美沙緒が彩綾を連れて藤波家に慣らし保育にやってくるようになった。 まずはこの家の環境に慣らし、徐々に美沙緒から離れていくことに慣らす。初日は美沙緒がトイレに立っただけで大泣きしていたが、次第に慣れていった。 「彩綾ちゃん、わりとすぐに馴染んだっぽいっすね。よかった」 「うん。あの子、思ったより人見知りしないみたい。意外と平気なんだなあってちょっと驚いちゃった」 「この調子ならライブ行けそうっすね」 「そうだね。でも……いいのかなあって迷うところもあるの。子ども置いてライブだなんて、私悪い母親なんじゃって。夫にも、言われちゃって」 美沙緒は布団の上で大の字になっている彩綾の頭を撫でながら言った。先ほどまでぐずっていたので、彩綾の目元にはまだ涙の跡が残っている。 美智恵に呼ばれて蒼良と美沙緒はリビングへ移動した。麦茶と羊羹が準備されている。蒼良が好きな高級羊羹だった。 美沙緒をからかうように「ゆっくりどうぞ」と伝えると、美沙緒は照れくさそうに笑っていた。それでもやっぱり早食いの癖はなかなか抜けないらしい。 美沙緒はときどきこうやって美智恵とティータイムを過ごしている。 その中で、美沙緒は蒼良の家庭環境の話を美智恵から聞いたようで、先日の蒼良の問いに合点がいったらしい。 どうしてそんなことを質問するのかとずっと考えていたそうだ。 羊羹を口に運びながら、蒼良は先ほどの美沙緒の話を頭の中で反芻していた。 「美沙緒さんは悪い母親じゃないと思います」 「なんなのいきなり、蒼良」 「ん、さっき美沙緒さんとそういう話をしてたから」 美沙緒は気づいていない。悪かろうがなんだろうが、美沙緒は彩綾の母親であろうとしていることを。 それがいかに尊く、大変なことなのか──どんなに彩綾にとって喜ばしいことなのかを、美沙緒は知らない。 変わらずに愛情を注いで、母親という肩書きを捨てずにいることがどんなに難しいことなのか。それをどうして当然のように求められるのか。産んだ義務といえばそうなのかもしれないけど。 「だって、米10kgより重いもの抱えてんだよ。しかも毎日。やばいっしょ、それ」 「……そうなのかな」 「そうっすよ。だからときどき手ぶらになんなきゃ……その、腕折れちゃうし。それって悪いことじゃないって思うんっすよね」 ──なにを言ってるんだ。支離滅裂になってないかな。 なんだか取ってつけたようで、だんだんと気恥ずかしくなってきた。 子育てもしたことがないような若造にこんなことを言われて、美沙緒が気を悪くしないかとひやりとした。 だけど、美沙緒に伝えておきたかった。
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