第五章 九月下旬~十一月中旬 3 3 ラウンジスリーは新宿二丁目にあった。 当日、春夫と冴子と明美は午後六時に新宿東口の出口近くで待ち合わせた。 階段を上がり周りを見渡していると「ハルくーん」という明美の声が彼を呼んだ。長袖の萌黄色のセーターにピンクのフレアースカート姿の明美の姿が五メートル程先にあった。 「シャツだけで、寒くないの?」 「ちょっと涼しい」 春夫は、答える。 昼間、買い物に出た時に暑さを感じたのでジャケットを着ることなしで部屋を出たのだが、「夕方から夜にかけて急に気温が下がります」という朝の天気予報を新宿駅のホームに立った時に思い出した。 「風邪ひかないでね。冴子ちゃんは横浜から直接?」 「そう。ばっちり決めて来たね、メイク」 春夫は、言った。 明らかにメイクは会社で見るより濃いめであった。クルンと巻いたつけまつげが目元をパッチリを演出している。 「メイクだけじゃないわよ。ネイルも決めて来たわよ」 明美は手の甲を春夫にかざした。十本の指に大胆な幾何学模様の、ネイルチップがほどこされていた。 「すげえ、お店にこれ付けて出ていたの?」 「たまにね」 明美が答えた時、「こんばんは」と冴子がやって来た。クリーム色のセーターにライトブラウンのジャケットにパンツ。つけまつげやネイルチップこそつけてないものの夜の時間帯を意識したメイクをしている。 「お久しぶり。元気そうね」 「元気ですよう」 「おいしい亭、父危篤とか使ったの?」 「使いません。今日はお招き預かりましてありがとうございます」 「そんなに感謝しないで。こっちも頼むことあるから、ご招待したんだから」 「えっ、やっぱり裏があったのか」 春夫が言い、冴子と視線を合わせた。 「裏、嫌な言葉ね。大したことない頼みごとよ。ラウンジスリーでもお食事出来るけど、私が、贔屓(ひいき)にしていたとこに付き合ってくれる?」 もちろん、ふたりともオーケーである。 「貝は大丈夫よね。生じゃなくて熱を通したものだけど」 「大丈夫」 「私も」 「じゃあ、ちょっと待ってね」 明美は携帯を取り出した。 「私、ルリちゃんです。これから行くから」 明美は、どこかに予約を入れた。 「ルリちゃん?」 「言ってなかったっけ?」 「一度聞いたけど教えてくれなかった」 「そうだった?忘れた。私の店での源氏名。瑠璃、ママが最初ルリって片仮名でしめしたんだけど、松田聖子の『瑠璃色の地球』が頭に浮かんで来て漢字にしてもらったの。行きましょう」 明美は、歩き出した。信号を渡り、細い道を通り抜けて広い通りに出る。向こう側に渡ると右側に進んで行く。 「ああっ、久しぶりの新宿、谷中とも神田とも違う空気。味の違いをはっきり、感じるのよね」 「分かる。私も名古屋から横浜の実家に帰ると空気が違うなって思う。実際に空気の成分も微妙に違うのかも知れないけど、景色の力が大きいと思う」 「景色の力?そうかもね」 明美は、冴子の言葉に同調する。 十分程歩いた場所に目的のお店があった。「ミリー」という名前のパエリア専門店だった。 ビルの二階への螺旋の階段を上って行く。 「こんにちは」 と言いながら明美は入り口のドアに取り付けられた太い金属製の棒を押した。 「随分、ご無沙汰だったじゃない、瑠璃ちゃん」 白いブラウスに臙脂のスーツ姿の女性が出迎えた。 「うん、なかなか来れなくてね」 「こちらにどうぞ」 一番奥の「予約席」のプラスチックプレートが置かれた窓際の席に案内された。 水が置かれる。 「新しいお店に入って同伴とか」 「違うわよ。私が今勤めているカンパニーの同僚の人とその彼女。こちら、ここのオーナー」 「よろしくお願いします。えっ、普通の会社に勤めているの?」 「そうよ。フェルシアーノって文房具の会社」 「ええっ、びっくり。ちゃんと勤めています?」 「あたり前でしょう」 「凄く優秀な営業マンじゃなくてレディです」 「わざとね。こちらいけずな男。このかっこいい女性は、ここのオーナー」 「お飲み物、何か?」 笑顔でオーナーが聞いて来る。 ワインを三つ註文する。 春夫は、ふたりを誘った明美の裏がどうにも気になる。それは、冴子も同じだった。 「裏って、すごく面倒くさいことじゃないんですか?」 ワインの乾杯が終わってすぐに冴子が明美に聞いた。 「全然。ハル君に私がフェルシアーノで日々張り切って仕事をしているってことをママに言って欲しいのよね。出来れば、営業部の貴重な人材であることもね」 「それだけでいいの?」 「そうよ。むずかしくないでしょ?」 「日々張り切って仕事をしているのも、営業部の貴重な人材なのも本当のことでお安い御用だけど、ママから戻って来いって言われてるわけ?」 「ウーン、九月に入ってから会社に時々電話がかかって来るようになったの知ってる?」 「ヒロタさんとかいうニューハーフっぽい人から時々電話があったのは、会社でチラホラ聞いた」 「それ。ラウンジスリーのママ、美穂子ママっていうんだけど、本名の姓がヒロタ。『そろそろ踊りたくなったんじゃない』とか言って来るようになったのよ。個人の携帯の番号は変えたし、会社用の携帯の番号についても塚田社長に聞かれても教えないように頼んでいたので、会社にかけて来るより仕方なかったんだけど。会社に何度もかけられても困るから、今は、教えてるけどね」 「それで、断っていたけど、簡単に引き下がってくれそうにないから、僕達の協力を仰ぎたいってわけね」 「まあ、そんなところかな。ただ、今回の表向きの形は、踊りのセンスが抜群にいい有望新人が入ったのでその子を見て欲しいという美穂子ママの依頼を私が引き受けたということなんだけどね。それに六年間もお世話になったお店でしょう。遊びにいらっしゃいというのに幾度もすげない返事を続けられないでしょう」 「そりゃあ、そうだ」 これには、春夫も同意する 「もう少しでパエリアお持ちします。これ、サービス」 大き目の木のボールに入ったサラダが、それぞれの前に置かれた。 「有望新人を見て欲しいというのはあくまで口実ってことも考えておいた方がいいと思うよ」 サラダを食べる手を止めて、春夫は、率直な気持ちを言った。 「うん」 明美は、頷く。 パエリアが運ばれて来た。黄色のライスの上に頭の部分だけ殻がついた大ぶりのエビとムール貝が乗っかっている。春夫も冴子も初めて食べる料理だった。具もおいしければライスも食が進む味付けだった。ひと時、明美の話がどこかに吹っ飛んだ。それぞれの深いお皿がほとんど空になりコーヒーがテーブルの上に置かれる。 冴子は、春夫が「すげえ」と言った明美のネイルチップに大いに興味を抱いた。購入法とか付け方やはがし方についてなどいろいろ聞いた。明美が、丁寧に質問に答えるのに、春夫は、しばし蚊帳(かや)の外となった。 明美はいいが、冴子に名古屋での生活でつけて欲しくない。 「君には似合わない」 春夫は、つい言ってしまった。 「失礼ねえ」 「違うのよ。ハル君は、冴子ちゃんが魅力的になるのを恐れているだけ。行きましょうか」 明美が、ハンドバッグに手を伸ばした。
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