◇ 事務の仕事を始めたとき、これこそ天職なんじゃないか、とひかるは思った。 電話を取ったり、伝票や送り状を書いたり、書類や郵便物やファックスを配布する。コピーをとったり、文書を作ったり、銀行にお使いに行ったりする。初めてやる仕事は、すべてが興味深く、新鮮で楽しい。 空調のダクトを作る会社だった。同僚ともすぐに打ち解け、ひかるはいきいきと仕事をする。事務の仕事に余裕があるときは、工場に行ってダクト作りを手伝ったり、配達に行ったりする。 今度の仕事は、土日がちゃんと休みになった。同じ時間に会社に行き、同じ時間に朝礼があって、同じ時間に席について仕事を始める。残業はそんなに多いわけではなく、たいてい同じ時間に家に戻ることができた。 「行ってくるわ。サキコとご飯食べてくる」 「はい、行ってらっしゃい」 学生のころと同じように母親に告げてから、ひかるは階段を降りた。裏の玄関から家を回り込むようにして脇に出る。停めてあるソアラに乗り込む前に、ちら、と家の一階を見やる。 ガラス張りの壁の向こうに、トレーニングするボクサーの姿が見えた。そのころ、ひかるの家の一階は、ボクシングジムに改築されていた。 札幌にバブルの余波が届いたのは、本州の都市部よりも少し遅れてのことだ。他の都市銀行より出遅れた北海道拓殖銀行は、無茶な融資を繰り返し、不良債権の種を膨らませていた。 後に北海道拓殖銀行は破綻するのだが、父のジムがあったビルのオーナーの会社が倒産したのは、それを暗示していたのかもしれない。 札幌の街中にあった父のジムは、移転を余儀なくされた。この際だ、と思ったのか何なのか、父は住んでいた家を大きく改築して、一階をジムにすることにした。そのころのひかるは、父としゃべることがほとんどなかったから、気付いたら家の一階がジムになっていた、という感じだ。 車に乗り込んだひかるは、ばたん、とドアを閉めた。縄跳びをするボクサーや、ミット打ちをするボクサーが立てる音は、ひかるの耳には届かない。 エンジンをかけると、入れっぱなしのカセットテープが回り、ユニコーンの「Maybe Blue」が流れだす。
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