酷く綺麗な世界
綺麗な世界

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

道は綺麗に舗装され、いくつもの同じようなビルが空に伸びている。 ビルとビルの隙間が奏でる音は大きく、そしてひどく寂しげだ。 街は人で溢れていると言うのに、その声に気付くものは誰もいない。 「死ね。乞食が!」 綺麗に整えられた世界は少なくとも、罵声を浴びせられ、靴の底で何度も踏み付けられる惨めな子供のためのものではなかったようだ。 少年はそこにいただけ。たったそれだけの事が彼らには、気に入らなかったらしい。 「お前、みたいな、奴が、生まれてきたのが間違いなんだよ!」 言葉と共に振ってくる暴力は、いつの日か少年の心を傷付けることはなくなった。 「死ね、死ね、死ね、死ね!」 地面に横たわり、ボロ雑巾のように身を縮める術は、少年がここで生活していくために欠かせない技術だ。 少年はこの状況を既に知っている。というよりも生きていくために知らざるを得なかった。 あともう少し、ほんの少しでこの時間は終わるはず。 最後に大きな衝撃がズンとお腹の方に響いて、少し眠ればまたいつもの日々が戻ってくる。 「おら死ねよ、とっとと!」 でもその日はいつもより少しだけ長かった。少しだけ、痛かった。 途中で少しだけ息を漏らしたのが原因だろうか、心の中でほんの少しだけ誰かに助けを求めたのが原因だろうか。 いや、そんなことを考える必要もないようだ。 いつものように視界が白く開け、徐々に端の方から黒く塗りつぶされていく。 変わらない日々。 でも、その日はいつもより少しだけ多く眠る必要があった。 少年が目を覚ますと、何も変わらない綺麗な街が目に飛び込んできた。綺麗な道に綺麗なビル。 本当に何も変わらない。 少年はいつものように少しだけ場所を移して座った。 固いコンクリートの上で、足をたたみ、頭を地面につける。こうするだけで、たまに情けを買える。そして情けは生へと化けるのだ。 コツン 何かが少年の後頭部に当たった。 でも少年の頭が地面から離れることはなかった。 既に少年のことを見ていないかもしれないが、少年は頭をさらに擦りつけることでしか与えられたものに対して返す方法がなかった。 しばらくすると、少年の近くに人が来た。 「見ろよ、こいつ。汚ぇな」 一人が少年を話題に挙げた また今日も始まったのだ。 罵倒し、貶し、そして暴力を振るう。今日もまた始まるのだろう。でも少年が何かすることはない。 少年は生きていくためのルールを決めていたから。 ルール一:何も見ないこと ルール二:喋らないこと ルール三:抵抗しないこと ルール四:何も感じないこと ルール五:何も考えないこと ルール六:自分を捨てること これだけを守っていれば、きっと大丈夫。 例え、鈍い音が響き、頭が割れるようでも。例え、あちこちが軋み、濃淡色の痣ができても。 少年は自分が決めたルールを守っていれば、きっと大丈夫、そう信じている。 今日を終えるには、あとどれくらいの時間が必要だろうか。 少年はいつもの状況の中で、ゆっくりと目を閉じると、またほんの少し長く眠った。 少年が目を覚ますと、今日もまた、綺麗な街が目に飛び込んできた。 でもどこか違和感がある。 綺麗な道に綺麗なビル、そして綺麗な街。いつもと変わらないはず、変わるはずのないもの。 だがその日、少年の目の端に一つの影が入り込んでいた。 「目を覚ましましたか」 少年は自分に話し掛けられていることが分かると、直ぐに頭を伏せた。 さっきの少し嗄れた声は、おそらく老人のもの。 少年は何故自分に声を掛けてきたのかを考えることはしない。 ルール五、何も考えないこと。 少年の中で、考えるということが役に立つことはなかった。 「安心しなさい。私はただの案内人」 老人は言葉を続けた。 それでも少年のやるべきことは変わらない。ただ地面に頭をつけ続ける。 じっとしていれば過ぎていくものだから。 「君がそこから動かない理由はわかっているつもりです」 老人の言葉を無視することに努めているが、いやに耳に残る。 でも少年はそのことに疑問を感じることも許してはいない。 「だからこそ私は君に言わなくてはいけない言葉があります」 ルールを守るのだ。今までルールを守ってきたことで、生きていられたのだから。ルールだけが少年の信じられるもの。少年を少年たらしめるもの。 そんな少年に老人は、一つの言葉を贈った。 「君は死んでいる」 老人の言葉は、なんの抵抗もなく少年の心に入りこむ。 別に不思議なことは何もない。いつかその瞬間は訪れると思っていたから。いつでも一番近くにあるものだったから。 死んだ。 それでも少年の頭は地面についていた。 死んでもやることは変わらない。自分のルールを守り、時間が過ぎ去るのを待った。 「君は死んだんだ。そのルールはもう必要ないだろう」 老人は酷く歪んだ正論を述べた。 その歪んだ正論は、今までの少年を否定する。少年が少年でありつづけるためのルールがなくなってしまえば、少年は一体何になればいいのだろうか。 でも死んでいるのなら、もう関係ないか。 少年は顔を上げ、自分のルールを破った。 『ルール一:何も見ないこと』 人の顔を見たのは、いつぶりだろうか。どこかぼやけて見える。 少年は老人の前に見た顔を思い出すこともできない。 「さぁ、おいで」 老人は少年の目を真っ直ぐ見つめると、手を差し出した。 