赤坂ひかるの愛と拳闘
迷走する青春(1)

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 四月、中学の入学式が終わると、一年六組の前の廊下がざわついていた。西岡小学校を卒業して中学に進んだ男子たちが、その姿を一目見ようと集まっている。  赤坂ひかるがスカートをはく――。  つまりそれは、中学生になったひかるが学校指定の制服を着る、というだけのことなのだが、一つの事件だった。一週間くらい前から、同じクラスや隣のクラスの男子ばかりか、母までもが、楽しみだねえ、と、にやにやしている。  とはいえ実際に入学式を迎え、教室を覗きに行ってみると、そこには一人の小柄な中学一年生の女子が椅子に座っているだけだった。にやにや笑う男子たちは一目それを見ると、ははーん、と、しまりのない顔で頷き、自分の教室に戻っていく。  ざわつく廊下を無視して、ひかるはずっと席についたままだった。ひかるにとってスカートをはくのは遺憾なことであり、心外なことだ。入学式当日、ひかるは教室から一歩も出ず、ずっと座っていた。  二日目、三日目、と、中学校での時間は進んだ。座ってばかりはいられないので、ひかるは少しだけ立つようになった。一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。  あれほど遺憾だったのだが、結局のところ、慣れてしまえば制服は制服だ。周りにしても同じことで、知っている者が皆、見慣れない新しい制服を着ているため、最初はお互いを見てくすぐったい気分になる。だけどやがて、何も感じなくなる。  一ヶ月、二ヶ月、と、中学校での時間は進んだ。  ひかるは相変わらず朝に腹痛の薬を飲んでいたし、学校のトイレには決して行かなかった。ただ中学生というものはもう、昼休みにカタキをやることはない。ドブ川をぴょんぴょんと渡るようなこともないし、父親の手のミット打ちをすることもない。  小学六年生のころからその傾向が強まっていたのだが、女の子と遊ぶことが増えていた。中学生になったひかるは何人かの女子たちと、やかましいグループを作ってぎゃいぎゃいと騒いだ。  当時の女子の間での共通言語は、何と言ってもアイドルだ。  ガンダムでいえば旧ザク派だったひかるだが、シブがき隊ではモックン派だった。女子の仲間でアイドルグループのファンになる場合、好きなメンバーはかぶらないのが望ましい。かぶらなければフックン派とヤックン派とモックン派で、歌いながら振り付けを真似ることができる。写真のセットを買ったときも、ジタバタせずに分けることができる。  少し前までカタキの王者として君臨していたし、知らず知らずのうちにボクシングのコンビネーションをマスターしていたひかるだが、女子の間ではアイドル好きのオピニオンリーダーだった。アイドルの出演する音楽番組やバラエティ番組にかじりつき、透明な下敷きにアイドル雑誌の切り抜きを挟み、レコードやグッズなど、集められるものは全て集めた。  一九八四年、吉川晃司という青年が、鮮烈なデビューを果たした。一目見たときから、真夜中のスコールを浴びたように、ひかるの脳髄はしびれた。  広島から上京した彼は、バック転を軽々とこなし、長い脚でシンバルをキックし、キレのいいダンスと不思議な歌唱法でthanks!と連呼した。地方の高校のヒーローがそのまま芸能界のスタアになったようなその青年の、何もかもが新しかった。  ほとんど笑わないその青年が、芸能界という大海で一人、孤独な闘いを始めている。彼のアゴはしゅっとしていて、目が細くて、手足が長い。ひかるの透明な下敷きの中を、彼の切り抜き写真が占めていく。  ひかるの中学・高校時代は八〇年代アイドルの全盛期で、他にも気になるアイドルが次々に現れた。義理堅さを重んじるひかるの下敷きの表は、いつも吉川晃司だったけれど、裏側はチェッカーズ、おニャン子クラブ(そのなかでも特に高井麻巳子)、息っ子クラブ、仲村トオル、男闘呼組、リバー・フェニックスなど、次々に変遷していった。  