赤坂ひかるの愛と拳闘
成長する少女(8)

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   ◇ 「ていへんだ~、ていへんだ~、ていへんだ~、ていへんだ~」  舞台上の全員がゾンビの踊りを始めると、客席からは地鳴りのように笑い声が湧いた。  その日、たまたま美容院の仕事が休みだったひかるの母は、体育館の一番後ろからその劇を眺めていた。娘を中心とした悪ふざけの劇が始まったとき、来なければよかったと思ったけれど、これはこれでよくできているのかもと、次第に理解が追いついてきた。とんだ悪ふざけの劇だとしても、ふにゃふにゃ適当にやっているだけでは、こんなにウケはしないだろう。 「あ! みんな、あれを見るんだ! ……バカが見る~♪」  狂ったように笑いながらステージを駆け回る娘たちに、観客たちが大笑いする。  ときどき娘が家に連れてくる子たちが、舞台上で躍動していた。彼らが娘に妙に懐いているのは、母から見てもおかしかった。女子がリーダーとなっている男子の軍団、というものを、母は自分が子どものころにも見たことがない。 「やーおやびん、きまりましたねー」 「キメさー!」  指キメのポーズ(らしきもの)をするひかるを、母は遠く見つめた。一体この子は、誰に似たんだろう……。自分にも父親にも似ていないようだが、どちらにも似ている気もする。  自分は、勝ち気で、負けず嫌いで、やる気になれば何でもできると信じている。芯が強くて、決断が早く、肝が据わっている、とよく言われる。  リングサイドで旦那の試合を心配そうに見守るような女は大嫌いだった。夫の試合であろうと、彼女はいつも冷静に見てきた。闘いに身を投じるボクサーを、崇拝にも似た気持ちで見つめているだけだ。  ただ一試合のために、ボクサーは練習や減量を積み重ね、己の覚悟を己に問い続ける。昂ぶりながら叩き、疲弊しながら走る。怖れながら跳び、飢えながら、覚悟を問い続ける。やがて全てを賭けたリング上で、自分と同じ目をした者と仕合う。  かつてはテレビで、週に十本以上のボクシング中継があった。階級がまだ少ない時代、最重量であるミドル級のチャンピオンだった夫には、それなりの知名度があった。パンチ力の強い選手として、尊敬を集めていた。 「ハイヘイホウ! やっと全部の漢字にふりがなを付けたぞ。さあ作ろう!」 「まだどえ~す」  だけど彼女は離婚届をいつも持ち歩いていた。愛すべき昭和のボクサーである夫は、"くそばか"がつくほどのお人好しだ。試合が終わると、一晩でファイトマネーを全部使って、周りにおごってしまう。  夫は涙もろくて、臆病で、怠け者だ。何をどう感情移入しているのかわからないが、今でも吉幾三を聴いては一人で泣いている。ボクシングをしていたくせに血が苦手で、全力で注射から逃げ続けている。  娘は小さなころから夫と、ぺちぺちぺちぺちとパンチ打ちごっこをやっていた。がさつで適当だけど、人懐こくて誰にでも好かれる娘は、やはり父親に似たのかもしれない。だけど夫から、ひかるはお前にそっくりだ、と言われたことがある。 「バリバリバリバリ! お前は一体だれなんだ?」 「わたしはソンビだ!」  大きくなった娘は、はつらつと演じた。母には何が面白いのかはよくわからないけれど、観客の小学生たちは腹を抱えて笑っている。その凄まじい人気に、少し驚いてしまう。 「設計図を取り返しに来たぞ!」 「あ! あ! ギョウザマシーンができている!」  驚いていたのはひかるの母だけではなかった。  ステージ袖で劇を見守る教師ナカザワは、驚愕する。演っているほうは楽しいのかもしれないが、観る者からすれば、いたたまれない内容の劇だと思っていた。だがとてつもなくウケている。  校長や教頭がどう思うのかわからないが、客席は沸きっぱなしだった。舞台上では赤坂ひかるとその仲間たちが躍動し、他の生徒たちも活き活きと自分の役割を果たしている。教師ナカザワは立ち尽くすように、彼らのたたかいを見守る。 「ハッハッハッハッ、これを見ろ! ギョウザマシーンは完成した! バリバリバリ」  劇は終盤を迎えていた。こいつらはどんな大人になるんだろうか、と、ナカザワは少し前にも考えたことを思う。  小学生の魂は漂流する。もやもやした魂は、他者や世間と折りあいながら、やがて落ち着くべきところに落ち着いていく。好奇心や情熱がその魂を変化させ、思いもよらぬところに辿り着くこともある。  赤坂や新崎はこれから何と闘い、どんな場所に辿り着くのだろう……。 「デブルマーン、出てこーい!」  バリカン星人役の新崎は、今は何も考えていなかった。もうすぐソンビに倒される彼は、ともかくひかると一緒に劇をやるのが楽しかった。いつだって赤坂ひかると一緒にいるのが楽しかった。 「ホーイ! ホーイ! ホーイ!」  デブルマンに任命された板根さんは、最初はかなり不満だった。だけど練習しているうちに楽しくなってきて、いつの間にかひかるたちの期待以上にデブルマンになりきっている。 「ナハハハハハハ。ころしてやる!」 「うわあー」  ズゴックが好きな水口が断末魔の叫びをあげた。続いてカタキの上手い佐藤も倒れ、パックマンで三十五万点を取った佐々木や、五十メートルを八秒フラットで走る乾も倒れた。彼らはみな、ひかるのことが大好きだった。 「そら、設計図をわたせ!」 「く、くそー。これが設計図だ……」 「こ、こ、これがー! せっけーずなのかー?」  設計図をかかげたひかるが、天を仰ぎながら大声をだした。ぱん! ぱぱぱぱん! と爆竹が爆ぜたような音が鳴り、舞台の脇から裏方の面々がぞろぞろと出てきた。  ほーたーるのーひーかーりーまーどーのーゆーきー♪  五年三組の全員が揃って合唱した。 「さようならー」  ひかるが手を振ると、後ろのクラスメイトも手を振った。 「さよーうならー」  大拍手のなか、五年三組の面々は手を振り続けた。それぞれの思いを抱えながら手を振る彼らに、惜しみのない拍手が送られる。  楽しかったな、と千田さんは思う。アラレちゃんが好きな彼女は、ひかるのことがまあまあ好きだった。クラスで一番モテる花井さんや、女子で一番足の速い牧野さんもひかるのことが好きだった。  YMOが好きな宮下くんや、ブルートレインが好きな富士本くんも、大きく手を振った。ひかると遊ぶようなことのない彼らだったが、この劇の出来にとても満足していた。鶴光のオールナイトニッポンを毎週録音しているいわしづかくんや、後に市会議員になる内田くんも大きく手を振った。  おい、お前はどこへいくんだ、と、中心で手を振るひかるに向かって、教師ナカザワは問いかけたかった。  小学生たちの魂は漂流し、やがて世界と対峙する。  歌と拍手の大団円のなか、ゆっくりとその幕は閉じていく。

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