◇ 休日、ひかるは母と一緒に父の見舞いに行った。ベッドに横になった父は、血栓を溶かすための点滴を受けている。 完全に眠っているようにも、うつらうつらしているだけのようにも見えた。普段は必要以上に濃厚な父の気配が、白い病室のなかで静かに薄まっている。病院が苦手で黙りこくっているひかると違って、母は受付でも病室でもいつもと変わらない。 「会計してくるから、ひかるはここにいて」 「……うん」 ひかるはベッドの脇の椅子に腰を下ろした。 ベッドに横たわる姿を目の前にしても、父が重病だということに現実感がもてなかった。入院する前日まで、父の様子はいつもと変わらなかった。 父の寝顔をこんなにもまじまじと見たのは、初めてだった。バカでわがままで、家のなかでは絶対的な存在だった父が、今はただの弱った老人という感じだ。ひかるにとっては父はいつも変わらず父のままで、何と言うか、変化していくものだと思っていなかった。だけど気付けば父はいつの間にか、こんなにも歳を取っている……。 ボクシングジムができてからは、夕飯を一緒に食べることもほとんどなかった。人を家に連れてきては飲み明かす父親を、うっとうしいと思った。同じ家にいながら、いつしか父は遠い存在になっていた。 どうしてこんな急に、とひかるは思うのだが、脳梗塞とはそういうものらしい。入院してから、父はろれつがまわらず、字もうまく書けないという。今後、手術が必要になるかもしれないし、回復したとしても再発の恐れがある。後遺症が残り、リハビリの毎日になるかもしれない。 点滴を受ける父の手が、動くことのない造形物のようだった。あれはひかるのちびっこパンチを、ぺちぺちぺち、と受けていた手だ。ひかるにとってはおとぎ話のような感覚だが、遠い昔、その手で拳を握った父は、日本チャンピオンになったらしい。 今、力なく横たわるその手には、どんな意志も宿っていなかった。悲しみとも同情とも少し違う感情に包まれながら、ひかるは眠る父の顔を見つめる。この人はこんな顔をしてたのかな、と思いながら、じっと見つめ続ける。 ……ねえ、起きなよ、父さん。 父親に対して、いたわるような気持ちが芽生えたのは初めてだった。そんなことは柄じゃないからしなかったけれど、眠る父親の頭を撫でてあげたかった。
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