル君」とハル君をゆっくり言って聞いて来る。演技かも知れないが、表情はマジである。 「あたり前だろう。恋してません。今日は、実家に帰るの?」 「うん、その前に佳ちゃんに電話して都合よかったら横浜で夕飯一緒に取ることになると思う」 佳ちゃんは、彼女の女子高時代の一番の親友だった。 「そうなんだ」 まだ、食事の約束をしているわけではなかった。そうさせないで、ふたりでこの部屋で過ごし、夕食を一緒に取ることを提案したい気持ちもあるが、春夫の口からそのための言葉がすんなり出て来なかった。 「ねえ、新宿のラウンジスリーって言ってたわよね?」 冴子はスマホを取り出して、文字を打ち込み始める。 「ここだ。何か華やかそう」 スマホを春夫の方にかざした。 「どれどれ」 春夫も自分のスマホを取り出し「ラウンジ スリー」と打ち込んだ。 「ギャラリーに西野さん映っているのかしらね」 「どうかな。ホームページって適当に作り変えるでしょう」 ギャラリーの項目には、店内の様子やショーの光景が映っていたが、明美の部屋で見た画像も佐野店長が示してくれた画像もなかった。 「美穂子ママのご挨拶」というのを読んでみる。 春夫と冴子が共に興味をもった部分があった。 [ラウンジスリーは、ショーに力を入れているニューハーフクラブです。たくさんのお客様からこれだけのショーを見せているのだから「ショーパブ」にした方がいいのではないかという声をいただきますが、もっともっと素敵なショーをお見せ出来ると確信しております。その時になったら、堂々とショーパブ、ラウンジスリーを前面に出す所存です] 「ショーに随分力入れているところね。このママってショーにこだわりがあるみたいね」 「プライドを感じるよね。ここで、センターを担っていたんだよ、西野さんは」 「どうしてやめちゃったんだろう」 「分からない。踊るとかお客さんを接待するとかも楽しい仕事みたいだったけど」 何かがあったことを明美は春夫に匂わせた。あれから、春夫が、想像したのは、お客さんに素敵な男性がいたが失恋したとか、水商売の世界では、度々あるようだが、大事なお客を他のニューハーフに取られて転身したくなった、というものだった。何にしても聞かれたくはないことだろう。だったら、本人が言って来るまで黙っていようと考えていたのだった。 「お待たせぇ」 明美が帰って来た。 ケーキの箱が開けられる。五個のケーキが並べられている。 「私、もうすぐ帰るから一個でいい。残りふたりで食べて」 「私、二個も食べられない。コーヒー入れるね」 冴子が立ち上がる。 「時間をおいて食べればいいじゃない」 「そうだけど」 「友達と会うみたい」 「そうなの?泊まっていくんじゃなかったの?」 「いきませんよ、何言ってるんですか」 冴子は、怖い顔で言った。 イチゴのショートケーキを食べる冴子が手を止めて明美に聞いた。 「あのう、ラウンジスリーやめちゃったの佐伯君からは、普通の勤め人になりたかったから、って聞いてますけど」 「そうよ。私、普通の会社ってどうなのかなあ、って興味あったのね。ただ、それだけ」 明美は、冴子に答えた後、春夫に視線を向け、微かに頷いた。 「それで、どうでした?」 「期待した以上に面白くってやりがいがある場所だった。ハル君、仕事の時は佐伯さんだけどね、彼の子守りが素晴らしかった」 「子守り?」 「いや、子守りっていうか仕事の受け継ぎもあったし、会社のしきたりって言うの、違う世界から来る人だから、気付いたこと教えてやってくれ、って部長と課長に頼まれたのよ」 「ねえ、冴子ちゃんに話してなかったの?年齢が同じこともあって、私の子守りも仰せつかったのよね」 「聞いてない。やっぱり、明美さんのこと心のどこかで意識してんじゃないの?」 「違うよ」 春夫は、口をもぐもぐさせながら慌てて否定した。 「冴子ちゃんって、本当にハル君のこと好きなのね。心配しなさんな」 それには、答えずイチゴのショートケーキを食べ終わった冴子は、二個は無理などと言っていたのに、 「エクレアいただきます」 と箱からエクレアを取り出した。 「ねえ、冴子ちゃんの研究している伊藤若冲の話とかを聞きたいわ。あのカレンダーの絵の作者でしょ」 明美が、冴子の研究テーマに話を持っていった。 「そう。あれは、群鶏図ね。若冲について、お話しするのは構いませんけど、どの位、若冲のことご存じなんですか?」 「名前と確かああいった鳥の絵とかが得意とか、その程度」 「じゃあ、初心者ってことで。最初にお断りしておきますけど、私の研究テーマは、伊藤若冲だけではありませんから。