第四章 八月上旬~九月中旬 3 3 上野から谷中までは、タクシーで、すぐだった。北口を出て谷中商店街の手前を左に進んで行く。さほど、寂しい場所でもなかった。 明美の新しい家は、五階建ての薄い黄緑色のコンパクトな印象を与えるマンションだった。 「街灯に照らされたこの感じ好きなのよね」 明美は、建物を見上げて言った。 「大丈夫よ、ちょっとあがってって」 「本当に変なことするなよ」 「築何年?」 「二年とか不動産屋さんは言ってたわね」 「新しい」 エレベーターで三階にあがり二番目が明美の部屋だった。 「座って」 明美は、ダイニングの椅子を春夫にすすめると、木の引き戸が開け放たれたリビングの明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れた。 「麦茶でいい?」 「うん」 大きめのコップに入れた麦茶が春夫の前に置かれた。半分ほど飲んだところで春夫は立ち上がった。 「お部屋拝見」 春夫は、リビングの方に移動した。 「どうぞ。じっくり、ごらんあそばせ」 一気に部屋が明るくなった。 ピンクのカーペット。全く、ピンクが好きだ。大型テレビが、窓際に置かれ、テレビを観るのに調度いい場所に、どんな座り方をしてもすっぽり身体を沈めてくれる今流行りの葡萄色のぐったりクッションが置かれている。上にコケシやぬいぐるみを置いた本棚、ノートパソコンを載せた幅が狭いホワイトのデスク、キャスター付きの椅子があった。カーテンは、明るいブルーである。 「やっぱり、女性の部屋だよね」 「そうかしらね。後で見せてあげるけど、寝室の方が、この部屋よりもっと女性的だわよ」 「まさか、女性用下着が散らばっていたりしないよね」 「散らばっているかもよ。ベッドの上には脱ぎ捨てられた可愛いベビードールとかがあったりして、ハル君その気になっちゃうかも」 「帰る」 「冗談よ」 「だけど、西野さんは、あれだね。エンターティナーとしての才能が本当あるね。ヨシノの時も感じたけど、今日のバラード聴いてますますそう思った」 春夫は、ダイニングの椅子に戻ると言った。 「嬉しいけど、だから、さっさとニューハーフクラブに戻りなさい、とか暗に言ってるんじゃないでしょうね」 「違う、違う。今、あなたに辞められたら、フェルシアーノにとって損失大だよ。積極性が他の営業部員にも間違いなく刺激になってるしね」 「夏休みうちに帰ったら、ハル君のこと家族に話すわ」 「変なこと話さないでよね」 「そこは、責任持てませんわ。まあ、悪いことは言わないつもり」 「お父さんとお母さんにどんな仕事しているのとか、パンフレットを持って帰って、製品説明とかしたら、絶対に喜ぶと思う」 「そうする。あっ、ヨシノでは脚色したけど、ハル君って間近に見ると本当に可愛いかも」 明美の顔が、テーブルの向こう側からグイッっと近づいて来る。 「可愛くない。僕のことはいいから塗り絵見せて」 「逃げたわね。取って来る。ねえ、ニューハーフの寝室本当に見たくない?」 「見たいけど、先に何もしないって約束して」 「いいから」 明美が、キッチンのガラス戸を開けて手招きするのに春夫も続いた。 四畳半の畳の部屋である。リビング以上に女の子を感じさせる寝室だった。小さな窓に、紫色に白い線で家や水車が描かれているメルヘンチックなカーテンがかかっている。ドレッサーの上には化粧品が並び、その前に丸い椅子が置かれている。 ベッドは、セミダブルのサイズでピンクの下地にホワイトの華やか模様の洋がけが掛けられている。 「ねえ、単なる押し入れっぽいでしょう」 無地の唐紙を明美は指さした。 「違うの?」 「ジャジャーン」 明美が開けると、真ん中で完全に仕切られている。左側はギャビネットになって洋服がつるされる作りになっている。