兄がいなくなった家は、少し広くなった気がする。 街の木々の葉も枯れ、日ごとに気温が下がってきた。 ──この街も、本格的に冬を迎えようとしている。 家のダイニングにもストーブが出されたが、真冬に海が凍りつく国に生まれたロダンに言わせれば「この程度で、寒いなどとは言えない」のだそうだ。 彼を本物の猫だと思っているみのりの両親はよく、ロダンの寒さへの耐性を不思議がっていた。 「猫は寒がりっていうけど、必ずしもそうじゃないのね。ロダンは毎年、寒くても平気だものね」 「むしろ、寒い方が元気になってないか? オレたち人間はもう耐えられんがなあ」 「あなたが寒がりなのよ。みのりもあなたに似たのか、すぐ寒い寒いって言うんだから───」 「はー、寒かった。あったかい飲み物でもいれようかな」 学校から帰ってきたみのりは、早々に自室に入り、勉強机の上に何冊もの本を置いた。 学業に関する本や大学のパンフレットなど、進路関係のものばかりだ。 ページをパラパラとめくる音だけが、静かな部屋に響いていた。 本に集中していたみのりは、ふと振り返った。 ソファの上で丸まっていたロダンがこちらをちらりと見るも、また目をそらした。 少し、元気がないように感じる。 そうだ。私、最近ロダンと遊べてなかったな…… みのりは申し訳なくなり、ロダンのそばに寄り添った。彼の背中をそっとなでてみる。 その毛並みはツヤツヤしていてあたたかく、何だかほっとした。 「ごめん。最近構ってあげられなくて」 「何謝ってるんだよ。忙しいんだろ、最近。ったく、ずいぶんと真面目な学生に化けたもんだぜ、みのりちゃんは」 「寂しかったんでしょ? ごめんね」 「バカ言うな」 「またまたー」 みのりに茶化されてロダンはぷいっとそっぽを向くが、やがてゆっくり振り返り、言った。 「そうだよ。寂しい。泣き言ばかりいっていたおまえがひとりで立ち上がって、どんどん強くなっている。それを喜んでやるべきなのにな」 「え……」 自分から振っておいて、みのりは何も言えなくなった。 ロダンがこんなにも素直な感情を吐露するなんて、出会った頃とはまるで違う。 さっき、七瀬くんに変わったって言われたけど。 ロダンも変わったな。なんだか丸くなっちゃって。 それに、何かに悩んでいるみたい── みのりは、ロダンを膝の上に抱き上げた。突然のことに、彼は少し戸惑ったように見えた。 「何だよ」 「やっぱりロダン、最近様子が変。口数も少ないし。それに、目の色だって……つらいときの色をしてる」 「…………」 「もし何か気になることがあるなら、話して。だって私たち、友達になったんだもん。今度は、頼ってくれるでしょ?」 真剣な表情で問うみのりに、ロダンは静かに言った。 「みのり。オレ、カペラ王国に帰ろうと思うんだ」 「──え、」 時間が止まったような錯覚を覚える。 ロダンは、魔法なんて使っていないのに。 ロダンが? 帰る? カペラ王国に? みのりは、ロダンの口にした言葉の意味をすぐに理解できずにいた。 「──何で? 突然何言い出すの。エーテルハートはどうするの? 確かに全然見つからないけど、まだわからないじゃない。これからもう少ししたら、見つかるかもしれないよ……」 動揺を隠しきれず、やっとのことで口にする。 思えばロダンとの出会いは唐突だったが、別れもまた、唐突にやってきた。 「いや。もういいんだ。これだけ探しても見つからないってことは、所詮ただの作り話だったのさ」 「そんな……ロダンの夢だったんでしょ」 自分のやりたいことを、ようやく見つけたみのり。 そのきっかけになってくれたのは、間違いなくロダンだ。 その彼がいま、自身の夢を諦めようとしている……そう思うと、みのりは胸が痛くてたまらなくなった。 「それに、オレも故郷が心配だ。おそらく、あと一月ほどで、時空間をつなぐ星が降る日がくる。星の力で、オレはカペラ王国に帰る。だから、見送ってくれるか? あの丘から」 ふたりの間に、重苦しい時間が流れる。 「うん──わかった」 長い沈黙を経て、みのりはようやく頷いた。 かつて垣間見たロダンの故郷、カペラ王国。 あの美しい国できっと、いまも彼の帰りを待っている人々がいる。 そうだ。私なんかに引きとめることは、できない── みのりは弱々しく笑ってみせた。 「ロダンが決めたことだもんね」 その夜。 静寂の中、みのりはぐっすりと眠っている。 寝る前まで、一生懸命勉強していたようだ。 本当に、出会った頃とはまるで違う。 「なりたい自分」を見つけ、頑張っている彼女に余計な心配をかけたくなかったとはいえ。 みのりに嘘をつき、結果的に悲しませてしまったことに、ロダンはやりきれない気持ちでいっぱいだった。 ──わかった。ロダン、わしが知っとることを、あんたに全部話そう。 ──あの子のことを頼む。 