赤坂ひかるの愛と拳闘
迷走する青春(4)

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   ◇ 「いやー、ないわー。ベデオはないわー」 「いや、ヒデオのほうがひどいっしょ」  ひかるとカナコは、しょうもない言い争いをした。  以前、ひかるがカナコの家に遊びに行ったとき、ビデオテープのラベルに『ヒデオ』と書いてあった。カナコの母が書いたということだったが、ひかるはそれをネタにカナコをさんざんからかっていた。だけど今日ひかるの家で、カナコが発見した。 「いやいやいや、ベデオはないでしょー、ベデオだよ。おれの大事なベデオ」  父専用のビデオテープだった。ボクシングの試合や、演歌歌手の熱唱を録画したものだが、そのビデオテープのラベルには"おれの大事なベデオ"と書かれてあった。  ヒデオもベデオも似たようなものだが、どちらかと言えばベデオのほうがひどい。 「それにさ、ほら、パンだって食べないっしょ、普通は」  以前、カナコがひかるの家に来たときのことだ。二人でテレビを観たあと、札幌の街にでかけようとなった。ひかるが部屋で準備をしている間、カナコは居間でテレビを観ていた。  そのときたまたま戻ってきた父が、首をひねりながらあちこち何かを探し始めた。やがて父はカナコに向かって、真顔で訊いた。 「あんた、おれの食べかけのパン、食べたかい?」 「いえ……食べてないです」  何でも父が一口か二口食べて後でまた食べようと思っていたあんパンが、消えてしまったらしい。父は食べかけのパンを皿に載せたりせず、そのままテーブルなどに置きっ放しにして、また食べて、などという雑な行動をとる男だった。 「普通、おじさんが食べかけたパンを、食べないから」  ふふふふ、と、カナコは含み笑いした。真相を言えば、アンパンはそのころ飼い始めた犬のトレバーが食べてしまったようだ。  父はだいたいがいい加減だった。美味しい店があるから行くぞ! と急にはりきって言いだし、車で一時間かけて行ったら、その店が何週間も前に閉店していたということがあった。元世界チャンピオンの渡嘉敷勝男とかしきかつおが家に遊びにきたとき、父が空港まで送るとなったのだが、「んー、まだまだ時間があるな」と、何回か腕時計で確認したまではいいのだが、腕時計が止まっていて、結局、渡嘉敷勝男は家に泊まっていくことになった。  いい加減な分、誰にでもフレンドリーで、面倒見のいい父だった。人を家に連れてきたがり、そのままご飯を食べさせたがり、そのまま酒を飲ませたがる。そして朝まで麻雀をしたりする。  子供のころは、そこにじゃれついていたひかるだが、今はもう、嫌だなと思うばかりだ。部屋にいても笑い声や話し声がきこえるため、うーるせえなー、と布団をかぶってやり過ごす。だけど一番たいへんなのは、母だろう。  札幌ボクシングジム――。  ずっと内装の仕事をしていた父だが、そのころようやく、北海道でボクシングジムを開く夢を叶えた。人脈が広く色んな人に慕われる父には、応援してくれる人もいたし、練習生も増え始めていた。  だが何事も雑な父に、経営などできるわけがなかった。父はお金があるとすぐ人におごってしまう。ジムの月謝を受け取ったその日に、全部飲みに使ってしまったりする。  あの人は"いい振りこき"だ、と母は言う。お金がないくせに、どこででも"いい振り"をする。そのぶん人には慕われるけれど、つけの回る赤坂家の家計は大変なことになる。  だから母は、ジムの経営に関わり、金銭を管理するようになった。プロモーター的な役割も母がするようになり、札幌のボクシング興行を、取り仕切ったりした。興行のときには、ひかるも訳のわからないまま、チケットのもぎりを手伝った。  父が何か始めたんだな、というくらいの感覚だった。ひかるにとってボクシングは、単に父親の仕事だ。父が元プロボクサーなことにも、元世界チャンピオンの渡嘉敷勝男が家に泊まっていくことにも、ひかる自身は全く興味がなかった。  だけど、じっと見つめ続けていた。  札幌の街に買い物にでかけたりすると、帰りにジムに寄った。ジムが終わるまで待って父に車で送ってもらえば、バス代が浮く。ジムの隅にあるパイプ椅子に座り、ジムが終わる時間まで、ひかるはボクサーたちの動きをじっと見つめ続ける。  飲み屋などが入っている雑居ビルの一角の、狭いジムだった。空間の半分以上を占めるのが四角いリングで、あとはサンドバッグが二本つるされている。父はたいていリングサイドで、選手にあれこれ指示をだしている。  多いときには十人くらいの選手が練習していた。それぞれ鏡の前でシャドウボクシングをしたり、サンドバッグを叩いたり、リング脇で縄跳びをしたりする。リングの上で、トレーナーの構えるミットめがけてパンチを打つ。  ミット打ちの音や、シューズと床が擦れる音や、縄跳びの音や、サンドバッグを叩く音が、複雑なリズムで交差していた。三分に一度ゴングが鳴ると、全員の音が一斉に止まり、荒い息づかいだけが聞こえてくる。 「次、岩田、上がれ」 「はいっ」  父が指示をだすと、若いボクサーがリングに上がった。  再びゴングが鳴ると、トレーナーが構えるミットめがけて、岩田という男がパンチを打った。円を描くように動くトレーナーを、岩田は体を振りながら追いかける。 「もっと回転上げて!」  トレーナーの指示に、パンパンパン! と、ミットを打つ音が応えた。パン、パンパン、パンパンパン、と小気味よい音が狭いジムのなかに響く。  さっきのやつに比べたら岩田は上手いな、とひかるは思った。  上手いなとか、下手だなとか、あんなことしてるから弱いんだよな、とか、ひかるは上から目線で感じ続ける。ボクシングのことは何も知らなくても、物心がつくころからの記憶や経験が、ひかるの"目"を養っていた。  パイプ椅子に座って、ひかるはじっと見つめ続けた。口を開くことはなかったし、このことが何かに結びつくなんて、全く考えていなかった。  ただ細い糸のように、ボクシングは彼女のなかに息づいていた。

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