赤坂ひかるの愛と拳闘
成長する少女(3)

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   ◇  初めて見る西岡小学校の校門の前で、ひかるの足はすくんだ。  騒ぎながら登校する大量の小学生たちが、ひかると父を追いぬいていく。小学生たちの群れは、途切れることなく続く。まるで正月の初詣のようだ。 「……これが、小学校?」 「ああ、そうだぞ。前よりも大きくて、いいだろう」  自慢げに言う父の隣で、ひかるは目をみはった。学校とはこのようなものだ、というひかるの観念を打ち壊すほどの、巨大な小学校だ。  今まで通っていた山鼻小学校は札幌の街中にあって、一学年のクラスは二つだった。L字形の校舎の三階に体育館があって、校舎の前に庭のようなグラウンドがあった。生徒全員分のロッカーがある都会的な小学校だった。 「職員室はこっちかな?」  職員室を探し始めた父に付いて、ひかるは歩いた。  目の前にあるのは、異様に思えるほど横に長い校舎だ。その大きな校舎が前後に二つ並んでいることにも驚いてしまう。その他にも体育館やいくつかのプレハブの建物があり、グラウンドは山鼻小の十倍くらいの広さだ。グラウンドの先のフェンスの向こうに、遠く山の連なりが見える。 「あー、先生、よろしく頼みますわ!」  父親に連れていかれた職員室も巨大だった。大きな声をだす父が、先生らしき人物としゃべっている。他にも大勢の大人がいるけど、もしかしてここにいる全員が先生なのだろうか……。 「それじゃあな、ひかる」  ご満悦な表情で言い残し、父は去っていった。ひかるは一人、知らない場所に取り残される。 「赤坂さん、おはようございます」 「……おはようございます」  自分の担任だという男に、ひかるは挨拶した。 「赤坂さんの担任はわたしで、タケダです。タケダ先生ですよ。これが時間割なので、なくさないようにね。山鼻小学校の国語の教科書はこれと同じでしたか?」  タケダ先生のいくつかの質問に、ひかるは黙ったまま頷いたり、首を振ったりした。頭がぼんやりとして、あまりうまくものが考えられなかった。 「赤坂ひかるさんは、二年十一組に入ります」  ぎょっとしたひかるは、タケダ先生の目を見た。十一組ということは、学年にクラスが十一個以上あるということなのだろうか。 「みんなの前で、元気に挨拶してくださいね」  挨拶といっても何を言えばいいのか、まるでわからなかった。不安が顔に出ていたのか、タケダ先生が挨拶の仕方を教えてくれた。 「赤坂ひかるです。札幌の山鼻小学校から来ました。みなさん、これから仲良くしてください」  挨拶の練習をする二人の横を、何人もの先生たちが通り過ぎていった。ひかるにはまだ、これから転入する現実感がまるでない。  行きましょう、と言った先生の後について、ひかるは長い廊下を歩きだした。暖房の効いた職員室と違って、廊下はとても寒い。  教室のドアの前まで来ると、ここで待っているようにと言われた。先生がドアを開けると、ざわついた教室が一瞬で静かになった。  起立! おはよーございます! 着席!  ドアの向こうで、このクラスの小学二年生たちが挨拶をしていた。ドアを挟んだ廊下で、ひかるはその声を聞く。がたがたという着席の音に混ざり、先生が何かを言う。  長い廊下の右を見ても左を見ても、立っているのはひかるだけだった。もっとさらっと学級に入って、すぐに遊び始めるのかと思っていた。この巨大な箱のなかで、ひかるはとてつもなく一人ぼっちだ。  やはり転校なんてせず、ずっと山鼻小学校にいればよかったのだ。愉快な楽園から離れて、どうして自分はこんなに寒い場所に来てしまったのだろう。倶知安にいたころとも違う、感じたことのない孤独がひかるを襲う。  急にお腹が痛くなってきたような気がした。このドアを入らなければ、自分はまだ転校せずにすむのではないだろうか……。このまま何もなかったことにできるのではないだろうか……。このまま逃げてしまうことはできないだろうか……。  がらがらがら、と急にドアが開き、先生が顔をだした。赤坂さん、と手招きされると、魔法にかけられたように、ひかるの足は動きだした。静まりかえった教室を、先生の後について歩く。その間ずっと、体の左側に好奇の視線を感じ続ける。 「今日からみなさんのお友だちになる、赤坂ひかるさんです。赤坂さんは――」  紹介をされている間、九十もの瞳が、ひかるをじろじろと見ていた。