第二章 五月下旬~六月中旬 4 4 大宮を目指す車が信号で止まるのを待ちかねたかに明美が聞いて来る。 「レイハナは、都内のお店には行ったことありますけど、大宮の八号店って大きいんですか?」 「大きいね。女性店長に会う前に店内をひと通り歩いて雰囲気つかんでもらうけど」 「はい」 明美は小気味よい「はい」を返して来た。 大宮まで、もう少しの所での信号待ち、春夫の頭の中にあるのは、助手席に座る明美をレイハナ八号店の長谷川店長に紹介する場面だった。絶対、忘れてはいないだろうな。 木曜日、長谷川店長の方から名刺に書いてある春夫の携帯に連絡があったことに発している。 「フェルシアーノさんのコーナーを作ろうかということになりましたのでお知らせしておきます」 長谷川店長は、しっとりと甘さを含んだ声で嬉しい知らせを告げてくれた。どちらかと言えば、スローテンポの話し方が時にしっとり感や甘さを感じさせるのだ。 即座に、春夫はアポを取り付けた。ここまではよかった。けれど、心が知れずに舞い上がっていたのかも知れない。 「新人を連れて行きますが、ちょっと驚かれるかも知れません」 余計とも思える言葉を付け加えたのである。 長谷川店長が、これに食いついて来た。 「ひょっとして、かなりのイケメンさんとか」 イケメン、どういう思考回路から発するに至ったのか、全く予知出来ないフレーズが流れて来たのだ。 春夫は、反射的に答えてしまったのである。 「イケメンもイケメン、半端ないイケメンです」 と。 名刺を入れを取り出した明美を横に「イケメンの西野明美です」と言うか、「新たに入りました西野といいます。すいません、イケメンじゃなくて」と謝るか。自分の言った言葉を忘れた振りをして黙って明美を紹介するか。春夫は、結論を出せないまま車のアクセルを静かに踏んだ。 レイハナ八号店は、大宮の駅から徒歩五分程のビルの五階にあった。相当な広さである。 入り口で顔見知りの女性店員がチラシを配っている。店員は、レイハナと書かれたオレンジ色のジャンバーにそれぞれの名前を書いたバッジを付けている。 「こんにちは」 「店長ですね」 「ええ、まだ。新人を今日連れて来ましたので。先にざっとお店の中を見させていただきます」 「ごゆっくり」 女性店員は、明美に視線を投げかけるとチラシ配りに戻った。 「確かに大きいわね」 「そうだね。だけど、文房具売り場が、入り口近くにあるのはいいんだけどね。西野さんだったら、最初にこっちに来る?」 春夫は聞いた。 「今は、フェルアーノの社員ですから、当然、こっちに来ます」 「半年前だったら?」 「そりゃあ、もう。あっち」 明美は、人差指をまっすぐ文房具売り場の向かい側に指を突き出した。 向かい側にあるのは、化粧品関係の商品だった。 レイハナは、総合雑貨商品の販売店という位置づけになるのだろうが、美容関連の商品も出していた。保湿効果をうたったハンドクリームが、ネットで大きく紹介されたこともある。ネイル関連や化粧用の刷毛なども種類を豊富に並べられていた。 春夫は、レイハナ八号店の文房具売り場の中を、明美を連れて見てまわる。手前の方に会社で使うファイリングシステム、その向こうにノート、ボールペン、消しゴム、などの筆記用具、ハサミやパンチや糊といった文房具小物、便せん、封筒、カードの類と並んでいる。 フェルシアーノの商品は、以前からレイハナの店舗に入っている。ファイルング関連、プラスチックの文房具ケース、もちろん、レイハナの店舗にふさわしい「大人の女性のためのペンケース」や「花柄文房具ポーチ」も並べられている。 これらは、現在、他の店舗と同様、用途別の分類の元に置かれている。 