その指
その指を、愛していた

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「毎日、同じ夢を見るんです」  年の頃は十五、六。大人でも子供でもない、曖昧な境界に立つ少年だった。  病的なほどに白い肌。反してほんのりと色付く薄い唇。糸飴のように細く煌めく金色の髪の奥、長い睫毛に縁取られた瞳は南国の海を思わせるターコイズブルーに揺れていた。  少年を構成する、そのひとつひとつは完璧なまでに美しい。まるで少しの妥協も許されず作られた彫刻のようだ。 「とても幸せな夢です」  彼に流れる時間は、ひどく緩やかだ。夢か現か、定まらない意識は体を抜けては戻り、未だ尾を引く夢の名残に浸っている。そのたびに椅子に座った少年の体は不安定に揺れていた。 「そこには、白い指がありました」  足を組んだ膝の上、広げたノートに私は彼の言葉を書き記していく。視線は少年に合わせたまま、左手に持ったペンの走る音だけが静かな部屋の空気を無遠慮に揺らした。  少年の記憶に残るその指は、細くしなやかで力強い。綺麗に切りそろえられた爪は血色の良い桜色。人工的な色に染まることのなかった指先はほんの少しだけ荒れていて、安いハンドクリームから香る薬のような匂いは、今も少年の嗅覚を甘く刺激した。  脳裏に浮かぶ白い指。魅惑的に動くその指先を思い出しているのか、少年は恍惚とした表情を浮かべてぼうっと宙を見る。少年の青い瞳が、とろんと揺れた。 「僕は、その指を愛していました」  愛しさからか、少年の瞳に涙が浮かぶ。青い瞳が揺らめく様はまるで海のさざなみのようで、それは少年の心に動揺の波紋を響かせていったに違いない。  なぜなら、少年は泣いたことにすら気づいていなかった。頬を濡らすものを指先で拭い、不思議そうに首を傾げている。その間も瞼を押し上げた雫は次から次へと溢れ出し、冷たい頬に熱を奪われながら膝の上にはらはらとこぼれ落ちていく。  淡い光が差し込む部屋の中。涙に濡れた睫毛が、きらりと光る。その光景すら、美しすぎて絵になった。  指先で拭ったしずくを呆然と見つめる少年へ、私はそれが涙であることを伝えてやる。青い瞳が驚きに見開かれたのはほんの一瞬。「なみだ……」と言葉を繰り返し、少年は涙の伝う頬を両の手で包み込んだ。白い手で顔を覆う少年がどんな表情を浮かべているのか、正面に座っている私でも見ることができない。けれど、私も彼も知っている。  少年の頬を止めどなく濡らす涙は、けれど少年にあるべきものではなかった。  少年の唇を割ってこぼれる儚い声は、けれど少年にあるべきものではなかった。  少年の胸を焦がして震える小さな愛は、けれど少年にあるべきものではなかった。  そしてそれを、少年は痛いくらいに理解していた。自分が何を思い、悩み、苦しんでいるのかを。与えられた「もの」は、決してやさしいだけではなかったことを。自分という存在が何であるのかを。  浮かんでは消えていく、白い指の夢。その指先を狂うほどに愛した自分。結ばれぬ恋に泣き叫び、愛しいはずの思いさえ呪った。手にすることすら叶わぬ指先に恋い焦がれ、発狂するその姿はまるで。  ……まるで少年は。 「僕は人間でした。哀しいくらいに、人間だったのです」  限りない命が渦を巻くこの世界で、気紛れな運命に囚われたことは、少年にとって不幸以外の何ものでもなかった。本来ならば決して手に入れることのなかったものを与えられ、少年はたったひとりでこの世界に放り出される。それは奇跡と言う言葉で飾るにはあまりにも残酷で、少年を悪戯に翻弄する悲しみの波でしかなかったのだ。  少年を確かにするものは何もない。唯一の思いさえ報われずに、少年は命の意味を失っていく。 「望まないものを得たことは不幸でした」  命を持たずともよかった。仲間のいる棚の隅に飾られて、愛しいひとを見つめているだけでよかったのだ。命を得ても、熱を持たない不完全な体では、秘めた思いを遂げる事も出来ない。  心をこめて丁寧に自分を作り上げてくれた彼女の白い指。そのやわらかで優しい感触を思い出し、少年はゆっくりと目を閉じる。 「その指を、愛していました」  最後にぽつりと呟いて、少年が静かに動きを止めた。カタン……と硬質的な音が響き、少年の腕がだらりと垂れる。呼びかけても返事はない。鮮やかだったターコイズブルーの瞳の色はそのままに、ただ光だけが消えていく。  破れたカーテンを揺らして、隙間風がいたずらに室内の埃を巻き上げた。斜陽に照らされきらきらと舞う埃の中、少年の顔を隠す金の髪がさらりと揺れる。どんなに待っても、もう少年が動くことはなかった。  膝の上に広げたノートのページ。埋め尽くされた、私にしか分からない文字だけが、彼の存在をひとりの少年として形作る。  少年。  無垢な。  消えかけの。  指。  白い指。  愛している。  涙。  命の意味。  愛している。  愛している。  ただひたすらに、愛している。  穏やかな時間の流れる人形師のアトリエ。棚に飾られた、美しいこどもたち。名前を付けられ、ひとりひとりが彼女の特別だった。そして彼らにとっても、それは同じこと。彼女に愛され、彼女を愛したひとりが、運命のいたずらに囚われてしまった。  ゆっくりと瞼を開けた視界には、朽ち果てたアトリエの室内。割れた窓から流れ込む風に、破れたカーテンが揺らめいている。床に散乱するのは、風化した人形の成れの果て。少年とは違う、エメラルドグリーンの眼球がひとつ、割れた床の隙間に挟まっている。くすんだその瞳は、差し込む西日を浴びてもなお煌めくことはない。  パタンとノートを閉じ、立ち上がる。この廃墟に、もう明かりが灯ることはないだろう。  向かい合った椅子の上、ひとり残された少年の頬に罅が入る。まだ残る涙のあとを飲み込んで、鈍い音を立てていく。  永遠の終わりで時の流れに戻り、夢の終わりに人形へと戻った少年は、愛の終わりで音もなく崩れ落ちる。  ――その指を、愛していました。  今はもう誰もいない廃墟のアトリエ。そこに囚われていたのは、美しすぎる少年の人形。  作り手を愛した、哀しき人形。

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