何も悪いことをしていないのに、と、いたたまれない気分でいると、急に先生の声がやんだ。自己紹介をうながされていると気付いたひかるは、小学生になってから一番小さな声をだした。 「……赤坂ひかるです。札幌の山鼻小学校から来ました」  しん、と教室のなかが静まりかえったあと、はい拍手、と先生が言った。ぱちぱちぱちぱち、と、生徒たちが真顔のまま拍手する。  拍手の音を、浴びせられた断絶のように感じた。唇をかみながら、ひかるはどこを見ていいのかわからず、視線をさまよわせる。  立たされた場所から一刻も早く去りたかったのだが、そのまま質問コーナーというものが始まった。頭の悪そうな男子たちが、はいはいはいはい、と手をあげる。 「得意な科目はなんですか?」 「……体育です」  どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう、と、ひかるは泣きたい気分だった。どうして自分はこんなふうに前に立たされて、注目を浴びなければならないのか。何故こんな質問に、答え続けなければならないのだろう。 「赤坂さんは札幌から来たんですか?」 「……はい」  さっきからそう言っているのに、とひかるは思った。それに、そもそもここだって札幌なのに、札幌から来たんですか、という質問はおかしいじゃないか。 「赤坂さんは何歳ですか?」 「……八歳です」  ここにいるやつはたいてい八歳だよ、と言いたかった。 「好きな給食はなんですか?」 「……ホワイトシチューです」  だいたいこのクラスは人数が多すぎだった。山鼻小学校は一クラス三十三人だったのに、ここにはひかるを入れて四十六人もいるらしい。そのうえそれが全部で十一クラスあるというのは、一体どういうことなのだろう。  実のところ、人口の急増した新興住宅地にあるここは、全国でも有数のマンモス小学校だった。この後いくつかの小学校に分かれる日まで、高学年はプレハブで授業をするような状況だった。 「はい、それじゃあ、赤坂さん、後ろの席についてください」  一つだけ空いた最後列の机まで歩く間、またじろじろ見られている気がした。始まった授業の間、ひかるはずっと顔を伏せていた。ストーブから一番遠いその席がとても寒くて、かじかんだ手を何度もこする。 「札幌のどこから来たの? 時計台のほう?」  休み時間になると、何人かの女子が話しかけてきた。ひかるは椅子に座ったまま、うなずいたり首を振ったりした。 「わたし、この前、札幌のデパートに行ったんだ。丸井今井と、あと五番舘も」  彼女たちはぺらぺらとよくしゃべり、休み時間が終わると去っていった。次の休み時間には、また違う女の子たちに囲まれた。 「ねえ、札幌の学校って、どんなだった? こっちと何か違う?」  だいぶ違う、と、ひかるは思った。向こうの小学校の周りには畑なんてなかったし、先生はもっと若かった。教室も廊下もこんなに寒くなかった。 「……ストーブが違った」  と、ひかるは答えた。前の学校にあったスチームの出る暖房と、ここにある薪ストーブの違いは、うまく説明できなかったけど。 「へえー」  女の子たちは曖昧あいまいにうなずき、チャイムが鳴るとまた去っていった。  四時間目が終わると、教室内がそれまでとは違う種類の騒ぎに包まれた。もうひかるの席には、誰もやってこない。当番が用意した給食に、全員が群がるように列をつくる。食欲の全くわかないまま、ひかるはぼんやりと列の最後尾に並ぶ。  教室の前方で、薪ストーブが燃え続けていた。席にいるときは寒かったのに、ストーブの近くまでくると、おそろしく暑い。クラスメイトたちは騒ぎ続ける。  ようやく自分の順番が回ってきたとき、ひかるのぶんの給食はほとんど残っていなかった。何だか、とんでもなく野蛮なところに来てしまった気がした。給食にはほとんど手をつけず、うつむいたまま午後の時間をやりすごした。ようやく下校時間が来て、手提げバッグに教科書をしまう。前の学校にはロッカーがあって、そこに教科書を置いてもよかったのだが、この学校では全部持ち帰らなければならない。  ひかるは一人、家への道を歩いた。重い手提げバッグが手に食い込んだ。やっぱり引っ越しなど、しなければよかったのだ……。  札幌から来たのか、と、朝から何度も訊かれた。ここも札幌なのに、どうしてそんなことを訊くのだろうと思っていたけど、今はわかる。ここは札幌だけど、札幌ではない場所なのだ。  では一体、ここはどこなのだろう……。  学校も通学路も見たことのない場所だった。