第四章 八月上旬~九月中旬 7 7 一週間後の四時過ぎ、春夫と冴子のふたりは日本橋にいた。 冴子は、会った早々、地下鉄の構内で春夫のために購入した物を「プレゼント」と言って手渡した。折り畳みの日傘だった。 「佐伯君に日傘男子になって欲しいから買った」 冴子は言った。 春夫は、日傘があると体感的に数度違うというのは知っていたが、余り長い距離を歩くことがないのと照れ臭さみたいな気持ちもあって買わなかった。生まれて初めての日傘体験は確かに随分と効果を感じさせた。 「ねえ、画廊に入ったらひとつひとつの作品に熱心さを持って鑑賞してくれなくちゃだめだからね」 と、冴子が言った。 以前、有名な画家の美術展にも冴子と一緒に行ったことがあるが、ふたりの鑑賞のペースがまるで合わなかったのだ。次の絵に向かう春夫の速さに「信じられない」と言う冴子に「絵を全体として捉えて自分の感性と対話させるのが、僕の鑑賞の仕方。そんなに時間はかからない」と理屈っぽく主張したが、「到底対話しているとは思えないんだけど」と反論されただけだった。 「努力してみる」と答えれば「努力じゃだめ」と言われそうなので、「了解」と短く答える。 「川上達夫、川上まさえ、ふたりの芸術展」という達筆な墨字で書かれた立て札が、会場入り口の横にあった。 ドアを押して入ると机がありふたりの女性が並んで座っていた。 冴子が、名古屋の大学院の友人の名前を言うと 「ありがとうございます。夕子ちゃんから、今年は前から予定していた両親とのハワイ旅行のためいけませんって連絡ありました。代理に行ってとか頼まれていませんよね」 半そでのサマーセーターにパンツ姿の女性が言った。 「全然。自分の中学生の時に絵を学んだ先生がご主人と個展を開くから、ってパンフレットを渡されて、絵画鑑賞好きですし、ステンレスアートにも興味あったので来ました」 冴子は答えた。 「安心しました。暑い中、ありがとうございます。狭いところにステンレスアートと絵が一緒に飾られていますので、足元などご注意くださいね」 と川上まさえが言った。 芳名(ほうめい)帳に住所と名前を書くと、それぞれにパンフレットが手渡された。 ギャラリーは、ほぼ真四角だった。そこに絵がグルリを壁にかかって展示され、普通の絵画の個展なら空間である所に適当な間隔を置いてステンレスアートが置かれているのだった。中央に他の作品より背の高い作品が飾られているが、前に置かれた長椅子に座って川上達夫に違いないオレンジっぽいTシャツとジーンズを履いた中年男性が杖をついた高齢の男性と話している。 絵画から観ていくことにする。油絵で風景画がほとんどだった。鎌倉だったり軽井沢だったり、海外に飛んでイタリヤのミラノだったり、フランスの農村風景だったり、ひとつの地域で五、六枚ずつが描かれていた。明るい色彩からなる絵が多い。 ゆっくり鑑賞しているつもりなのだが、この日も同じ、春夫は、どの絵に対しても冴子より早くその場を離れている。三枚目の差が出来そうになった時、「佐伯君」という冴子の小声が春夫の耳に達した。 振り向いた春夫に「速い」と言った。春夫は、稲村ケ崎と題名を付けられた絵を前に冴子を待った。 後から入って来た単独男性が、ふたりを追い越し差がどんどんとついていった。「君が時間をかけ過ぎるんだ」と言いたい気持ちもあるが、喧嘩はみっともない。春夫は、ペースをじれったさを感じるほどゆったりさせた。 川上達夫のステンレスアートは、抽象的な作品と具象的とも言える作品が混ざり合っていた。抽象的な作品は、形的には、どれも駅前広場とか街中に置かれているのがふさわしそうな作品である。具象的な作品は、皴がよったティーシャツ、バターを乗せた食パン、といった作品だった。中央の背の高いステンレスアートは、様々な大きさの半円状の形の物が、 空間で重なり合っている作品だった。 川上まさえが、やって来て、「アナタ、夕子ちゃんの大学院のお友達とお連れの方」と言い、髭のステンレスアートの夫を紹介した。 「ああ、夕子ちゃんの。ありがとうございます。ごゆっくりしていってください」 と、にこやかに頭をさげた。 近くで見ると、実にたくましい体つきをしている。筋肉トレーニングをしているためなのか、ステンレスアートに取り組んでいる結果なのか。 すっかり意識の外にあった人間が頭を掠めていった。明美の理想のタイプかも知れない。夏休み明けに会ったら、話すことになるだろう、と春夫は思った。 「これいい」 冴子が言ったのは、「四角いねじれた箱を持つ手」という題名が付けられて作品だった。