しーなねこ十篇
スナックフジツボ

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 海が近いからか、三浦海岸特有というわけでもないだろう。壁や天井にフジツボがびっしり張り付いているスナックがある。もちろん磯臭い。  酔ってふらついて、壁に手でも突いたら血まみれになるし、そういう客を何度か目にしたこともある。ママはこの状態をそのままにしていた。  天井が低いので危ない。以前に同席した客――YRP野比から来たと言っていた――は、やってはいけないと言われると、やらずにはいられなくなるという強迫神経症的な性格で、それについて悩んでいると打ち明けてきた。適当に話を聞いていたら、ついにフジツボの話題になった。今夜が初来店で、ドアを開けて面食らったという。 「フジツボ硬いから、手とか気を付けてくださいね」  と私が言ったら、酒を作っていたママが、 「そう、天井も低いから、ジャンプとかしちゃだめよ、まさかしないとは思うけど」  と言って、アハハハと笑った。  私は、あっと思って客を見た。客は思いつめたような表情をしていた。明らかに緊張している様子だった。私は話題を変えようと、YRP野比の「YRP」って何なんですか? と聞いた。しかし、客は心ここにあらずだった。まずいと思い、野比って「野比のび太」の野比ですか? あ、大岡正平の野火って読んだことあります? 映画化されましたよね。  客は黙って立ち上がると、奥のトイレに消えた。 「ママ、聞いてなかったの? あの人、やっちゃいけないって言われると、どうしてもやらずにはいられなくなるタイプだって」 「え、そうなの? 聞いてなかったわ。何それ? 何システム?」  トイレでドンという鈍い音がして、私とママが慌ててトイレに駆け寄り、ドアを開けると、顔が血まみれになった客が便座に腰を下ろしていた。血まみれだが意識はしっかりしていて、我々の方を半笑いで見ながら言った。 「だから言ったじゃないですか……」  トイレの天井にもフジツボはびっしり付いていて、客がジャンプして激突したであろうあたりは、砕けていた。  そんなことがあっても、ママはフジツボを剥がすことをしなかった。海水の入った霧吹きを、仕事の合間に撒くことを忘れなかった。 「ホタテとかに付いたら邪魔者扱い、船の底に付いたらスピードが鈍ると嫌われて。けどね、東北の方の大きいフジツボ、ミネフジツボは高級食材として流通してるのよ」  ママがフジツボの話をするときの目は、いつも優しかった。

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