ペロッ、と
9 千波美、慮る

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JR三ノ宮駅に千波美は六時八分に着いた。鉄朗はもう待ち合わせ場所の駅の北側の噴水の前で今日のデート相手である高瀬真理子が来るのを、首を長くしながら待っているはずであった。 今日の千波美はお化粧こそしていないものの、高校生からすればつま先立って背伸びしたような、少し大人びた雰囲気を醸し出していた。ニットで編んだ淡いピンクのワンピース、腰には細いベージュの革のベルト、胸元にはシルバーのハート型のネックレス、靴はベルトとコーディネートして同じくベージュのパンプス、そして小振りで可愛らしいオフホワイトのハンドバックを腕にかけていた。 実は、千波美にしてみれば、日曜日に何を着て行くかなんて土曜日の朝食の時まで全く考えてもいなかった。朝食の席で母親の千賀子が、千波美の顔を見るなり〈ニッコリ〉と笑いかけて、 「千波美、後でお母さんとデパートへ行こうか」と誘った。 軽く「うん。いいよ」と二つ返事で承諾すると、 「千波美にもオシャレさせないとね。だって、日曜日には鉄朗とレストランで食事でしょう。いつもみたいにジーンズとトレーナーというわけにもいかないものね」とウインクを返してきたのだった。 この時、千波美は心底驚いた。まだ、明日の計画のことは、当然鉄朗には極秘であることは言うまでもないことだけど、千登勢にも千賀子にも固く貝のように口を閉ざし、一言も漏らしていなかったからであった。 こうして、十時過ぎになって、パジャマのままで寝ぼけ眼で起きてきた鉄朗に留守番を押しつけると、千波美と千賀子は〈イソイソ〉と、軽自動車に乗り込むと『サンキュー百貨店』へと出かけたのであった。 久しぶりに母と娘の二人で楽しそうに、『ああでもない、こうでもない』と千波美のための買い物を選び終えた後、千波美は千賀子を促して五階にある紳士洋品売り場へと向かった。そして、そこで鉄朗へのプレゼントとして一本のネクタイを自分のお小遣いで買い求めた。明るいえんじ色の地に小さなイヌと棒のような(顔を近づけてよく見るとイヌの大好きな骨のようだ)図柄が散りばめられた可愛らしいデザインのネクタイ。 勿論、鉄朗は千波美のこのプレゼントに跳び上がらんばかりに喜び、さっそく明日のデートにこのネクタイを締めていくことを千波美と約束したのだった。                    * 改札口を通り抜け、駅の中央出入り口の北側へ出ようと思ったが、そうすれば直ぐに鉄朗に見つかってしまうと考え直して、千波美はわざと駅の東口から迂回して鉄朗の後方に廻り、そこから鉄朗の様子を眺めていようと思い至った。 ラッキーなことに、ちょうど噴水の北側にバスターミナルがあって、そこから待ち合わせの乗客に紛れて千波美は鉄朗の様子を観察することができた。 鉄朗は高瀬真理子が現れると信じて、駅の中央出入り口の方へと熱い視線をひんぱんに送り続けた。そして時折、携帯で時間を確認しているようであった。 千波美は時が刻まれるのを〈ジリジリ〉する思いで待ち続けた。そして、遂に≪運命の六時二十一分三十秒≫が訪れた。鉄朗は右手に持っていた携帯を右の耳に押しあてた。千波美の頭の中に鉄朗と高瀬真理子の会話が流れた。 (・・・・・・いいから、いいから。高瀬さん、そんなに気にしなくてもいいよ)千波美は目の前のバス路を横切り、小走りで鉄朗の方へと向かって行った。しかし依然として視線は鉄朗を見つめたままであった。鉄朗が左手でカリカリと頭を掻きながら顔を下に向けた。千波美は鉄朗の斜め後ろ側に立った。 「叔父さん。鉄朗叔父さん」 鉄朗は(アレッ?)というように振り向いた。 「千波美じゃないか。どうしてお前がここにいるんだ?」 「美香の買い物に付き合って三ノ宮のセンター街に来たんだけど、美香ったら隆君と映画観る約束してるんだって。私も誘われたけど、お邪魔虫でしょう。だから、家へ帰るつもりで駅まで〈トボトボ〉歩いて来たら、突然叔父さんがここに居たわけ。まあ・・・・・・、そんなことより折角ここで会ったんだから、叔父さんのデートのお相手を紹介してよ。まだ来てないの?」鉄朗は千波美の顔を見るとほろ苦く笑った。 「彼女、来ないんだ。さっき電話があって、彼女のお母さんの身体の具合が悪くて、今病院へ付き添って来てるんだって」 「そう・・・・・・」 千波美の目尻から涙が溢れてきた。だから、咄嗟に下を向いた。 「どうかしたのか?千波美」 「都会ってどうしてこうも埃っぽいんだろうね。目にゴミが入ったよ」 「ほら」鉄朗はズボンのポケットからハンカチを取り出すと千波美の手に握らせた。 千波美はそのハンカチで目元を拭うと、 「叔父さん、レストランをキャンセルするんだったら、私と行こうよ」 「そうだな。キャンセル料、七十パーセントも払うのなんてバカらしいしな。千波美さえオーケーしてくれるんだったら一緒に飯食いに行こうか?」 「賛成!」 「でも・・・・・・」鉄朗は千波美のつま先から頭のてっぺんまでを眩しそうに眺めた。 「どうかしたの?」 「いや。俺も歳を取るはずだと思ってさ。だって、いつまでも子供だ、子供だと思っていた千波美がもうこんなに素敵なレディーになっちまっていたなんて」千波美は面恥ずかしそうに微笑んだ。 「ところで叔父さん、私どうしても聞きたいことがあるの。気を悪くしないでね」 「・・・・・・」 「叔父さんは本当にその高瀬真理子さんって人が自分の母親を病院へ連れて行くために、今日のデートをドタキャンしたと思っているの?」 「・・・・・・」鉄朗は無言で唇を“ギュッ”と、閉じた。 そして、次に口を開くと、静かな口調で、 「病院にロックみたいにテンポの速い音楽は不釣り合いだしな。でも、真実はどうあれ、彼女の言い訳をそのまま信じていた方が相手のことを悪く思わなくていいじゃないか」 「・・・・・・叔父さんって優しいのね」 「そうじゃないよ。ただ、自分が傷つくのが怖いだけさ。ただの臆病者なんだよ」 「でも私、そんな叔父さん好きだよ」鉄朗は照れたように微笑んだ。 「じゃぁ・・・・・・」鉄朗は左の拳を腰にあてると腕で輪を作った。そして、千波美が右腕をその中に通すと、二人で腕を組んだ。 「では、千波美お嬢様。私、石橋鉄朗がレストランまでエスコートさせていただきます」鉄朗の芝居がかった言いまわしに千波美が吹き出した。 そして、二人は北野坂の方へと向かって、仲良く並んで歩き出したのだった。 夕映えの黄昏模様が、茜色にうっすらと神戸の町並みを色づかせていく景色の中で、叔父と姪の二人は顔を見合わせ、子供のように無邪気に笑い合っていたのだった。

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