赤坂ひかるの愛と拳闘
迷走する青春(8)

小説を栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

   ◇  事務の仕事を始めたとき、これこそ天職なんじゃないか、とひかるは思った。  電話を取ったり、伝票や送り状を書いたり、書類や郵便物やファックスを配布する。コピーをとったり、文書を作ったり、銀行にお使いに行ったりする。初めてやる仕事は、すべてが興味深く、新鮮で楽しい。  空調のダクトを作る会社だった。同僚ともすぐに打ち解け、ひかるはいきいきと仕事をする。事務の仕事に余裕があるときは、工場に行ってダクト作りを手伝ったり、配達に行ったりする。  今度の仕事は、土日がちゃんと休みになった。同じ時間に会社に行き、同じ時間に朝礼があって、同じ時間に席について仕事を始める。残業はそんなに多いわけではなく、たいてい同じ時間に家に戻ることができた。 「行ってくるわ。サキコとご飯食べてくる」 「はい、行ってらっしゃい」  学生のころと同じように母親に告げてから、ひかるは階段を降りた。裏の玄関から家を回り込むようにして脇に出る。停めてあるソアラに乗り込む前に、ちら、と家の一階を見やる。  ガラス張りの壁の向こうに、トレーニングするボクサーの姿が見えた。そのころ、ひかるの家の一階は、ボクシングジムに改築されていた。  札幌にバブルの余波が届いたのは、本州の都市部よりも少し遅れてのことだ。他の都市銀行より出遅れた北海道拓殖銀行は、無茶な融資を繰り返し、不良債権の種を膨らませていた。  後に北海道拓殖銀行は破綻するのだが、父のジムがあったビルのオーナーの会社が倒産したのは、それを暗示していたのかもしれない。  札幌の街中にあった父のジムは、移転を余儀なくされた。この際だ、と思ったのか何なのか、父は住んでいた家を大きく改築して、一階をジムにすることにした。そのころのひかるは、父としゃべることがほとんどなかったから、気付いたら家の一階がジムになっていた、という感じだ。  車に乗り込んだひかるは、ばたん、とドアを閉めた。縄跳びをするボクサーや、ミット打ちをするボクサーが立てる音は、ひかるの耳には届かない。  エンジンをかけると、入れっぱなしのカセットテープが回り、ユニコーンの「Maybe Blue」が流れだす。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません