いつか森になる荒野
11 二人きりの家の中

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 玄関を入ると、左側が上がり口になっていた。「おじゃまします」と声をかけると、美国が奥から着替えとタオルを持って現われた。 「シャワー、先に浴びて」  雨に濡れた僕を気遣ってくれたのだろうが、同じくびしょ濡れになった女の子を差し置いて先にシャワーを使わせてもらうほど、僕は無神経ではない。美国の後で良いと辞退したがゲストが先だと押し切られて、先にシャワーを使うことになった。  美国の家は上がり口から奥へ続く廊下の南側が廊下との壁の仕切りがないオープンなリビングとキッチンになっていて、開放感のある造りだった。  美国はリビングの対面に二つあるドアの、玄関に近い方のドアを指した。 「そこが洗面所兼脱衣所と浴室。棚にあるタオル、どれでもいいから使って」  濡れた服を持って帰るためのビニール袋をもらい、早々にシャワーを浴びて、用意してもらった服に着替えた。僕には少し大きいTシャツとジャージパンツを着て、濡れた服を入れた袋を持ってドアを出ると、リビングとキッチンの間にある広めのキッチンカウンターで美国がコーヒーを入れていた。カウンターの両側に二つずつ椅子があるところを見ると食卓テーブルを兼ねているのだろう。 「これ、飲んで」  美国はカウンターに置いたマグカップを視線で指し、僕と目を合わさず着替えを持って脱衣所のドアの向こうに消えた。  僕は椅子に座って、コーヒーを飲みながら、初めて見る美国の住まいを見回した。  廊下やキッチンに壁の仕切りがない分広く見えるが、お世辞にも片づいていると言える家ではなかった。カーテンレールには洋服が無造作に掛けてあるし、ゴミ箱にはゴミがあふれている。それでも僕がシャワーを浴びている間に少しは片づけたのだろう。新聞や雑誌が雑に部屋に隅に積まれ、テレビのリモコンや細々した物が一まとめにリビングのテーブルの上に置かれている。その横にはノートパソコンと吸い殻が山盛りになった灰皿。テレビの台には埃が積もっているなど、掃除も行き届いていない。きれい好きな僕の母が見たら激怒して、速効で掃除機を出してくるレベルだ。  嗅ぎ慣れない他人の家の匂いの中で、僕は落ち着かない気分でとりとめなく思考を巡らせた。  美国が言う怪我の手当は、おそらく僕を家に招く言い訳だろう。  では、こんな夜中に僕を家に招いた訳は?  やはり、美国は何かに悩んでいて、僕に相談したかったのではないだろうか。  それは、もしかしたら家族のことなのか。それならば僕より遙かに付き合いの長い旭たちが気づかないわけがない。だったら、漫画家になりたいという夢をみんなに反対されて困っている、とかだろうか。いや、親は知らないが、旭たちなら全力で応援しそうだ。多分これも違う。同じクラスにいて見ているが、誰かからいじめを受けている様子もない。成績も真ん中辺りで、勉強について行けないなんて状態でもない。  じゃあ、何だ。  学校が楽しくなさそうな美国の心の陰は、何なのだろう。  どこかから聞き覚えのある音楽が聞こえた。僕のスマホの着信音だった。脱いだシャツのポケットに入れたままだったのを思い出し、足元に置いた袋から慌ててスマホを取り出した。  表示された名前を見て、僕は電話に出るのを躊躇した。僕に電話をかけてきたのは由香里姉ちゃんだったからだ。  これは絶対僕が黙って家を出てきたのがバレている。夜中にどこで何をしているのか、問い質すために違いない。  正直、電話に出たくなかった。出れば早く帰ってこいと怒られるだろうし、言い訳するのも面倒くさい。  僕は電話に出なかった。電話は一度切れて、またすぐにかかってきたが、僕は無視し、二度目の電話が切れるとすぐにマナーモードに切り替えた。これでひとまずは着信音に悩まされずに済むが、家に帰った時のことを考えると気が滅入り、ため息をついてカウンターにスマホを投げ出した。  それから少しして美国が戻ってきた。