きまぐれシャノワール
カフェ・ソネット

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 ボウルの底に当たる泡立て器がカシャカシャと音を立て、中の卵白がふわふわのメレンゲに変わっていく。  みのりはこの作業が好きだったが、どうしても腕が疲れる。  ──ロダンなら高速泡立て魔法とかできたりして?  想像したみのりは、思わず笑いそうになるのをこらえた。   「ごめんね。業務用ハンドミキサー導入しようと思っているんだけど、今はこれしかなくて……」  みのりの叔母、詩乃は申し訳なさそうに言った。  祖父の家から坂道をもう少し上がった途中。  みのりの叔父が空き家をリノベーションし、脱サラ開業したのがカフェ・ソネットだ。  ──みのり、おまえそんなに料理が得意だったんだな。うちにいる間にさ、少しだけ店を手伝ってもらえないか?  祖父の家に滞在中のみのりは、叔父の提案で彼らの手伝いをすることになった。  従業員ふたりだけの小さな店だ。  可愛らしくレトロな雰囲気の内装と、叔母が考案したいわゆる「映える」メニューがSNSで話題になったのがきっかけで来店者が増え、人手が足りないのだという。    みのりは、叔母に教えてもらいながら、店で出すバナナシフォンケーキを作っていた。  シフォンケーキなら、今まで何回か作ったことがある。  混ぜ終わった生地を型に流し入れ、上から数回落として空気を抜き、予熱してあるオーブンへ。  だんだんとふくらんでいくケーキを見つめ、思わず笑みがこぼれた。  厨房に甘い香りが広がっていく。 「上手ね。絶対、美味しくできるわ」 「うん!」    みのりの仕事は、厨房で作った料理やケーキをイートイン用に盛り付けたり、テイクアウト用のケーキをレジ横ショーケースに設置することだった。  店内はたくさんの人でにぎわっている。  思い思いにくつろぎ、コーヒーとケーキを楽しんでいる人々を見ていると、みのりはうれしい気持ちになった。  ──みんな、幸せそうな顔してる。 「お姉さん、ちょっといいかしら」  そんなことを考えながらテイクアウト用のケーキをセッティングしていると、突然声をかけられた。  ひとりで来店している、主婦らしい女性だ。 「は、はい」 「そのバナナシフォンケーキは、メニューに載っていたのと同じもの?」 「はい。同じものを、テイクアウト用にもお作りしてます」 「じゃ、そちらもふたついただくわ。とても美味しかったから。──高校生? がんばってね」 「あ、ありがとうございます……!」  自身の作ったケーキを褒められ、うれしくなるみのり。  女性は会計を済ませると、ごちそうさま、と微笑んで去っていった。叔母が何だか感慨深そうにつぶやく。 「よかったわね。みのりちゃんが焼いたケーキで、お客様が喜んでくれたのよ」  ──喜んでくれたんだ。  ──私の焼いたケーキで……  みのりは胸がいっぱいになるのだった。  * * *   「お疲れさん。よく頑張ったよ」  長い夏の日が、ようやく暮れようとしている。  閉店後の店内でぐったりしているみのりの目の前に、アイスコーヒーのグラスが置かれた。  みのりのために、叔父がいれてくれたものだ。  中の氷が揺れて、カランと涼しげな音をたてた。   「わー、ありがとう。いただきます……」  アイスコーヒーを一口飲んだみのりは、顔をほころばせる。 「おいしい!」  そういえば、自分自身がカフェ・ソネットのコーヒーを口にするのはこれが初めてだ。  いい香りが鼻を抜けていく。  苦味が少なくすっきりした味わいのコールドブリューコーヒーは、みのりの好みだった。   「それと、これバイト代。母さんには内緒な」 「ありがとう……でも、お金なんかもらっちゃっていいの?」  叔父から手渡された封筒を見て、みのりはためらった。 「当然よ。働いたんだもの、報酬があってしかるべきだわ」  ほんとにお疲れ様、と厨房から出てきた叔母も、みのりをねぎらってくれる。 「今日手伝ってくれて本当に助かったよ。ありがとうな」 「そんな……私もわかったことがあるの」  みのりは少し考えて、話し始めた。   「ずっと前から思ってた。私はどうなりたいんだろうって……今日お店のお手伝いしてみて、わかった。やっぱり私、将来は食に関わる道に進みたいなって」    無意識に思い続けていたことを、ついに口にしてしまった。  しばらく間があった。  叔父たちの様子をうかがうと、ふたりとも真顔になっていて、みのりは何だか落ち着かない気持ちになる。   「俺も、昔からそう思ってた。父さん……じいちゃんみたいな料理人になりたいって。だから夢を諦めきれずにここまできたんだ。じいちゃんにはかなり反対されて、もめたがな」 「え⁉ そうだったの⁉」 「そうよ。同業者だけに、その大変さをよくわかってたんでしょうね。安定を捨てて賭けに出るわけなんだから、なおさら」    叔父と叔母は淡々と語っていたが、みのりには衝撃的な内容だった。  今でこそ温かく見守っている祖父が、叔父のカフェ開業をめぐってかなりもめたなんて。  目を見開いているみのりを見て、その反応は想定内だとでも言いたげに、叔父は笑った。   「びっくりしたか? だけど、そういうことなんだよ。店を始めて、じいちゃんの言ってた通りだなとも思うことがあるんだ。もちろん努力はしてきたし、これからもするつもりだけど。今はネットの拡散力のおかげでたまたまうまくいってるだけで、このあとどうなるかもわからない。みのりも、将来自分の店を持ちたいって気持ちになることがあるかもしれない。そのときは、俺の言っていたことを思い出してほしいと思うよ」    厳しい現実を語る叔父。みのりだってもう高校生なのだから、叔父の言っていることは理解できる。  だけど……  ──もしかしたら、みのりは本当にやりたいことに、まだ気づいてないだけかもしれないな。  みのりの脳裏に、いつかの兄の言葉が浮かんだ。   「うん……わかるよ。好き、だけじゃ難しいってことは私にだって想像できる。だけど、私の一番得意なことってやっぱり料理で──料理だけは自信が持てるって胸を張っていえるの。今日、いろんな人が喜ぶ顔を見ててほんとにうれしかった。だから私、美味しいものでみんなを幸せにしたい。それが私の夢」  そう言い切るみのりの瞳には、曇りがなかった。

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