箱のねじれ具合が絶妙で見飽きない造形だった。春夫も同感だった。どれかひとつを選ぶとすれば、自分もこれを選ぶだろう、と思った。 「暑い中、ありがとうございました」 川上まさえが、出口で挨拶するのに 「あの川上さんの後輩、アザミ美術大学油絵科卒の人が、私の会社でデザイン担当しています」 春夫は、言った。 冴子から今回のパンフレットを初めて見せられた時、アザミ美術大学油絵科卒、という文字があり、矢野主任が確か同じ大学と思い、吉村係長にそれとなく聞いてみた。大学だけでなく、矢野主任も油絵科卒だったのだ。 「そうなんですか、幾つ位違うのかしら?」 「多分、六年位かと思います。うちのデザイン課にいて、ヒット商品の絵柄を考案しました」 「そうなんですか。それってどんな商品なんですか」 「ペンケースです。波と渦が入り混じっているような。大人の女性をターゲットにしたものです」 「ひょっとして、ひょっとして」 川上まさえが、黒の大きなバッグの外ポケットからフェルシアーノの「大人女性のためのペンケース」を取り出した。 「これかな?」 「ああ、これです。開けるとフェルシアーノの文字があるはずです」 「ある。いい感じだなあ、って確かレイハナで買ったと記憶してます」 「ありがとうございます。レイハナは、お得意さんです。もし、娘さんいらっしゃったら、動物の絵柄の文房具ポーチが近いうちに発売されますので、こちらもよろしくお願いします」 「娘はひとりいます。レイハナでもその商品扱うんですよね?」 「はい」 「フェルシアーノの動物の文房具ポーチ、インプットしました」 「花柄は、既に販売中です。すいません、営業しちゃって」 「いえいえ」 川上まさえは笑い、冴子の方に向かって言った。 「夕子ちゃんに元気で頑張るようにお伝えください」 「はい、伝えておきます」 ふたりは、画廊を出て、夏の陽ざしを浴びる中、日傘を広げた。 「よかったね。やっぱり嬉しい?自分の会社の製品を持ってる人見ると」 「そりゃあ、嬉しいよ」 「センス、いい人なんだね。デザイン考えた人」 「ペンケースの名前にぴったりの大人の女性って雰囲気の人。ミステリアスな部分があって、僕は余り話したことがない」 「フーン。まあ、佐伯君には、ハル君なんて呼んでくれる明美ちゃんが調度いいわよね」 「なんだそれ」 「ラーメン食べたい」 冴子は言った。 「じゃあ、ラーメン食べて。立ち飲みバーでちょこっと飲んで」 「立ち飲みバー?酔わせちゃ嫌だからね」 「了解」 春夫は、答えた。思い付きで言った立ち飲みバーだが、ここは、日本橋である。果たして、地下鉄の日本橋駅の近くにあった。 ふたりして味噌ラーメンを食べ、立ち飲みバーで軽く飲む。その間、春夫の頭の中で「チャンスは逃すな」という言葉が幾度も点滅した。 「明日で、佐伯君の夏休み終わりでしょう。出来る限り付き合いますわよ」 冴子が、ほんのり頬を染めた表情で言ったのに春夫は「黙ってついて来て」と言った。 地下鉄から山手線に乗り換える。 鶯谷で降りた時「だと思った」と言った。でも、帰ろうとは言わなかった。 北口のラブホテルに入った。バスは後回しにした。照度を落とした部屋の中で冴子はさっさと下着姿になりベッドに入った。ぎこちないセックスだった。 「久しぶりで慣れてないもので」 春夫は言い訳がましく言った。 「私だってそうよ」 冴子は、怒ったように言ってシャワーを浴びにバスルームに消えた。 鶯谷の駅に着くまでの短い時間、冴子は、再び、明美の話題を出して来た。 「明美ちゃん、お父さんとお母さんとどんな話してるかなあ」 「うちの商品のカタログとか見せて自分がどんな営業しているか話すんじゃないかな」 「お父さん、お母さんからしたら、専門学校卒業して間もない時から、ニューハーフのクラブで働いて来た息子が、突然、昼間の仕事に、それもOLとしてついたわけでしょう。喜ぶと同時にめちゃくちゃびっくりしたんじゃないかな」 「だろうね」 「ねえ、今日、私が佐伯君とこうなったのに、巣鴨での明美ちゃんと佐伯君のことが関係しているなんて、思ってないよね」 「あたり前だよ。あの日、君が巣鴨に来なくてもこうなっていた運命だったと思うよ」 「運命。大げさ」 冴子は、声をあげて笑った。 けれど、冴子とは逆方向の電車の中で、あの日、明美と巣鴨で会っていたことが、特別の関係に至るのに何らかの作用をもたらせたのかも知れない、と春夫は考えてもいたのだった。
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