下の方に二段の引き出しがついている。 「よく、考えたわよねえ。左半分を押し入れにして右半分を洋服掛けと引き出しにするなんてグットアイディアよ。塗り絵は、二段の引き出しの下の段に収まっていた。 数冊を手に持つと 「アッチの方が落ち着けるんでしょう?」 明美は蛍光灯の紐をひっぱり寝室を暗くし、ダイニングに戻った。 「世界シリーズ、花」「世界シリーズ、建物」「世界シリーズ、庭園」などの塗り絵本をダイニングのテーブルの上に並べられる。 春夫は、塗り絵が大人の間で人気なのは知っていたが、書店でそうした本をめくったこともなかった。鉛筆のデッサン画のようなものであるが、実に細かく黒い線で描かれている。 「想像したよりすごい」 「そうお?子供の塗り絵みたいなの想像したんじゃない?」 「隣のページに見本があってそれと同じように色を塗っていけばいんだと思ったから」 「そういうのもあるわよ。高齢者施設で認知症予防にやってるなんてのは、構図も簡単で、そういう感じだと思う。私が、今、やってるのは中級レベル、この塗り絵は、こんな風に見本の写真がついているけど」 明美は、「世界シリーズ、花」のページの最初の方をめくって見せる。塗り絵に使われている花の写真が掲載されているが、「あくまで見本です。あなたの感性で色を塗ってください」の言葉が添えられている。 「私が、今、はまっているのは、これね」 明美は、春夫に大判の一冊の塗り絵本を手渡した。 「塗り絵、素敵なファッション」と表紙に大きな文字がある。様々な洋服を着た女性達の姿があった。それもギャル風な若い子から高齢者まで年代もいろいろである。 「これは、見本も何もないの」 「ご自由に、か。配色のバランスがよくないといけないよな」 「ファッションセンスが試される感じ。塗ってから完成したのを見てだめだな、って思うとがっかりしちゃう」 「だけど、綺麗に塗ってるね。色鉛筆」 「大体は、ね。五十四色の色鉛筆セットを思い切って買った」 「五十四色?」 「うん、かなりの色をカバー出来るけど。塗り絵のハウツー本読んだら、水彩絵の具とかクレパスとかと併用することで、素敵さがアップすることもあるって書いてあったので、最近、挑戦してる」 「休みの日の二、三時間なんてすぐ過ぎちゃうね」 「そう思うでしょ」 尚も塗り絵本をパラパラめくっていたが、「そろそろ帰ろうか」という考えが春夫の頭をよぎった。それを察したわけでもないだろうが、「ちょっと、待ってて」明美が、寝室に再び向かった。 持って来たのは、一冊のアルバムだった。 「フェルシアーノに入ってから一度も観てないアルバム、特別に見せてあげる」 そのアルバムには、明美のニューハーフクラブでの写真が、貼られていた。 リクエストに応えたものだろうか。お客さんと並んで写る写真やらショーで踊る写真が何枚もあった。あでやかな着物姿もあれば、白のフリフリがついたビキニみたいな衣装を着けた姿もあった。 これって、と思った写真があった。肩の部分に鳥の羽が飾られたようなセパレーツの舞台衣装を着けてニューハーフ達が並んでいる。女性、それもかなりの美人と言える人間もいたが、無骨という言葉がぴったりのニューハーフもいた。顔も肩回りも脚の線もどこからどこまで男性という感じである。こちらは、実際の写真なので鮮明である。 春夫の視線が十四,五人並んだ中央で止まった。 傍らにいる明美の表情と見比べる。 「分かった?」 「これ?」 「あたり」 「やっぱり、センターで踊ってたわけだ?凄いじゃない」 「まあね。私のリズム感とか踊り、お店じゃ特別だったわよ」 それにしても、衣装を着てニューハーフ達が並んだ写真は、パピルの佐野店長が見せたカラーコピーに実に似ている。明美のために否定したが、あれは、やはり、明美ではなかったのか。