◇ 卒業証書を受け取り、その数日後にはもう入社式だった。 戦前にオープンした札幌グランドホテルは、北海道で初めて誕生した西洋式のホテルだ。北の迎賓館とも称され、戦争など激動の歴史を経た今も、北海道を代表するホテルだ。 仕事を始めたとき、これは天職なんじゃないか、とひかるは思った。 見知らぬ場所で仕事をするのが刺激的だった。お客さんには見ることのできない裏側を見ると、そうか、こうなっていたのか、と深く感心した。仕事に夢中になっているうちに、時間はあっという間に過ぎ去っていく。 きりっとした制服が、なかなかひかるに似合っていた。働いていたのは商品開発課というところで、ホテルが企画販売する物産を、管理したり売ったりする仕事だ。 地下の工場から店頭にパンを運び、お客さんに売る。ケーキを結婚式の引き出物用に包装して、宴会係に引き渡す。クリスマスケーキやおせち料理をつくる作業を手伝う。チョコレートの棚卸をするひかるは、数が合わないときには、つまみ食いをして合わせてしまう。 仕事を覚えるのが楽しかったし、一人でできるようになると嬉しかった。今日は出張客が多い、今日はイベントの客が多いなど、接客業は毎日が変化する。お客さんとの会話も楽しい。 仕事が休みの日には、自動車教習所に通った。念願の運転免許が取れたときには嬉しくて、すぐ家に電話した。 「あ、もしもし、免許とれたから」 「おー、そうか、よかったな」 珍しく電話にでた父親が言った。 「今から車買って帰るから」 「あ? 何言ってるんだ。今日はまっすぐ帰ってこい」 父は珍しく真っ当なことを言い、ひかるはそのまま家に帰った。たまたま家に電話したから良かったけれど、電話していなければ、車を買いに行ってローンを組んでいただろう。 車を手に入れるために、就職したようなところがあった。それからすぐに中古車屋めぐりを始めたひかるは、スープラのエアロトップは買えなかったけれど、エンジンがスープラと同じ直列6気筒のソアラを買った。2ドアクーペでなかなか速く、若者に人気の車だ。 右折をするのが恐ろしくて、最初は左折しかできなかった。左折だけを駆使して駅に母を迎えに行ったり、友だちと小樽の公園までドライブに行ったりした。 同じころ、友だちも車を持つようになった。行こう、行こう! とひかるが騒いで、病院の跡地などの怖い場所めぐりをするのだが、本人は恐くて車から降りなかった。友だちの車でドライブをするときは、行きの時点で爆睡してしまって、目的地に着いても起きずに、寝たまま家に送られて終わり、ということもあった。 高校や中学の友だちがそれぞれの場所で交友関係を広げていくため、自然のなりゆきでいろんな人と知り合った。人懐っこくて好奇心旺盛なひかるは、誰とでもすぐに仲良くなった。だけどそのころ、なかなか最低なガールだったひかるは、男を車で選別するところがあった。 SUV系やバンは嫌いだったから、パジェロやデリカに乗っている男には興味がなかった。バイク男子と付き合って、何も不満はなかったのだが、二輪なのが嫌で別れてしまった。スカイラインやレパードに乗っている男子は、どちらかと言えば好きなほうだが、ともかく一番好きなのはスープラ男子だ。 やがて仲良くなったスープラ男子と、ドライブをしたり、工藤静香の追っかけをしたりした。夜に大きな公園に行ったとき、運転してみていいよ、と言われ、初めてスープラのハンドルを握った。動かしたらすぐに後ろをぶつけてしまい、スープラ男子は、うわあー、と言った。 ひかるはなかなか豪快な運転をした。旭川に初めて行ったとき、速度違反自動取締装置のフラッシュが思い切り光った。制限速度を何十キロもオーバーしていたため、これは完全に免許停止を喰らってしまうな、とひかるは観念した。 免許が停止されている間、移動するのに困るなと思い、翌日からバイクの中型免許を取るために教習所に通った。本当は免停をくらったなら、バイクも運転できないのだが、そんなことは知らなかった。 中型免許を取ったひかるは、友だちから十万円で250ccのバイクを譲ってもらった。自分がバイクに乗るとは一度も考えたことがなかったが、今、目の前にはCBR250Rとやらがある。ちなみにオービスが光ってからバイクを手に入れるまで、十日も経っていない。 そして結局のところ、オービスにはフィルムが入ってなかったようで、警察署からの呼び出しはなかった。 せっかくだから、と、ひかるは通勤にバイクを使うことにした。小柄なひかるが大きなバイクで風を切るのは、なかなか様になっていた。 だがひかるはバイクを愛せなかった。朝起きてバイクを出して家の前で倒してしまい、起こすのが面倒だからと、放置したままホテルに向かった。夜に戻ってくると、当たり前だが家の前にバイクが倒れていて、ひかるはため息をつく。 無計画で無軌道で、思いつきで行動して、まあまあロクデナシだった。ひかるは自分が考えているよりも、父に似ていた。 グランドホテルでの仕事は楽しかったが、三年も過ぎれば以前のような新鮮味は消え去り、不平不満を感じることが増えていた。時代はバブルへと突入しており、日々の仕事はとても忙しい。 朝が苦手だったため、午前中に立っているのがつらかった。世間と休日が違うため、大学生や社会人の友だちと会えないのも嫌だ。 友だちがイベントなどにでかける休日に仕事をしていると、やってられない、と思った。結婚式や披露宴など、休日の仕事は特に忙しいため、余計にそう感じる。大型連休とか年末年始に働いているときには、胸が苦しくなるほど遊びに行きたかった。 「やってられないから、もうやめようと思うんだよね」 友だちと大勢で集まっているときに愚痴っていたら、友だちの友だちのルミが声をかけてきた。 「うちの会社で事務員募集してるけど、来る?」 ルミは高校の同級生だったらしいが、同じ高校にいたことも知らなかった。 「事務員? 事務員ってどんなの?」 「いや、あたしもそんなに知らないけど、事務的なことをするっていうか」 「事務か……、休みはあるんでしょ?」 二人はそのとき初めて、会話らしきものをした。給料や仕事の内容について、ほとんど何もわからなかったけれど、ひかるは自分が考えているよりも父に似ていた。 「じゃあ、わたしそこに入るわ。社長に言っといてよ」 ものの十分で、ひかるは転職することを決めてしまった。
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