ファイリング関連は、中央部の棚に、プラスチック製文房具整理ケースの類、「大人の女性のためのペンケース」「花柄文房具ポーチ」は、壁際の細長い棚の上に離れて並べられている。 文房具売り場の前は広い通路になっている。その向こう側にカウンターに囲われた一角がある。レジが前面に並び、残りのスペースには、商品の検索などのためのコンピューターが数台、商品を包装するためのデスクなどが置かれている。 レジは、混んでいる時は店員が最大七人位並ぶこともあるが、今は、四人が並んでいる。 広い通路を渡ると化粧品売り場は途切れ、女性のスタイルを維持させるためのクッションや家の中でウオーキング効果が得られる電動器具などが並んでいる。その奥に家庭菜園やガーデニング関連のコーナーがあり、左に折れれば、旅行用スーツケースやビジネス鞄やバッグを並べたコーナーがかなりの面積を占めて続く。左に曲がると万能調理器や電気釜とか夏場に向かって売れて行くに違いない携帯用ポットのコーナーだった。食器類も豊富に並んでいる。 「大体、こんな感じのお店」 「分かりました。面積が広いだけあって商品もたくさん取り揃えられてますね」 「うん」 春夫は、カウンターで、長谷川店長を呼び出してもらおうと子供向けのゲームなどが並んだコーナーを斜めに塗って進むが、突然の明美の声に足が止まった。 「わっ、これいい」 ぬいぐるみコーナーで、明美が、ライオンの大きなぬいぐるみを抱き上げ頭を撫でている。二十六歳、戸籍上の性別は、自分と同じ男性。春夫からすれば、ここまで、自然体で無邪気になれるのが全くもって不思議だった。 「仕事中」 「すいません。ぬいぐるみ愛なもので」 明美は軽く頭をさげて照れ臭そうに頬を赤く染めた。 「二時半お約束なんですけど、長谷川店長、お願いします」 コンピューターを操っている女性店員に春夫は声を掛けた。 「ただいま参ります。イケメンさんが、一緒でしょう、なんて言ってましたよ」 女性店員は、春夫を、そして、明美に視線を移した。 「アタッ、美人に変更になったんだけど」 「イケメンだなんて言ったんですか」 明美が、抗議の声をあげた。声が大きい。 「えっ」 女店員が、口を半開きにしたまま、明美の顔を見つめる。 「ありがとうございます」 春夫は、急いでカウンターから離れた。 程なく長谷川店長が、ヒールの音を立てながら歩いて来る。相変わらずの柔らかな表情である。オレンジのジャンパーに明るいブルーのタイトスカート姿である。 「どうぞ」 軽く会釈して、ふたりを店長室に案内する。 名刺交換をする。 「今度、レイハナ八号店を担当することになりました新入社員の西野明美でございます。よろしくお願いいたします」 「随分の美人さんね。何か、お名刺交換した時の色っぽい視線にドキッとしちゃった。お声もとってもハスキーで」 「すいません。まだ、こちらの世界の仕事に慣れてないものでして」 「そうですか。えっ、こちらの世界?」 長谷川店長は、沈黙した。明美の顔を見つめている。ヒールを履いた長谷川店長と明美はほぼ同じ位の背の高さにあった。長谷川店長の視線は、明美の顔から喉仏の辺りに移動した。 「あのう、失礼ですけど。ああ、間違っていたらごめんなさい。すごく、女性らしさを感じますけど、ひょっとしてこの方、――」 ここで数秒の間を置き、長谷川店長は「かしら?」と続けた。 「はい、現時点の構造上は男性でございます。でも、気持ちは完璧に女性です」 明美は、答えた。 「構造上?」 「いい過ぎ。すいません、長谷川店長が期待していたイケメンでなくて」 「かまわないわよ。今の時代、トランスジェンダーの方というのが正しいのかしらね。お綺麗」 長谷川店長の顔が、ほんのりピンク色に変わった。 「ニューハーフでいいです」 「今後は、西野さんとお話を続けていけばいいわけですね」 「はい、しばらく、私もバックアップいたしますが、よろしくお願いします」 春夫は、軽く頭を下げ言った。