美国は僕のように少し身体より大きい黒のTシャツにグレーのハーフパンツ姿で、タオルで荒く髪を拭きながらキッチンカウンターを挟んで僕の斜め前に座った。 「着替え、大きかったかな」  気遣う言葉を言う割に、美国は俯いて視線を向けては来なかった。 「いえ、大丈夫です。これ、お父さんの物ですか」 「いや、兄の」  兄弟がいたとは知らなかった。旭からも広海からも聞かなかったので、てっきり一人っ子なのだと思っていた。 「県外の、J3リーグのクラブチームで、サッカーしてる」  美国の兄は小学生の頃からサッカーが得意で、中学、高校とサッカーの強い県外の私立校へ行き、そこからクラブ入りしたのそうだ。  美国の家は、『人様の迷惑になったり犯罪を犯したりしない限り、自分のやりたいことをやれ』が家訓。両親からして趣味優先だという。 「お父さんもお母さんも、何かやってるんですか」 「母は、アマチュア劇団の裏方しながら、脚本書いてる」  今日留守なのは、その劇団の人たちと温泉に行っているから。父親は納田市の向こうにある勝浦市に単身赴任中だが、釣りが好きで休みの日には同僚と釣りに出かけるので家には滅多に帰ってこない。兄もサッカー留学してからは、サッカー三昧で殆ど帰って来ず、たまに帰郷しても小学生の頃所属していた地元のサッカークラブの友人の家を泊まり歩いて、この家は荷物置き場代わり。  美国は何の感慨もなく話すが、変わった家族だと思う。素人劇団とはいえ脚本書きなんて相当な才能の母親も驚きだが、自分のやりたいことを優先して家にも帰らない父親と兄にもびっくりだ。僕ならそんな家族がバラバラの家庭は耐えられない。 「寂しくないですか? そんなの」 「別に。うちはずっと、こんなふうだから」  両親が好きでやっていることの話を楽しげに語るのを聞くのは面白く、両親も自分の描く絵を褒めてくれる。兄とは元々男女差と年齢差のせいでそう精神的に密着した関係ではなかったし、自分は兄の卓越した運動神経を、兄は妹の絵のセンスを、お互い尊敬し、尊重している。家族全員、自分と同じ好みや思考でないからといって疎んだり、馬鹿にしたりすることはない。  訥々とそう語る美国からは、家族に悩んでいる様子は見受けられなかった。考えてみれば、もし本当に家庭に問題があるのなら、美国はもっと荒んでいるはずだ。  美国の悩みはやはり学校関係にありそうだが、そのこと自体、僕の勝手な思い込みなのかも知れない。家に招かれたのだって悩みがあるから相談したいと言われた訳でなく、怪我の手当を頼まれたからで――と僕は思い出した。 「美国、怪我の手当はしなくて良いんですか?」  僕の問いかけに、美国の肩がビクリと跳ねた。 「……う、うん、あ、あの、た……頼む」 「ええと、薬箱というか、ガーゼとか絆創膏とかはどこに」  僕の問いに美国は逡巡するような表情を見せた後、 「私の、部屋に、ある、から、来て」  何か喉につかえたような声でそう言うと、ぎこちない動きで椅子から立ち上がり、ギクシャクした歩き方で、リビングの向こうにある二つのドアに一方の方へ歩き出した。  僕は美国の背中を見ながら、内心首を傾げた。  何だろう。手当を頼んだものの、もしかして実は傷を消毒されるときの痛みが嫌なんだろうか。最近は消毒液や傷薬を使っての手当より湿潤療法を選ぶ方がいいらしいからそっちを提案しようと思っている。だからそんなに緊張しなくても¬¬――緊張?  瞬間、僕の頭に一つの考えが閃いた。  美国は、僕が好きなんじゃないのか。  それに基づいて思い返すと、美国の今までの不可解な言動が一気に理解できた。  僕は旭と付き合っている。勿論それは偽装と美国は知っているが、周りは知らない。だから美国が僕を好きで、僕と付き合いたいと思っても、仮に僕が交際を承諾したとしても周囲から見れば親友の恋人を奪ったように見える。そうはなりたくないから告白はせず、僕の近くによれば告白したくなるから距離を置いていた。僕と話すときにぎこちなかったのは、僕に恋心を知られないよう緊張していたからなのだ。  けれど今夜、思わぬチャンスが訪れた。旭たちに言い訳できる状態で、僕を呼び出せた。