少年は老人の手を静かに見つめ、両手でとる。 「君がこの世界を離れてしまう前に少しだけ案内しよう」 老人は少年を起こすと、背中を向け、歩いていく。 少年は少しだけ、背を見つめると、その後ろをついていくことにした。 しばらく無言で歩いていると、老人が少年に質問をした。 「どうです? この世界は綺麗でしょう?」 「……」 だが少年が答えることはない。 「そうですか」 老人は小さく呟くと、少し歩みを速めた。 少年は小ガモのように、後ろをそっと着いていく。 死んでもなお、この世界がどれだけ美しく作られていたのかが分かる。 なだらかで一切の抵抗も見せない道。空から降り注ぐ光を反射させ空間を輝かせる噴水。 計算され尽した建物の形や配置。塵一つ落ちていない徹底さ。 少年が居た世界は、汚れ一つない綺麗な世界だった。 「見なさい」 でも確かな汚れがその世界にはあった。 綺麗な世界を汚す、ただ一つの汚れが。 老人が指した先には綺麗な世界を保つ反面、全ての汚れを凝縮したようなヘドロの塊が無数に居た。 それは決まった形をとっておらず、常に形を変えている。 そしてそれらの持つ汚れた色は、この綺麗な世界をどこまでも邪魔をしている。 「アレが何か分かるかい?」 『ルール二:喋らないこと』 「……いえ」 少年は二つ目のルールを破った。 老人は口角を少しだけ上げるとさらに続けた。 「アレもこの世界になくてはならないモノだ」 老人はそう言うと歩を進めた。 「ここで待っていなさい」 しばらく歩いた後、老人は一人で大きなビルに向かっていった。 ビルの入り口にも二匹のヘドロが居る。二匹はモゾモゾと動き、老人に反応しているようだ。 しばらくすると老人が戻ってきた。 「おいで、中に入ろう」 老人は少年を連れてビルの中に入ろうとして、思い出したかのようにこう言った。 「これを持ちなさい」 少年へと差し出された手には、ネックレスが握られていた。 少年は何も言わずにそれを受け取る。 「話し掛けられたらそれを出しなさい」 老人はそれだけ言うと一人先に行ってしまった。 どうしようか。 少しだけその場で呆然としていたが、遅れてビルの中に入った。 ビルの中は宝石箱のようだった。 あちこちに黄金色の輝きを放つ装飾品がおかれていて、これまたどれをとっても美しい。 テーブルに椅子。細部まで綺麗に作られているそれには、またしてもヘドロがいた。 物は美しい。だが、それを持っているモノ、それを使用しているモノはどこまでも汚れているんだ。 少年がその場に立ち尽くしていると、今度は向こうから来た。 ヘドロが近寄って来て、上部をそっと少年の耳の横に近づける。 「何をしにきた? 汚らしいゴミが。ここは貴様のようなゴミが来ていいところじゃない!」 聞き覚えのある声だった。歯をくっつけ、口を横一文字に結びながら話しているのだろう。 少年はその場で頭を地面に付けた。 何も変わらない、いつもの姿勢だが、その場にはそぐわない。煌びやかな空間の中で行なわれる惨めな土下座など本来見ようと思っても見られるものではない。 それでも少年には、何が正しいのか知りようもないし、知ろうともしていない。 しかし今日は変だった。 なぜだかどこにも衝撃が響いてこない。 その代わり、老人の声が聞こえてきた。 「ルール三さ。出しなさい」 少年は老人から受け取ったものをヘドロに捧げるように渡した。 すると、途端にヘドロが慌て始めた。 「申し訳ありません」「許してください」「そんなつもりでは」なんて言葉が次々と少年に飛んでくる。 どうしてだろうか。これを出しただけなのに。こんなので。 頭を地面に着けながら少し思いを巡らせた。 すると堪えきれなくなったのか、ヘドロが少年を立たせ直しようのない汚い服を綺麗に整え始めた。 そして案内されるまま、老人と同じ席に着く。 テーブルの上に並べられている料理は、少年が見たこともない高級なもの。 「食べなさい」 老人は孫にご飯を振る舞うように、少年にも勧めた。 どこから手をつければいいのか分からず、あたふたする少年を老人は笑みを浮かべて見ている。 ようやく決めたのか、一番近い料理に手をつける。 黙々と食べる少年。 「どうだった?」 「……美味しいです」 「そうか」 老人はいつだって嬉そうに頷く。 「はい」 「もっと食べるかい?」 「いえ」 「周りはもっと食べているぞ?」 少年の周りにいるヘドロは、ポコポコと泡を弾かせながら料理を口に運んでいる。 ヘドロはどうみてもヘドロにしか見えない。どれくらい食べているかはわかりようがない。 「大丈夫です」 「そうかい」 「……あ、これ」 少年は老人にもらったネックレスを差し出した。 それは無数の面で構成された二つの物体が複雑に絡み合ってできていた。 「それはもう君にあげたんだ。君のものさ」 「でも」 「私にはもう必要のないもの。暇な時にでも色々いじってみるといい。パズルみたいなものさ」 「パズル」 「それにしても、君は気にならないのかい? その、アレが」 ヘドロに振り向きながら少年に問う。 「少しだけ」 「アレはね、ぷっ、ふははは」 老人は抑えることができず、吹き出すように笑い始めた。やがて大きく口を開け、涙を流して笑う。 ひとしきり笑い終えると、涙を拭って、身を乗り出し少年に囁く。 「アレは『人間』だ」

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません