第一章、五月上旬―五月下旬 1 文房具を主力商品とするフェルシアーノ株式会社の本社である。午後四時三十分、工場と配送センター、地方勤務の営業以外の社員が、「社長から話があるから」と召集された。 部課長が前に並び、それ以外の社員は総務、経理の机を取り囲むようにして、社長の登場を待っている。何の話なのか?多分、あの話かな、ということは皆の気持ちの中にあった。それは、入社が決定したというひとりの人間に関するものであった。 「営業部配属って間違いないんですよね?」 佐伯春夫は、隣の吉村係長に聞いた。吉村は、背が高く、がっちりした体格をしている。顔は角ばっているが、性格は丸みを帯びていて話しやすい上司である。 「らしいな」 吉村係長が、短く、小声で答えたその時、社長室のドアが開いた。 「ごめん、電話が一本入っちゃって」 高い声がフロアーに響いた。社長室に一番近いのが、総務、経理のシマだった。そんなに大きな声を出さなくても、である。 塚田弘社長は、年齢は七十二才、小太りの体形、髪は、ようやく七三に分けている状態にあるが、そのままに年々確実にせりあがりつつあった。 「悪い、悪い」 言いながら、塚田社長は、こちら向きの武井総務兼経理部長の隣に立った。 「知ってる人もいるかと思うけどね、来週から新入社員が来ることになりました。その件について社長からお話があります」 武井部長は、そう言うと、斜めに三歩さがった。 「ええっ、私の独断専行気味だったけどね、ひとり来週から入ってもらうことになりました。配属は営業部です。ただ、世間一般の概念からすると、特殊なケースと言える部分もあって、 説明しておいた方がいいかな、と思い集まってもらった次第です。いきさつから包み隠さず言うけど、ある知人に連れられてニューハーフのクラブに何度か行きました。なかなか刺激的であり楽しいところでもありました」 笑いが広がった。日頃から社長だからと言って威張ることもなく社員をなごませるのがうまい社長である。 ニューハーフ、造語であり、男性に生まれたけれど、女性の心を持った人間、春夫は、そんな風に理解している。 「そこで、お店をやめて、どうしても普通の会社でOLとして働いてみたいっていう人がいてね。ママから頼まれて話を聞きました。興味本位ではなく、昼間の勤めで頑張ってみたいという決意の固さを確認しました。それならば、と武井部長などと面接をしました。調度、二月に加田君が辞めて、営業が手薄になっていたので、もちろん、三田部長の意見も聞いて、営業部員として採用することに決めました。間違ってもらいたくないので、はっきり言っておきますが、人寄せパンダみたいな考えで雇うわけじゃないですよ。営業戦力としての雇用です。名前は、西野明美さんとしました。お店で使っていた名前とは違います。心機一転ということで、会社で使う女性名を本人に考えておいて、と言ってこの名前になりました。まだ、完全には女性になっていないけれど、うちでは、女性として勤めてもらいます。本人は、大変、乗り気です。ただ、皆さんのちょっとした言動などで思わず傷つくこともあるのでね。その辺り、十分注意してください。私からは、以上です」 塚田社長は、武井部長の方に首を回した。 「ええっ、科学技術も年々進歩しておりますが、我々の社会生活も変化しつつあります。皆さんも知っていると思いますが、多様性、BG、いや、LG」 言葉に詰まり、ポケットに手を入れる武井部長に部下の篠原課長が助け舟を出す。 「LGBTですか?」 「そう、LGBT、トランスジェンダー、マイノリティー、これからの会社は、こうしたことを十分に理解し、我々皆が心から受け入れる必要があります。西野さんの入社は、そういう意味でも大変意義あることと思います」 武井部長が広げた紙を読み上げるのに、春夫は、「本心かなあ」と思わずにはいられない。社内では、六十歳の定年まで残り二年のこの部長、保守的な考えの持ち主として知られている。今回のニューハーフの面接についても社長に強く言われて渋々だったという噂があった。 「特に営業の方に申し上げますが、西野さんは、普通の会社経験をもったことがない人なので、大変でしょうけどよろしく頼みます」 こちら向きに並んで話を聞く営業の三田部長に向かって首を曲げながら、武井部長は軽く頭をさげた。三田部長は、大きく頷くことで応えた。 「よろしいですかね。何か、これだけは、聞いておきたいってことありますか?」 「なんでもいいですか?」 企画開発部の椎野主任が手を挙げている。髪をぐちゃぐちゃするのが癖で、今日も毛先がアッチコッチに尖がっている。 「何でも、って常識の範囲でね」 武井部長が答える。 春夫よりもふたつ年上、個性的な社員で、変わった発想をすることでも知られているので、用心の先制パンチを放った形である。 「いえ、私としては、ごく平凡な質問です」 椎野は、負けじ、とカウンターをかましてから質問に移った。 「社長を連れて行った方と社長との関係、例えば取引先とかお友達とか、それと、西野さんが働いていたお店の名前を参考までに教えていただければ、と思うのですが」 「と、申しておりますが、社長」 「ヒ、ミ、ツ」 塚田社長は、茶目っ気たっぷりに一音、一音を区切って答え、再び、皆を笑わせる。 「ちょっと付け足すと、ニューハーフクラブの名前は、特例ですが、履歴書にも書いておりません。ただ、武井部長には口頭で言いましたが、忘れていると思います」 「完璧に忘れております。ええ、他に?」 「はい」 総務部経理係の刈谷係長が手をあげた。笑いは急激に収まっていく。 体格のいい五十代のベテラン女性社員である。簿記一級で、経理に提出する精算伝票など隙なくチェックされる。けっこうズバズバ言うので、社内的には、少しばかり怖い存在として知られている。 「二度は篠原課長に質問したと記憶していますけど、明確な答えが得られていませんので、この場で質問させていただきます。トイレについてです。今の社長のお話からすると、西野さんは、女性用を使用すると受け取れるのですが」 刈谷係長に名前を言われた篠原課長は、総務、経理兼任での課長、つまり刈谷係長の直属の上司である。 「社長、どうなのでしょう?先日お伝えしたのですが」 篠原課長が、苦笑いを浮かべながら遠慮気味に言った。黒縁の太い枠の眼鏡を掛けている。九時の始業だが、八時出社でビルの管理室から鍵を受け取るのは、ほとんどこの人である。総務の若い人の話だと、敬語と謙譲語の使い分けなどにも、やたら詳しいという。 「覚えてるよ。あれから考えたけど、化粧して、女性と同じ洋服着て、心は完璧に女性なのだから女性用でいいんじゃないの?お店じゃ普通に女性用使っていたと思うよ」 社長が答えると、。女子社員の間で、ざわざわ感が広がった。 「社長、女子社員達にとっては、そう簡単に割り切れることではないんですよ。デパートのトイレを利用するのとわけが違いますから」 刈谷係長は、きっぱりした口調で反論した。 仕事では頑固な所もある社長だが、ここは、ごり押ししなかった。 「じゃあ、ええっ、女子社員だけ集めて篠原課長の方で調整して。武井部長、彼に任せていいよね」 「けっこうです」 武井部長が答えた。 「篠原課長、西野さんは、面接の時、余程のことでない限り全て会社の方針に従います、と言っていたから。女性陣の要望に合わせていいです。それに対して社長の私が、とやかく言うことはないから」 「分かりました。じゃあ、これが終わったら十分後、女性の方全員、会議室に移動してください」 「他に質問ないですか?」 武井部長が、社員達を見渡し、 「なければ、この辺で」 と言い、それぞれが自分の席に戻っていく。 トイレねえ。刈谷係長の言う通りだ、と春夫は思う。デパートのトイレで隣り合わせるのとは全く違う。知った顔のニューハーフと呼ばれる人間が女子社員オンリーの場所に入って来るのである。幾ら女性の心を持っているからと言っても、抵抗があるはずだ。塚田社長は、まだ、完全に女性になっていませんが、と言った。あれは、明らかにミステークのフレーズだったと思うが、男性器の切除を済ましていない、という意味なのだろう。刈谷係長は、西野明美の女子トイレ使用に絶対反対を唱えるに違いない。 筆記用具を持った前の席の川田佐和子が立ち上がった。 営業部は、組織的には、ふたつの課から成っている。営業部営業課と営業部業務課である。営業課は外回り、業務課は受注が仕事である。佐和子は、営業課に属する唯一の女性社員である。入社二年目、面接で外回りを希望しただけあって、元気印という表現があたっている。