お気に入りのカフェに、最近お気に入りの店員ができた。外国人の男の子。背が高くて色白で、イケメンで、何より――。 「お待たせしマシタ。Hot coffeeです」 瞳が、エメラルドみたいで綺麗。だからついつい見とれてしまう。不思議そうに小首をかしげる姿もかわいくて、いっそ養いたくなる。 「いや、目が綺麗だなぁと思って」 本心がそのまま口からこぼれた。流れ作業のようにコーヒーを飲もうとして気づく。完全に余計なことを言った。私は綺麗だと思うけど、本人は気に入ってないかもしれない。ていうか気持ち悪いよね、急にこんなこと言われたら。 「そんなに気に入ってくれタンなら、お姉さんにあげマス」 私はもうお姉さんじゃない。アラサーだし。この子はたぶん大学生のバイトくんで、おそらく私の10個下。まあお母さんではないか、ていうか今あげるって言った? 見上げた先に、片目を覆ったバイトくん。何やら「フン!」と気合いを入れている。くれるってその目を? 目ってそんな自由に取り外しできる代物だったっけ。いやそんなわけないし、仮にそうだとして目を差し出されるのはあまりにもホラーすぎる。 「はい、ドーゾ」 差し出されたその手に、さすがに目は乗ってなかった。安堵すると同時にどうしようか悩む。空っぽの手に彼はきっとエメラルドを乗せてくれているんだ。なら有難く受け取るほかないか。 「ありがとう」 目に見えないエメラルドを受け取る。おままごとみたいだな。まあいっか、そんなに嬉しそうな顔をしてくれるんなら。付き合いがいがある。 伝票を置いて会釈して去っていく彼に、私も会釈を返して。さてどうしたもんかとエメラルドを見つめる。このままなかったことにしてしまうのはもったいない。せっかくもらったんだし、とコーヒーに振りかけてみる。これを飲んだら私の目もエメラルドみたいにきらめくだろうか。 カフェにはいつも、日曜日に行く。職場からも家からも少し遠い。あえて、行き帰りで通らない場所にあるカフェを選んだ。休日ぐらい100パーセント癒やされたいから。 1杯のコーヒーで充分だったところにかわいいバイトくん。幸せって日常から離れたところにあるんだな、なんて、まるで恋する乙女だ。 「お待たせしマシ――あっ!」 どうやら気づいてくれたみたいだ。別に気づいてほしくて塗ったわけじゃないけど。いや気づかれないとちょっと寂しいけど。 「ボクとおそろいデスネ」 ニコニコ笑ってくれるから私もつられて笑ってしまう。さすがに目はエメラルドにならなかったから、代わりにマニキュアを塗った。ずいぶんサボっていた指先のオシャレ。1色でも充分、綺麗だ。 「うん、君が先週くれたから」 「でも、先にくれたのはお姉さんダヨ」 私があげた? ううん、私は先週もらっただけで。意味がわからず見上げると、バイトくんは寂しそうに笑った。 「何でもないデス。ごゆっくり」 伝票を置いて会釈して、去っていく。先週と同じ動作なのに違って見えるのは何でなのか。私が何か忘れているのか、彼が誰かと間違っているのか。お気に入りのコーヒーが、いつもよりずっと苦く感じた。 せっかく癒やしの日曜日だったのになぁ。いつも通り買い物を済ませ、いつも通り帰宅。家でひとりなんて当たり前で慣れっこなはずなのに今日は虚しく感じる。……あ、マニキュア落とさなきゃ。 気づいてくれて嬉しかった。おそろいだって笑ってくれて、嬉しかった。上手に塗れたから落とすのもったいないなぁ。明日から仕事とかヤダなぁ。 エメラルド色の爪をぼんやり眺めながら、ふと思い出す。右手の薬指にはめていた、エメラルドの指輪。私の誕生石だからって元彼が買ってくれたんだ。振られてヤケ酒して気づいたらなくなってたけど、どうせなら売るんだったな。 別れてもう2年になる。他に好きなひとができた、そう言って私を振ったアイツはその子と結婚したらしい。私と結婚するもんだと思ってたから、好きだったから。 悲しい思い出をかき消したくて除光液を手に取った。いい思い出だってたくさんあったはずなのにな。