いつもはテレビ画面の向こうにいるアイドルだが、稀に札幌にやってくることもある。  デパートの屋上などであるアイドルイベントの現場は、地元の中高生でカオスな状態になった。ひかるはカメラ小僧の男子をそそのかして一緒に連れていき、アイドルの写真を撮らせた。そして後日、その写真を一枚百円で売りさばく。  中学二年生のときには、おニャン子クラブのコンサート「あぶな~い課外授業」が、北海道厚生年金会館で開かれた。父親に頼んでチケットを手に入れたひかるは、友だちと二人でこのコンサートを観に行った。  遠足や修学旅行よりどきどきしたかもしれない。ステージから離れた座席に辿り着いたひかるは、緊張しながらその時を待ち続ける。今から他のどんなこととも違う、特別な時間が始まる。  会場の照明が落ちると、観客が一斉に期待の声をあげた。立ち上がったひかるの皮膚は熱く、胸は早鐘のように躍った。歓声や拍手に合わせて、ひかるの期待は、最高潮まで高まっていく。  開演の刹那、ステージが一斉に照らし出され、おとぎの国のようなセットが明らかになった。チャ、チャ、チャチャッチャッチャチャ♪ と軽快なイントロダクションが響き渡り、憧れのおニャン子がセットの向こうから駆けだしてくる。SAILORSの服を着た彼女たちが、「セーラー服を脱がさないで」を歌い始める。  瞳孔の開ききった目で、ひかるは自分よりも幾つか年上の偶像を見つめた。センター四人の左後ろ――一番好きな高井麻巳子の位置を確認する。自分の好きなアイドルが動き、自分たちに向かって歌っている。  浴びせられる音楽を身に染みこませるように、ひかるは立ち尽くした。聞き慣れたメロディーや歌声に身を浸しながら、まばゆい舞台の上を見つめ続ける。歓声や拍手やコールや、色を変えながら点滅する光や、胸の奥からこみ上げてくる感興が、ひかるのなかで混濁する。  嘘みたいだった。スポットライトを浴びながら歌う高井麻巳子の姿が尊かった。視線が交差する刹那、光が瞬くような刹那、ひかるは高井の心に触れたように感じる。  ひかるは声をださなかったし、体も動かさなかった。陶酔とうすいと興奮にまかれながら、ひかるはただじっと舞台の上を見つめ続ける。おニャン子たちのステップや腕の動きを目で追い続ける。  やがてメンバーたちは奥に引っ込み、ソロ曲やユニット曲が始まった。  ――L・O・V・E、ラブリーその子ー!  組織化された親衛隊が、声を合わせてコールした。彼らは法被と鉢巻きで出で立ちをそろえ、歌のコールを先導する。  当時のアイドル親衛隊は、幹部を中心とした体育会系的な上意下達の組織だ。彼らは歌番組にハガキや電話でリクエストを送り、またテレビ局や駅や空港などでアイドルの護衛をし、またイベントでの持ち物検査や無断撮影の取り締まりをしたりもする。珍しがって寄ってくるヤンキーたちと揉めることもある。  ――L・E・T・S、ウ~、レッツゴー!  憧れに似た気持ちで、ひかるは親衛隊の面々を眺めた。彼らは統制が取れたチームで、"硬派"と"青春"を地でいっている。自分のようなちっぽけな一ファンとは違う。  わたしは小さいな、と思った。アイドルが大好きといっても、ファンクラブに入るお金もなく、ノートや下敷きやグッズを買うくらいだ。中学生の自分にはまだ、届かない世界がある。  三月いっぱいでおニャン子を卒業する河合その子が、ステージの上で挨拶を始めた。その一挙一動を、ひかるは凝視する。一緒に卒業する中島美春の表情の裏まで、ひかるは見極めようとする。  ひかるはこの後も、いろんなアイドルやアーティストやスポーツ選手にハマることになる。光GENJI、ユニコーン、PUFFY、DA PUMP、伊達公子、AKB48、ももいろクローバーZ、私立恵比寿中学、乃木坂46、欅坂46、ポピパ――。  赤坂ひかるは見つめ続ける。コンサートを見に行くときや出待ちをするとき、ひかるは浮かれながらもじっと、愛する対象をじっと見つめる。

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