家までの道順は簡単だったから間違えることはないし、母が描いた地図も持っていた。だけど本当にこの道でいいのだろうか、と、ひかるは急に不安になってくる。  道の脇にはドブがあって、その向こうには畑があって、その向こうに民家が見えた。柵も何もない剥きだしのドブが恐ろしくて、ひかるはそこから距離をとって歩いた。ドブには水が流れているのかいないのかもわからなかったし、淀んでいるため本当の深さもわからない。こんな剥きだしのドブを見たのは、生まれて初めてのことだ。  翌日の朝、ひかるはなかなか起きられなかった。  母親に無理に起こされ、食べたくない朝ごはんを食べた。重い体でドブから離れて歩き、西岡小学校の巨大な校舎に入る。  騒ぎながら走る同級生たちが、ひかるを追いぬいていった。お腹のあたりが痛い気がして、ひかるは小学生になって一番スローな動きで廊下を歩く。  父親が連れてくる強面こわもての大人や、世界チャンピオンにすら物怖じしたことがなかったひかるだが、生まれて初めて他者に対して萎縮いしゅくしていた。朝の会が終わっても、授業が終わっても、なかなか椅子から立ちあがれなかった。トイレにも一度も行かなかった。  昨日とは違って、クラスの女子たちはもう、ひかるの周りに集まってこなかった。そのほうが気楽でよかったのだが、帰るころになって、一人の女子が話しかけてきた。「ねえ、どうして手提げでくるの?」  手提げバッグに教科書をしまっていたひかるの手は止まった。答えようとしたのだが、うまく話せないでいるうちに、その子は踵を返して走っていってしまった。  ロッカーに教科書を置く山鼻小学校では、荷物は少なくてすむ。だからランドセルは小学三年生からで、一、二年生の間はショルダーバッグか手提げバッグで通学すると決まっていた。 「生意気だよね」 「手提げは五年生からなのに」  驚いてふり返ると、女の子たちの背中が見えた。彼女たちはすぐにドアの向こうに消えた。彼女たちはつぶやくように、それでもちゃんと、ひかるに聞こえるようにそれを言った。  のろのろと歩いて辿り着いた昇降口で、二年十一組の場所を探した。ゲタ箱の下に、目を滑らせる。クラスメイトの上履きが並ぶ一番下の一番端に、他の人とは違う真新しいラベルが貼ってある。無理に付け足したような、仮の場所に、ひかるの靴が入っている。  自分はここで一人、よそ者なのだ。  机も椅子も持っているものも知っていることも、クラスメイトたちとは少しずつ違った。二千人以上の人間がいるこの巨大なアウェイの地で、自分は一人ぼっちだ。  生意気だよね――。手提げは五年生からなのに――。  帰り道、石を蹴った。思いもしない軌道で飛んでいった石が、ドブに落ちて鈍い音をたてた。ひかるは慌ててそこから目を逸らし、前を見つめる。遠くに、赤いランドセルを背負った小学生たちが見える。  急にお腹が痛くなってきて、うつむきながら家に戻った。  翌朝、ひかるはなかなか起きられず、朝ご飯も食べられなかった。その翌日も、その翌日も同じだった。無理に朝ごはんを食べると、午前中に腹痛に襲われた。  クラスでは孤立し始めていたけど、ひかるはそれまで通り、手提げバッグで学校に通った。親に事情を話せば、すぐにランドセルを買ってもらえただろうけど、そうしなかった。  心外だったのだ。生意気と言われるのも、札幌から来たのか、と言われるのも心外だった。ここと同じ札幌の山鼻小学校では、三年生からランドセルと決まっていたから、自分はまだそれを持っていないだけなのだ。  ひかるは何度も、学校を早退した。お腹が痛くなると、トイレに行くことを促されるのが、たまらなく嫌だった。最初は行きたくなっても我慢していたのだが、いつの日か、その場所に行けなくなっていた。  難儀なことに、ひかるはこのことを、長く引きずることになる。  小学生の間、ひかるは学校のトイレには一度も入らなかった。驚いたことに、一泊二日の林間学校のときにも、家を出て泊まって帰ってくるまで一度もトイレに行かなかった。中学になっても高校になっても同じで、学校のトイレにはついに一度も行かなかった。社会人になっても、会社のトイレには、ほとんど行かなかった。  会社員時代、どうしてもトイレに行きたくなり、彼女は昼休みに車で家に向かった。 「急いでたんですか?」 「急いでますよ!」  あまりに急いでいたため、彼女はスピード違反でパトカーに捕まってしまった。

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