ラウンジスリーという名前が、春夫の頭にはっきりこびりついている。 「本当にラウンジスリーじゃなかった?」 「違います。佐野店長には、そこまで言わなかったけど、ラウンジスリーもショーでは有名なお店だったわよ。だけど、私のいたところの方が踊りのレベルとか高かったわ。ショーダンサーとして胸を張れるニューハーフが幾人もいたわよ」 「そんなレベルの高いお店でセンターを踊っていたのにやめたんだ。踊ることは好きだった?」 「モチのロンよ。それは好きだった」 だったら、なんで? お客の中に精悍な筋肉質の男性がいたが、他のホステスに取られたとかだろうか。得意客を取った取られたでニューハーフ同士が殴り合いの喧嘩をしたとかの記事を読んだ記憶が春夫の頭の中にあった。 嫌な記憶を明美に思い出さすのはやめよう。口をつぐんで写真を眺めることにした。 着物姿、山高帽をかぶってステッキを持っている姿、ラインダンス風なのもある。明美の美貌が、夜の光線の中で輝いている。 「ありがとう。じゃあ、そろそろ帰ります」 「あら、帰っちゃうの?遠慮しないで泊まっていけば?」 「遠慮します」 「ねえ、明後日の日曜日、巣鴨に行っていい?私、おばあちゃんの原宿とかいうとこマジ興味あったのよ?」 「いいけど、本気?」 「本気。確か、お地蔵さんがあるのよね」 「そう、とげぬき地蔵尊と一般的には呼ばれている。お寺の名前としては、高岩(こうがん)寺」 「そこ行って、ランチしてハル君のお家の行く」 「えっ、家まで来るの?」 「そう、お家拝見」 「単なるワンルームマンションで、普通の部屋だよ」 春夫は言ったが、明美は、それでいい、という。巣鴨の改札口で十一時待ち合わせ、都合が悪くなったら携帯で連絡する、になった。 春夫がマンションを出た時、上から声がかかった。 「ハル君、おやすみ」 恥ずかしさもあるが、日付を跨いだ時刻でもある。春夫は、無言で軽く手をあげ、歩き出す。さすがに、昼間の暑さは、随分と和らいでいる。 タクシーのシートに寄りかかり、車窓を流れる景色を眺めながら、春夫は明美のことを思った。一日で自分と明美の距離が急激に近くなった気持ちになった。 日曜日には、明美の方が、巣鴨に遊びに来る。自分の部屋にも来たいという。 だからと言って、――そんなことないよな。ありえない。自分には、冴子がいる。春夫は、首を振った。 シャワーを浴び、ベッドに入った春夫の視線は自然と壁にかかったカレンダーに行った。冴子からプレゼントされた若冲の作品が印刷された大きめのカレンダーである。 八月十一日、十一時に巣鴨で明美と待ち合わせ。明後日で忘れるわけはないのに、頭の中で反芻する。彼の視線は、十四日に移る。フェルシアーノの夏休みが始まる日である。明美は、この日に山梨の実家に帰る。昼間の仕事について安心している両親に肉体的に完全なる女性になる決心を伝えることになるのだろうか。黙っていればすむことだ。本当にそれでいいんじゃないか。けれど、もう何も言わないでいよう。性同一性障害に向き合ったことがない自分が、たくさんの心の葛藤を経験して来た明美に助言する資格などない。 春夫の視線は、十四日から十三日に一日戻る。冴子は、「おいしい亭」からどんなに引き止められてもこの日に帰るつもりだといった日である。まだ、どこかに行こうとか決めてない。夏休みの間、二週間は、こちらにいるつもりだ、と春夫には話していた。 深い関係になってないふたりである。キスまではいっても、その先になかなか進まない。 出来れば、冴子が帰るまでにシタイと春夫は考えていた。 うまくいく作戦はないかと考えている内に、春夫は眠りに落ちていった。
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