店長室には、四人掛けのソファとテーブルがある。 「お座りになって」 と言うと、店長自らコーヒーを入れてくれる。 商談に入る。 「我社のコーナーを設けていただけることに前向きということで、ありがとうございます」 「フェルシアーノさんの商品、特にペンケースとかポーチとかうちの顧客層にマッチングしているように感じましたので、決定と受け取っていただいてかまいません。加田さん、佐伯さんおふたりの熱意も加味してですけどね」 「感激です」 「場所ですけど、当然、文房具売り場の一角になりますけど、此処にというご希望があれば出来る限り沿いたいと思っております」 「ありがとうございます」 春夫は,礼を言い、断られるかも知れないな、と思いながら商品ごとのコーナーにも商品を置いてもらえないか、と交渉する。 「いいですよ。それをお望みなら」 長谷川店長は、立ち上がり内線を入れた。 「現時点では、派遣社員の形ですけど、来月から正社員になる女性呼びましたから」 長谷川店長は、そう言ってソファに戻った。 「先ほど、こちらの世界とおっしゃってましたけど、これまでは?ごめんなさい、立ち入ったこと聞いちゃって」 「いいです。ニューハーフクラブです」 「売れっ子だったでしょう。これだけの美貌のニューハーフさん、なかなかいないんじゃありません、ねえっ?」 春夫に同意を求める。 「そうですね」 肯定的答えを返した時、ノックの音が聞こえた。 制服のジャンパーに紺のパンツルックの女性が入って来た。 「吾妻雛子さん、先月下旬にアルバイトで入ってもらったけど、来月から正社員になってもらうことにしました。頭の回転がいい人なので、十分働けると信頼しています」 「いえ、いえ」 謙遜する吾妻雛子に春夫と明美を紹介する。 来月には作り変えられるという名刺には、文房具売り場担当(アシスタント)吾妻雛子と書かれていた。長谷川店長の横に座った。 「それでね、アナタがアルバイトだったので私が対応していたけど、今度、フェルシアーノさん単独のコーナーを作ることにしたの。一番の理由は、ペンペースとポーチがコーナーを作ることでさらに売れるんじゃないかと判断したからなんだけど、場所をどこにしたら、なのよね」 長谷川店長は、売り場の地図が書かれた紙が挟まったプラスチック板をテーブルの上に置いた。 「ここが入り口、ここがレジカウンターです。どの辺りをご希望?」 入り口近くの文房具売り場が始める辺りでもいいが、レイハナ八号店に入った若い女性達は、まず、化粧品売り場の方に行きそうである。フェルシアーノのコーナーを設ける限り、流れの中での消費者意欲を駆り立てたい。 「ここかなあ。西野さんの意見は?」 春夫は、レジカウンターの後ろの通路側を指しながら明美の考えを求めた。広い通路の向かい側は、スポーツ器具売り場である。 「いい場所ですね。入り口の一番前に大きなワゴンを置いてもらって、もいいと思いましたけど」 明美が、自分の考えを言った。 「ああ、そこは、ちょっと無理。キャンペーン的に売りたい商品のためにスペース確保しておきたいの」 「でしたら、佐伯が言いました此処がいいと思います」 「分かりました。実際の売り場で確認した方がいいんじゃない?」 「そうですね。私達、そのまま帰らせていただきますので」 春夫は、ソファから立ち上がると鞄を持った。 場所的には申し分なかった。四角く囲ったレジカウンターの後ろには十分なスペースがある。 「この辺りにテーブル式のワゴンを置いて、レイハナ八号店でアピール出来そうな商品を入れればいいんじゃない?その隣に専用棚」 「ありがとうございます。それでけっこうでございます。