二人きりで会って、美国の隠していた気持ちは限界になり、怪我の手当を口実に家に招き入れた。  何のために? そんなの、決まっている。美国は僕に恋心を打ち明けるつもりなのだ。  もし告白されたら、どうすれば良いのだろう。僕は美国を嫌いではない。だから断るのはもったいない気がする。旭と円満に恋人契約を解消できるなら、美国と付き合ってもいいかもしれない。それとも旭には何も言わず、学校では旭の恋人で、校外でだけ内緒で美国と付き合うとか。  僕は心を決めきれないまま、美国が待つ部屋に入って。  危うく上げそうになった声を、辛うじて飲み込んだ。  美国の部屋は、一言で言えば酷かった。  部屋の真ん中にカーテンレールらしきものがあるので、元々はアコーデオンカーテンで仕切られた二部屋だったのだろう。それを仕切りをなくして一部屋として使っているのだから結構広いのだが、床のあらゆる所に無造作に本が積み上げられ、様々な種類のパンフレットが散らばっていた。  広海の見舞いの帰りに買った本は段ボール箱に入ったまま置かれてあり、旭の家からもらった雑誌は床に座って読んだのか、ページが開いた状態で放置されている。ゴミ箱はクシャクシャに丸めて捨てた紙で溢れ、部屋の隅に置いてある大きめの赤いプラスティックのかごには、封筒や菓子のおまけや学校のプリントなどが何の選別もせず放り込んである。  制服はだらしなく椅子に掛けてあり、机と横のワゴンには漫画を書くために必要らしい道具が置かれていた。  美国の世界の辞書には整理整頓という言葉はないのかと思うくらいの酷さだったが、ベッドだけはまともに片付いていた。  薄いグリーンとレモン色で描かれたクローバー模様の掛け布団が目に入った途端、僕の心臓が大きく跳ねた。  乱雑な部屋の中で、ベッドだけが片付いている訳。  怪我の手当ならリビングでもできたのに、美国が自分の部屋に僕を招き入れた訳は。  美国は僕を誘惑しているのじゃないのか。  身体を使って、僕を自分の方に振り向かせようとしているのでは。  美国は救急箱を持って、部屋のややベッド寄りの所に俯いて立っていた。ベッドに近いと言えば近いが、少なくともそのまますぐにベッドの上に押し倒せる距離ではない。けれど、それは美国には精一杯の誘いなのかもしれない。  そう、これは所謂、据え膳という奴だ。 「あ……あの、これ、救急箱」  美国の、箱を持つ手が震えている。身体は強ばり、呼吸も速い。極度に緊張しているのは一目瞭然だった。  僕は密かに息を飲み、平静を装って美国から救急箱を受け取った。 「じゃ、じゃあ、傷の手当てをしましょうか」  無理にも笑いかけると、美国は俯いたままぺたりとその場に座った。 「え、ええと、左肩、でしたよね」  無言のまま微かに頷いた美国の左側に僕が座ると、美国は身じろぎして、僕と少し距離を空けた。  多分美国は未経験だろう。でも僕だって経験がない。雑誌などで仕入れた情報が目まぐるしく脳内を回る。  どういう手順で行く? キスしてから抱き寄せるか、その逆か? 嘘でも何か言った方が良いのか? あ、ゴム持ってないけど大丈夫か? もしも、恐いと泣き出されたらどうする? やっぱり嫌だと抵抗されたら?   ああ、もう考えるのも面倒だ。後は本能に任せる。  僕は半ば思考が飛んだ状態で、美国の左腕を取った。  途端、美国がすごい勢いで僕を突き飛ばし、立ち上がって部屋を走り出ていった。すぐにどこかのドアが乱暴に開く音がして、嘔吐く声と水が流れる音が聞こえてきた。 「美国、どうしたんですか」  慌てて追いかけて行ってみると、美国はトイレのドアを開け放ったまま便器に顔を突っ込むようにして吐いていた。  便器まで保たなかったのか、トイレの床と服を吐瀉物が汚している。悪臭が漂う中、美国は泣きながら嘔吐していた。 「大丈夫ですか」  僕が駆け寄ろうとすると、美国はドアを閉めて鍵を掛けてしまった。 「来ないで」  中から美国の泣き声まじりの叫び声が聞こえた。 「頼むから、来ないで」  再び叫んだ後、中でまた水音と嘔吐く声が聞こえる。 「わ、分かりました。今、救急車を呼びますから、そこで安静に」  急に吐くなんて、何の病気なのか分からない。