江戸時代を彩った絵師達と考えてください」 「分かりました」 「若冲が生まれたのは、千七百年代、青物問屋、青物問屋って野菜とかを扱うお店」 冴子の若冲についての解説が始まった。生い立ちから、どうして、日本画に目覚めたかなどという話から、その特徴やら何で現在多くの人に人気があるのかまで話していく。春夫が、聞いたことがある話が七十パーセントを占めていたが、残りは記憶にないその生涯における逸話などだった。若冲は役人もしていた。その辺りの話に春夫は興味ないのだが、冴子は熱心に話して聞かせるのだった。 「佐伯君、ちゃんと聞く」 冴子が、学校の先生よろしく春夫を注意する。 明美は熱心に聞いている。塗り絵を楽しんでいる位だから、美術の分野が好きなのだろうと、と春夫は思う。 冴子のミニ講義は、明美とのやりとりを交えて、一時間余りが費やされた。 段落がついたのに 「楽しいひと時でした。ありがとうございました。私、帰りますわ」 と明美は、帰り支度に移った。 「また会いましょうね」 エレベーターホールで、明美は冴子の掌を両の掌で包みこんだ。 「ニューハーフクラブ、連れてってね。それと聖子ちゃんの歌もいつか聞かせてね」 「いいわよ。いつか、そうね、聖子ちゃんの歌はおふたりの記念すべき日に歌いたいわ」 曖昧な笑いでごまかすふたりに明美はエレベーターの中でにこやかに手を振った。 記念すべき日にどう反応していいか分からない春夫はその言葉をスルーした。冴子も同様だった。 部屋に戻った冴子が聞いて来る。 「明美さんて、兄弟とかいないの?」 「お姉さんがひとり」 「本名は、なんて言うの?」 「竹中友成、トモは友達のトモ、ナリは成立するの」 春夫は空中に成の字を空中にササッと書いた。 「タケナカトモナリ、実直そうな響きね」 「そうだね。知ってる人は、皆、会社では絶対呼ばないようにしている。当然、タイムレコーダーも西野明美」 「徹底してるんだ」 「うん、さっき、普通の会社に入ってよかった、って言ってたでしょ。夏休みに実家に帰るんだけど、お母さん昼間の会社に転職したってことだけで喜んだみたい」 「それは、そうでしょう」 「後で食べる」 春夫は二個めを食べられそうになくモンブランを冷蔵庫に入れる。 テーブルを向かい合わせてふたりは、意味もなく笑い合った。 「面白い展開だったね」 冴子が、笑顔で言った。 「えっ」 「巣鴨の地蔵通りで、佐伯君と冴子ちゃんが歩いているのを私が見つけてからの展開」 「ああ、だけど、エレベーターの前にいた時は本当にびっくりした」 「佐伯君の顔、私は怒りながらはっきり覚えてるわよ。口がはっ、ってなってた」 冴子は、明るいピンクに塗った唇を半開きにした。 「だけど、この部屋に戻るってよく分かったね」 「すぐにユーターンして後ついて行ったら、曲がるの見えたから、ダッシュで先回りしたわけ。昨日の暑さだったら、倒れてたわ。さっさと来いってエレベーターの前で怒ってた」 冴子は、笑った。 「あっ、いけない。忘れるとこだった」 そう言うと、ハンドバッグを探り、二つ折りにしたパンフレットを広げて春夫に渡した。 「川上達夫、川上まさ江、ふたりの芸術展」とあった。 「このふたり夫婦なんだけどね、私のお友達が、まさ江さんに中学時代に個人的に絵を習ってたんだって。今もお付き合いがあって、案内もらったんだけど、家族旅行と重なっちゃって出来たら行ってあげてって頼まれた」 「僕は、行けるよ。ご主人がステンレスアートで奥さんが絵画なんだ」 パンフレットには川上達夫の皴がよったティーシャツのようなステンレスアートと川上まさ江の風景画の写真が載っていた。 場所は、日本橋である。春夫の夏休みが終わる前の日に行くことになった。 「おいしい亭」から副店長にならないかという話がある、という話題の最中に「ごめん」と言いながら、冴子は佳ちゃんに携帯を入れた。 「五時、アアー、五時二十分にしてくれる?――えっ、会ったら話すわよ」 慌ただしく携帯を切ると「帰る」と言った。置き時計の針は四時を指している。 春夫は巣鴨駅まで付き合った。 「おいしい亭、どう思う?時給があがるのはいいんだけどね」 歩きながら、冴子は、春夫の部屋での話の続きをする。 「学業優先で考えるべきでしょ、当然」 「うん、本部にはっきり言ってみることにする。味噌カツ全国展開出来るかしらね?」 「僕は、味噌カツ好きだけどね」 春夫は答える。 アルバイト先の「おいしい亭」の話を聞きながら、春夫は、ふたりの関係が、今年の夏の休みも何事もなく終わる予感に包まれたのだった。
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