加えて、天井からフェルシアーノ特設コーナーとかのパネルをぶら下げていただけると嬉しいです」 「うちは吊り下げパネルは商品の種類ごとにしているだけなので、ちょっと難しいかな」 「分かりました」 「ポップは作りましょう。吾妻さん、考えてさしあげて」 「挑戦してみます」 吾妻雛子が、答えた。 話がうまい具合に転がり、今日の訪問は、大成功である。 「今後ともよろしくお願いいたします」 丁寧に頭を下げた後、明美が、長谷川店長に微笑みを浮かべて小さく頷くのを春夫は見た。 「ああ、その視線。艶(つや)っぽい」 華やかに笑う長谷川店長の頬は、瞬く間に紅潮していった。今度は、ピンクを通り越して、レッドに達していた。 店長の乙女のような変化を吾妻雛子がびっくりした顔で眺めた。 先刻の光景を思い出しながら、下りのエレベーターで後ろに立つ明美に春夫は言った。 「店長、西野さんの艶っぽい視線に本気でドギマギしてたんじゃない?」 「そうですか?でも、優しそうな店長さんでよかったです」 「あのさ、二階に喫茶室あるから入って行こう」 春夫は、休憩を取ることにした。 三時過ぎのフルーツパーラー形式のお店は、けっこう混んでいた。窓際の一番奥の席が空いたばかりのようで、店員が片づけ作業を行っている。 春夫は窓際が好きなので、いつもなら、そこに向かうが、明美の地声が気になった。 「こっち行こう」 春夫は、周りの席が空いている壁側の席を選んだ。 「積極的に勧めることはしないけど、営業途中でカフェに立ち寄ること位していいからさ」 「了解しました」 春夫はコーヒー、明美はオレンジジュースを注文する。 「疲れました?」 「神経的にはちょっと。でも、全然、大丈夫です」 「まあ、焦らずにいきましょう。木川課長も少し気にしてたことだけど、興味本位で見られるの嫌じゃなかった?パピルの佐野店長とか随分露骨だったけど」 「その辺は、覚悟して入社してますので、平気です」 「よく分からないけど、夜の世界の方が稼げたでしょ?うちなんか、大企業みたいな給料をもらえる会社じゃないし」 「そりゃあ、もう。稼ぎだけなら、そうだけど」 「だけど、いろいろあって転職したわけだ」 「はい、いろいろあって」 「いろいろね」 「いつか、お話し出来る時が来たら子守りの佐伯さんにはお話ししますわよ」 「無理しなくていいからね」 「優しいお言葉」 明美は、少し顔を倒し、流し目のような視線を投げかけた。色っぽい。自らの女性を意識していなければ絶対に出来ないものだ。長谷川店長が、先刻、指摘したのもこの視線だったに違いない。春夫は、照れくさい気分になり、思わず下を向いた。 若い女性の客ふたりが斜め前の席に座った。 明美は、会社に帰ってからの日報に関して、具体的にどう書いたらいいのかを聞いて来た。 仕事の話なので、明美の声が大きくならないので安心したのも、ほんのひと時だった。 「ちょっと、おトイレ」 明美が立ち上がった。 「女性用?」 小さな声で聞く春夫に 「失礼ねえ。あたりまえでしょう。私、女の子ですよ」 明美はハスキーな大声で答えた。 女性であることをことさらに強調するようにタイトスカートのヒップを左右に揺らせて、トイレに向かうのを斜め前の席の女性達の視線が追いかけているのが分かった。 トイレに向かう明美の時は、向こう側の女性が振り向いたが、今度は手前側の女性が振り向いた。オネエの相手をするのはどんな男性なのかという風に、である。 まずったな。「女性用」とか聞かなきゃよかった。 クスクス笑いに春夫は、自分達のことを笑われているのでは、と思ってしまう。 明美が戻ると早々に席を立ったのだった。
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