一刻も早く病院へと僕は焦ったが、 「呼ばないで」  美国が泣いてドアを叩いた。 「救急車は、呼ばないで。お願い」  しゃくり上げて泣く美国の声色はパニック気味で呼吸が異常に速く、僕は彼女が過呼吸で倒れるのではないかと狼狽した。  僕の二番目の姉は美容師をしている。その姉が初めて勤めた店で大きな失敗をして帰ってきた夜、過呼吸を起こしたことがあった。救急車を呼ぶ電話で父が救急隊員の人の指示を受けてした対処法を思い出し、僕はドアにすがりつくように座ると必死に美国に声を掛けた。 「美国、ゆっくり呼吸してください。救急車は呼びませんから、深呼吸して。大きく息をしてください」  ここで僕が慌ててはいけない。本当は口に袋かタオルを当てて、落ち着くように声を掛けながら背中をさすって呼吸をコントロールしてやるのが良いのだが、ドアの向こうの美国にしてやることができない僕は懸命に言葉を探し、美国に話しかけた。 「ゆっくりゆっくり大きく息をしてください。大丈夫です。ゆっくり息をするごとに苦しくなくなりますから、身体の力を抜いて」  僕の声が届いているのか分からない。でも、今僕にできるのはこれしかなかった。 「深呼吸しながら、きれいな景色を想像してください。あ、前に本を買い込んだとき誰かの写真集を買ってましたよね。あの表紙の菜の花畑、きれいでしたよね。あの景色を思い出して」  美国の荒い呼吸音が少しずつ治まってきた。 「花って言えば、僕の家の隣に住んでる人は蘭の花を育てるのが好きで、温室まで作ってるんです。で、この前花が初めて咲いたっていう蘭の花を見せてくれたんですけど、信じられますか、花が咲くまで二十二年かかったそうなんです。花が咲くまでに二十年以上かかる植物を育てようなんて、蘭愛好家って何て気の長い人たちなんだって、呆れを通り越して、尊敬しましたよ」  僕は思いつくまま、どうでもいい話を美国に話して聞かせた。僕は話の上手い人間ではないから、美国が安心してリラックスできるような話はできない。それでも話しかけずにはいられなかった。ドアの中の美国がどんな状態でいるのか、不安で黙っていられなかったのだ。  美国の息をする音が小さくなって聞こえなくなり、僕は恐る恐ると問いかけた。 「……美国、大丈夫ですか」 「……うん……大丈夫」  か細いが美国の落ち着いた声を聞いて、僕は大きく息を吐いた。 「今、水を持ってきます」  キッチンに行くため立ち上がると、足がしびれていてよろけそうになった。カタカタと歯が音を立てて鳴っている。それだけでなく足が小刻みに震え、手は白くなるほど冷たく、僕は今になって僕の身体が恐怖に苛まれていたことを知った。  恐かった。美国が死んでしまうのではないかと、僕は本当に恐かったのだ。  僕は歯を食いしばり、震える足を自分で叱咤しながらキッチンへ行き、適当なコップを二つ用意して、一つは塩水を作って美国の所に戻った。 「美国、水を持ってきました。ドアを開けてください」  僕は美国がドアを閉めてしまったのは、吐いている姿を見られたくなかったからだと思っていた。だから、落ち着いた後は開けてくれると疑いもしなかった。  しかし、声を掛けてもドアを開かなかった。 「美国? 大丈夫ですか?」  大丈夫、と返事はあったが、ドアは開かない。 「どうしたんですか。ドアを開けてください」  もしかしたら吐瀉物で汚れた姿が恥ずかしいのかと思い、気にすることはないと伝えようとしたとき、 「あ、あけられ、ない」  美国の泣き声が聞こえた。 「ご、めん、わた、し、こわい、んだ」 「恐い? 何が恐いんですか」 「お、おとこの、ひとが、こわい。おとこの、ひとの、てが、こわい」  さっきのようなパニックになったような泣き方ではなかったが、心底怯えた泣き声だった。 「……どうして」  無意識に呟いた僕に、 「……がっこうの、せんせいに……レイプされたから」  ドアの向こうから世にも恐ろしい返事が返ってきた。

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