あれから……みのりの祖父からエーテルハートの真相を聞いて以降。ロダンはずっと悩んでいた。 彼女は、夢にも思っていないだろう。エーテルハートがあのようなおぞましいものだなんて── そして、自身が魔女の血を引いているなんて。 そんな重大なことを果たして自分が話すべきなのかに迷い、結局何も言えずにいたが、 答えを出さずにいつまでもここにいることはできないと……本当はわかっていた。 ロダンは寝ているみのりにそっと近づき、右腕をその額にかざす。 「おまえといろんな世界を見ることが、オレの夢になった。でも、それはきっと許されない。オレたちは別の世界に生きているんだから」 かすかな光が飛び出す。 それは、やがてゆっくりとみのりの中に吸い込まれていった。 これで……自分がこの世界を離れたとしても、みのりとその血縁者の身は守られるだろう。 あとは、関わった全ての人間から自分に関する記憶と痕跡を消し、そして── 「っ──……」 ロダンは目眩に襲われてよろけたが、なんとか体勢を立て直す。 おかしい。今までならば、この程度のまじないでこんな風になったりはしなかった。 ──まさか、オレ自身の魔力が、弱まってきているのか。 不吉な予感を、ロダンは頭を振って打ち消そうとした。 これ以上、みのりのことが大切になってしまうのが怖い。 だから今のうちに…… 窓の外に、ごく小さな流れ星が、妖しい光を発しながらいくつも落ちていった。 「どういうことだね、これは」 入ってきた魔法使いのひとりが、声を上げた。 ホールは無惨に荒らされていた。割れて飛び散ったガラス、引き裂かれたカーテン、 転がる花瓶、そして磔にされた魔法使いたち。 彼らはこの状態からなんとか解放されようともがいていた。 やったのは──自分自身だ。 深紅の瞳を燃やし、憎悪の表情を浮かべる自分の姿を、ロダンは遠くから眺めていた。 そうだ。これはオレがエリザベートの計らいで、慈善学校からアカデミーに転入したときのこと。 視察に来た魔法協会の役員が、父さんや母さんの死を軽んじた上、オレが狡猾な手段でエリザベートに取り入ったとか勝手なことを言ってて……無性に腹が立ってやったんだ。 ロダンはかつての頑なな自分に、寒気がした。 なんて無様なんだ。あのときみのりに見損なわれたのも当然だ。こんなの、ただのガキじゃねぇか…… 「ロダン、言い分ならあとで聞くわ。今すぐ元に戻しなさい。あなたなら、できるでしょう?」 いつのまにやってきていたのか、エリザベートが淡々と告げる。 ロダンは舌打ちすると、早口で呪文を唱えた。 割れたガラスは窓枠に元通り収まり、ボロボロのカーテンは美しい姿を取り戻す。 花瓶も棚の上に、そして磔にされた魔法使いたちはゆっくりと地上に下りた。 「なんたる侮辱か。腕は確かかもしれんが、こやつ素行に問題がありすぎるぞ」 「エリザベート副理事。どういうおつもりなのです? いくら貴女とはいえ、歴史あるアカデミーにこのような輩を推薦した判断を疑いますな」 地に足がつくと、磔にされていた彼らはにわかに元気になった。 よく吠えるオルトロスさながらだ。さっきまで声も出せなかったというのに。 ロダンはカッとなって、食ってかかった。 「うるせえ。そもそも侮辱したのはあんたらだろ。ふざけるなよ。あんたらに父さんの、母さんの、オレの、何がわかるっていうんだ──!」 「ロダン、少し黙ってなさい。あなたたち、代わってお詫びします。この子には、あとでよく言って聞かせますので……」 役員たちに頭を下げるエリザベートを見ていると、急に身体に衝撃が走った。 今まで見えていたアカデミーの風景が歪みはじめ、闇に飲まれていく。 ──力が欲しいのだろう。強くなりたいのだろう。あやつらに馬鹿にされるのは、貴様ももううんざりのはずだ。 ──世界を支配する力が、欲しくはないか? 全ての者を圧倒し、跪かせてみたくはないか? ──ロダン、貴様ならばカペラ王国の、いや世界の頂点に立てる。 「うっ……」 暗闇に誘惑の声が響く。 急に胸が苦しくなり、ロダンは倒れそうになった。 目の前に何かがいる。おぞましいオーラをまとった、異形のもの。 ロダンはどこかでそれを見たことがある気がした。だが、どこで? 「誰だか知らねえが……オレのほしい力は、強さは、そんなんじゃない! もっと……」 必死に抗うロダン。ふと、ひとつの可能性が頭をよぎった。 まさか…… 「卑怯者! 姿を見せろ!」 ロダンがそう叫ぶと、異形のものの輪郭が次第にはっきりし、人型を描き始めた。 首のあたりに赤く妖しい光を放つ、何かがある。 正体を確かめようとするロダンだったが、胸の痛みに耐えかねて、そのまま崩れ落ちた。 勝ち誇ったかのような笑い声が聞こえる──
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