最後の悲しい思い出で全部かき消されてしまう。 日曜日。いつも通りカフェに行くべきだろうか、と考える。別に何か嫌なことがあったわけでもない。ただ、勝手に気に入ってるバイトくんと話が噛み合わなかっただけだ。 たいしたことじゃない。むしろこれをたいしたことだと思うのなら、そんなのただの恋だ。私はあのバイトくんがかわいいから気に入ってるだけ。10個も下の大学生に恋だなんて、身の程知らずすぎるし。もうしばらくそういうのはいいんだ。 「――いらっしゃいマセ」 無駄に気合いを入れてここまで来たっていうのに、バイトくんが気まずそうにするから私も顔が引きつってしまう。いい歳した大人が、今さら何うろたえているんだか。 「ホットコーヒーください」 いつも通りを装いながら席に着く。いつもならスッと会釈して去っていくのに、今日は動かない。聞こえなかったのかな、なんて可能性の低い理由を作って見上げる。エメラルドみたいな瞳と目が合って、私はなんだか呼吸がしづらい。 「ボク、もうすぐ上がるので。少し外でお話できまセンカ?」 断る理由がなかった。だから頷いた。バイトくんがぎこちなく笑った。彼の気持ちが、ぼろぼろこぼれるみたいだった。 「お姉さん、お待たせデス」 コーヒーを飲んだあと外で待っていたら、私服に着替えたはずのバイトくんが駆け寄ってきた。いつものウェイター姿もかっこいいから少し、私服姿に期待したりしていたんだけど。 「……学ラン?」 学ランって制服で、しかもこれ知ってる高校のだし、え、ずっと大学生だと思い込んでたけど高校生? え、あれ、もしかしてこれ犯罪? 「あ、メガネ忘れてた」 綺麗な目を隠すように黒縁のメガネをかけてから、バイトくんは笑った。よくわからない展開。何が起きてるの、いったい。 「ごめんなさい、急に。メーワクだった?」 「いや、迷惑とかじゃないんだけど、あの、高校生だったの?」 「違うよ、初めてお姉さんに会ったときと同じカッコしたら思い出してくれるカナって」 初めて私に会ったとき……? 私、高校生に手を出したのか? いや手を出されたとは言ってない。もし出してたならそれこそ犯罪だし。私バイトくんに何やらかしたの? 「じゃあ、コレは? 覚えてナイ?」 胸元からネックレスを引っ張り出す。覚えてないわけがない。先週だって、勝手に思い出して悲しくなってた。元彼がくれた指輪。エメラルドの、指輪。 「何で、持ってるの?」 「お姉さんがくれたんダヨ」 「私が?」 「ニッポンの高校に来て、みんなとジョーズに仲よくなれなくて、落ち込んでたらお姉さんが」 急激に思い出してきた。元彼に振られてヤケ酒して、その帰り道。高校生の男の子が座り込んで悲しい顔をしてて。酔った勢いであげた――っていうか押しつけたんだ。自分で捨てる勇気なくて。 「あのときお姉さんが言ってくれタノ。『君の瞳は、このエメラルドみたいに綺麗なんだから』って。ボク嬉しくて。それからずっと、お守り」 申し訳ないという気持ちが、いちばん正しいように思う。もちろん指輪は悪くない。エメラルドに変わりない。ただ、思い出が悲しすぎるだけ。 「ごめんね、それ元彼にもらったもので。あんまりいい思い出ないから、お守りの効果ないかも」 言いながら悲しくなった。ごめんね。本当はいい思い出ばっかり思い出したかった。悲しい思い出なんていらなかった。誰も悪くないのにね。アイツはたぶん、幸せなんだろうし。 「でも、お姉さんに会えタヨ?」 「たまたまだよ」 「好きなひとがくれたんでしょう? それって、愛のカタチだよ」 ――そうだ。好きだった。たぶんアイツも、好きでいてくれた。愛のカタチなんて、そんな綺麗なものじゃないけど。あのとき確かに愛はあった。それは嘘じゃない。 「お姉さん、今度はボクがあげるネ」 見上げた先に、エメラルドみたいな瞳。みたいなだけでエメラルドではない。だって目の前の彼は生きてるし、何より、エメラルド以上に綺麗だから。
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