なかなかの気の強さも持ち合わせている。 見あげた春夫の視線を佐和子の視線がとらえた。 「何ですか?」 「いや、川田さん個人は女子トイレ使用、賛成派、反対派どっちかなあ、と思って」 「さあ、どうでしょう?」 佐和子は、にんまり笑って少し離れた業務のシマの方に向かった。 「ノーだと思いますね。佐伯さんの予想は?」 右隣の松野が業務の方を見て言った。春夫より二年後輩の社員で、おっとりタイプである。新卒で入ったが、入社した時は今よりずっと口数が少なく営業でやっていけるかと思ったが、数字的には健闘している営業部員だった。 「全て、刈谷さん次第じゃないの?」 「でしょうね」 と松野。会話の言葉が省略されるのは、その場にいなくても、いるような気にさせる刈谷係長の社内での威圧感のせいかも知れなかった。 佐和子と並んで会議室に移動した業務の女子社員は、貫井夏子と東田奈々である。ふたりともてきぱきと仕事をこなすので、問屋や店舗からは評判がいい。気の強さがある佐和子、業務の仕事をてきぱきとこなす夏子と奈々だが、刈谷係長に対しては、反対意見など言えるはずがない。いや、総務部総務課、企画開発部のふたつのセクション、企画開発課とデザイン課にも女子社員はいるが、年齢的にも力関係でも刈谷係長が群を抜いて上である。簡単に決着がつきそうだ、と春夫は思った。 斜め前の席の瀬川主任が、言った。 「だけど、こっちだって、問題だよな。オシッコしてる最中に突然女性の姿をした人間が入って来たら止まっちゃいそうだな」 「確かに。男性と分かっていても緊張しますよね」 春夫の左隣の渡海が、答えた。 「日報、お待ちしておりまぁす」 横並びだが、瀬川主任と机を五十センチばかし離した吉村係長から声がかかる。 春夫は日報の用紙をファイルから取り出し、机の上に置いた。営業活動した日は必ず提出する義務がある。訪問先、訪問日時、内容や感想などの他にそれぞれに要した時間も記述する様式になっている。どこの会社においても、営業活動に日報はつきものだが、近年、パソコンで記入、上司に送るシステムが、普通ではないだろうか。けれど、フェルシアーノは未だに印刷した用紙に手書きで記入する。「文房具会社だから紙の報告書で続けようや」という三田部長の方針に基づいているのだ。「仙台サテライト」「名古屋サテライト」「金沢サテライト」「大阪サテライト」「福岡サテライト」の地方の営業担当者も手書きである。書き上げたら、ファクスで当日送る決まりだった。 日報は、係長に提出、判が押されて課長、部長と渡っていくが、課長のところでしばしば停滞する。 本日、春夫の最初の訪問先は、山手線、駒込駅近くの「藤木文具」だった。 文字を藤木まで書いた時 「やっちゃうか」 三田部長の声が春夫の耳に届いた。続いて「そうですね、佐伯君」という自分を呼ぶ営業部営業課と業務課の兼任の課長を務める木川の声があった。 「はい」 「ちょっと、打ち合わせテーブルで」 木川課長は、オフィスの奥に向かって歩いて行く。 春夫は、フェルシアーノの刻印が印刷された手帳とボールペンを持って木川課長の後に続いた。 2 本社社員二十数人の社員が使うには十分過ぎるスペースのワンフロワーには、みっつの打ち合わせに使われる場所がある。十数人が座れる会議室、主に来客用の応接間、ふたつのテーブルと八個のパイプ椅子が並べられたテーブル席。社員同士間の簡単なミーティングでは大抵このテーブル席が使われるので社員間では、「打ち合わせテーブル」の呼び名で通っている。八個のパイプ椅子があるのは、お弁当持参の女子社員達がランチタイムにも使用するからだった。 春夫は、西野明美が入ることによる営業の割り振りの件だろうと思った。二月に辞めた加田という社員の担当のかなりの部分を春夫が引き継いだのだ。受け持ちの問屋や店舗は地域によって分けられているが、加田の担当地域と春夫の担当地域が隣接していることもあってそうなった。明美が入れば業界初心者なので、まるまるかどうかは分からないが、加田が担当していた多くは明美の担当になるはずである。 三田部長も来て木川課長とひとつ置いた席に腰を下ろした。 「新入社員の西野明美さんの件で、あなたに重要な任務を与える」 木川課長が、言った。四十代半ば、端正な顔立ちを引き締めて、随分ともったいぶった言い方をして来た。