第五章 九月下旬~十一月中旬 7 7 「久しぶり」 「ああ、ご無沙汰しております」 明美は頭をさげた。 「普通のOLやってんだろう?」 「やってますよ。最高の人生送っています」 「そりゃあ、よかった。瑠璃のことだから、本当は、他のショーパブで踊るようになると考えていたけどね」 「残念でした。昼間のお仕事頑張っておりますわ。マスカットちゃんがいるからいいじゃないですか」 「ああ、彼女は素晴らしいショーダンサーになれるよ」 「ご満足でしょう?」 棘と棘が突き刺し合うような会話にアキラが割って入る。 「まあまあ、久しぶりなんだからうまくやってくださいましな、おふたりとも。瑠璃ちゃんと同じ会社の方とそのカノジョ」 「いらっしゃい。楽しんでいただけました?」 宍戸は,表情を崩し、にこやかに話しかけて来る。 「はい。ショーとっても綺麗でした。本格的なのに驚きました」 春夫は言いながら、宍戸の身体を無意識に観察していた。日焼けサロンで焼いているかの肌の色のその肉体が、見事に鍛え上げられているのが、Tシャツ姿からも伺い知れる。筋肉質、精悍、ぴったりだ。髭はあるが、鼻の下にあるいわゆるチョビ髭だ。 「ごゆっくり楽しんでいってください」 春夫と冴子に頭をさげると、宍戸は、「じゃあな」明美に向かって手をあげ背を向けた。「戻って来いよ」とは言わなかった。 その背中に向かって明美が声を掛けた。 「ユカリちゃん、元気?」 「元気だよ」 宍戸は、片手をあげて振り返ることなくソファの間を縫って歩いて行き、一番前の端っこのひとり用のソファに座った。 美穂子ママからは、感謝の気持ちを忘れずにと言われた明美だったが、一度もソファから立ち上がることをしなかった。 「アキラ、水割り、このふたりにも」 「私の分は?」 「どうぞ」 「了解」 水割りがそろったところで、もう一度の「乾杯」。明美は喉を鳴らして水割りを飲み干した。殺伐とした雰囲気が漂う席を和やかな場に戻したのは、アキラの巧みな話術のリードだった。美穂子ママが、こうなることを予期してアキラを席につけたのかも知れない、と春夫は思った。 「冴子ちゃん、ニューハーフクラブがどんなところか理解出来たでしょ?」 「はい」 「じゃあ、そろそろおいとましましょう。ママに挨拶して来るから待ってて」 明美が立ち上がるのを 「ねえ、ちょっと、短すぎない。もっと、いてくれてもいいでしょう」 アキラが引き止める。 「十分よ。挨拶して来る」 明美が、美穂子ママの方に歩いて行った。 「ユカリちゃんって?」 冴子がアキラに聞いた。 「恋敵(こいがたぎ)。これよ」 アキラは、言うとすぐに口に立てた人差指を口にあてがったが、それも一瞬で続けた。 「だけど、ママが何考えても無理だわね。瑠璃ちゃんは、ラウンジスリーには戻って来ないでしょう。宍戸も意固地なところがあるし」 と。 美穂子ママが、明美と共にやって来る。 「塚田社長によろしくお伝えください。それから、明美のことよろしくお願いいたします」 「本当に貴重な営業戦力ですから、これからもどんどん活躍してもらいます」 春夫は力を込めて、ダメ押しの答えを返したのだった。 十月半ばの夜の新宿は、長袖シャツでは涼し過ぎるほどに気温が下がっていた。 「本当に楽しめた?」 広い通りに出た時、明美が聞いて来る。 「もちろん、十分満足」 「ショーはきれいだし、アキラさんは面白いし、文句なしに楽しめました。ありがとうございました」 信号が変わったのに明美は、渡ろうとしない。 「私、ここからタクシーで帰る」 と明美が立ち止った。 「駅まで一緒に行かないの?」 「行かない。誤解しないでね。今日は、ふたりと昔の職場に来られて楽しかったし、全然不機嫌になってないからね。ただ、タクシーに乗って夜の景色見ながら谷中まで帰りたくなっただけ。冴子ちゃん、また、会いましょう」 言うと、向こうからやって来るタクシーに手を挙げた。 「じゃあね、ふたりの夜はこれからよ」 明美は、手を振ってタクシーに乗り込んだのだった。 「ラウンジスリーに明美ちゃんが戻ること心配しなくていいんじゃない?」 駅への道を歩きながら冴子が言った。 「そうみたいだね」 「ねえ、私の推理聞いてくれる?」 「どうぞ」 「ユカリちゃんもラウンジスリーで働くニューハーフだった。明美ちゃんとユカリちゃんが宍戸さんの取り合いになって、宍戸さんは、ユカリちゃんを選んだ。その結果、宍戸さんと明美さんの仲がぎくしゃくするようになって、明美ちゃんは、レッスン中も反抗的態度を示したりやる気のない態度をとるようになった。それが、明美ちゃんの普通の会社で働こうという気持ちの原動力になった。以上」 「筋は、通っている。そんな感じなのかも知れない。宍戸さんとユカリちゃん、一緒に暮らしているんじゃないかな」 「多分ね。だけど、日本は正式には、同性婚認めてないんだよね?」 「うん。だから、パートナーとしてね」 春夫は、答えた。 今夜の出来事が、明美の性転換手術に対する総合的判断のパーセントを変化させただろうか。春夫の襟元を秋風が過ぎて行った。 冴子のバッグの中からメロディーが流れ出た。 「うん、そう。――終わった。すごく綺麗で面白かった。――まっすぐ帰るわよ。じゃあね」 冴子は、携帯を切り、バッグに戻した。 「お母さん?」 「そう。駅まで迎えに来るって」 「その方がいい」 「あっ、おいしい亭からメールが来ている。来週は、大丈夫だよねって」 「父、危篤です」 「ない、ない」 交差点を渡ると新宿駅である。冴子は湘南新宿ラインで帰って行った。ふたりの夜は、これからよ、なんて展開にはならなかった。
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