趣味が社交ダンスだけあって、立っている時も座っている時も背筋がピンと伸びている。それがいつ言われたかは忘れたが、全日本の社交ダンス百位以内に入っていたと誇らしげに飲み会で話していたのを春夫は記憶している。フェルシアーノは、去年の春から社長の鶴の一声で男女とも特別ラフでなければ服装自由になった。営業部も例外ではない。けれど、木川課長は、毎日必ずスーツ姿にネクタイを忘れない。それも、同じ柄のネクタイには滅多にお目にかからない。 重要な任務?春夫が、全く予想してない言葉だった。横に座る三田部長を見れば微笑んでいる。木川課長より調度十歳上の五十七歳であるが、年齢よりずっと老けて見える。薄くなった髪が白髪のせいもあるが、顔に皴が深いのも老けさせている要因になっているのは確かである。 「何でしょう?」 「加田君から引き継いだ担当のとりあえず七割程度を速やかに西野さんに引き継いでもらう。それと、しばらくの間、西野さんの子守り役をしてもらうことにした。吉村係長には伝えてあるから」 「えっ、子守り役ですか?」 聞き返さずにはいられない。いったい子守り役とはどういう意味だ? 「西野さんは、これまで普通のサラリーマンの経験がない人だからね。君から営業活動といっしょにサラリーマンとして常識的なことを教えてあげて欲しいんだ。相談にも乗ってあげて欲しい」 「年齢が同じだったよな?」 三田部長が木川課長に視線を投げる。 「ええ、同学年です。子守り役にはドンピシャです」 木川課長が答える。 「はあ。来週から、すぐに、営業活動に同行の形になるんでしょうか?」 「いや、一週間の研修は予定している。工場や配送センターの人達への紹介とか仕事の流れについても勉強する必要があるから。それは、僕が段取りする。どこを引き継いでもらうかは、吉村係長の意見も入れて研修期間中に印刷物で渡します」 「だから、西野さんが、この人と営業活動するのは。再来週からだよね?」 「そうなりますね」 「面接の印象では、非常に素直そうだったけどね」 三田部長の言葉に、木川課長が、微笑みながら首を傾げた。優しい微笑みではなく、皮肉の成分がたっぷり混ざっているように春夫には思えた。 「とにかく、問屋さんとか販売店さんとかにフェルシアーノ株式会社としての変なイメージを与えて信用を落とさないよう西野さんを教育して欲しいわけよ。勘違いして欲しくないけど、僕は、差別意識を持ってるわけじゃないからね。西野さんは、ただ女性の心を持って生まれたというだけのことだと思っている」 木川課長の言葉には熱がこもっていた。 「誰も課長が、偏見を持っているなんて考えちゃいないよ。まあ、そういうことで、よろしくね」 三田部長は、にこやかに言い、繰り返し頷いた。 春夫には、「はい」しかないのだった。 「それから、営業同行中、西野さんのことは、出来る限り、ひとりの女性と考えて接するようにしてください。慣れるまでは、西野なんて呼び捨てにしないように」 木川課長がだめ押しをする。 「分かりました」 春夫は、答えたが、難しい注文のようにも思えた。一緒に活動していれば、どこかで、男性の顔を覗かせるのではないだろうか。そんな時でも、ひとりの女性として扱えるだろうか。自信がなかった。 それにしても、どうして、ニューハーフクラブから普通の会社に勤める気持ちになったのか。そこが、聞きたいところだ。春夫は、目の前のふたりの上司に聞いてみたが、三田部長も木川課長も本当に知らないようだった。 西野明美は男性トイレを使用であっさり決着がつくに違いないと思った春夫の予想は裏切られる結果になった。佐和子が席に戻ったのは、春夫が席に戻って三十分も過ぎた頃だった。既に、日報も書きあがっていた。 「揉めたの?」 「別に揉めはしませんでしたよ。やけに頑張る人はいましたけどね。それに刈谷係長の質問の件だけじゃないですよ。他にもいろいろ話し合いました」 佐和子は、答え「日報、急いで書かなくちゃ」と書類を広げた。もう、何も聞かれても答えませんからね、の姿勢に感じられた。女子トイレ使用についてやけに頑張る人がいた?驚きである。誰なのか、春夫には、まるで、想像がつかなかった。
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