サマースプリンター・ブルー
ムチュールは怖い、松永くんは淡い

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 恋にも速度がある。  彼の淡い笑み。  純度の高い瞳の黒。  高校二年生の夏、私はふたたび彼と向かい合うことになる。  その偶然をもたらしてくれた神様と両手でハイタッチをしながら、今、私はこの恋が、急スピードで加速しているのを感じていた。 ――去年、高一の初夏。  数学の授業。私はひどく眠たかった。たしか体育のあとで、教室内には気だるい空気が漂っていたように思う。くわえて私はその前夜、好きなミュージシャンの深夜ラジオをリアルタイムで聴いてしまったせいで、とにかくまぶたが重たかった。  うちの高校は丘の上に建っていて、窓からは空と海が広がる青い景色が見える。その平和の風景がまた淡い眠りを誘うが、しかしムチュールの目が怖い。彼は居眠りしている生徒を見つけると冷ややかに名指しし、時には公開説教を食らわしたりするので、私は前歯を舌に押し当てたり手の甲をつねったりしながら眠気と闘っていた。ポケモンのムチュールに似ていることから、私が勝手につけた数学教師のあだ名だけど、小柄で童顔めいたかわいらしい顔をしているのに、やることは鬼だ。小鬼だ。  そう、うすぼんやりとした意識で、私は黒板に証明問題の解答を書く生徒の背中を眺めていた。  字、きれいだな、と思った。彼の書く字は気持ちのいい達筆で、一文字一文字が整っている。それに黒板はノートと違って罫線がないのに、横書きの文字はまっすぐでぶれない。右肩上がりに移動してしまう私の板書とは大違いだ、と思いながら、一番後ろの席から、彼の文字をぼうっと追いかけていた。  彼は字だけでなく、姿勢も良いことに気づく。黒板の上のほうから下のほうに移動しながら文字を連ねても、背筋はつねにピンと伸びている。姿勢がいいから字がきれいなのか、字がきれいだから姿勢もいいのか、どっちなんだろう、などと考えていると、 「松永まつなが、ありがとう。正解だ」  ムチュールが言い、彼はゆっくり自分の席へ戻っていった。まつながくん、だっけか。と、私はクラスメイトの名前を心の中で呟きながら、横目で彼の顔をじっと盗み見た。  高校生活がはじまって2ヶ月ほどが経っていたけど、私がクラスで交流のある人物といえばごくわずか。幼馴染で親友のミッコとはクラスが別れてしまったし、会話をするのは同じ陸上部の子たちくらい。私は基本的におとなしく、男女の垣根を越え積極的に交流を深めようとするタイプでもなく、だから、松永くんとも話したことはなかったし、そんな風にまじまじと顔を観察するのも初めてだった。  男子の中では、連れの男子をいっちょ前にいじっては仲間うちでケラケラ笑い、自分たちの存在をアピールするようなものたちが自然とクラスの中心に位置づけられていた。松永くんは、そういった男子たちにささやかな微笑みを向けていることもあれば、あるいはひとりでぼんやり外を眺めていることも多く、彼は教室のどこにいても誰といてもさらりと馴染むが、だからか、「なんとなく存在感がぼんやりした人」というイメージを持っていた。  目が、意外と印象的だと思った。よくよく見てみると、なんだか不思議な目。大きいというわけではなく、どちらかというと細く切れ長なのだけど、目ヂカラとは違う、眼球の奥に静かな光を隠しているような目。穏やかでいて、強力な瞳。  黒目の面積が広いからそう見えるのかもしれない、と漠然と思っていると、松永くんが静かに着席した。  クラスの中で、彼に視線を送っているのは私だけだった。座り姿勢もいいんだな、と思い、私はまた黒板に視線を戻した。この時点ではまだ、私の鼓動はおとなしいままだった。  心臓が、弾かれたみたいに高く跳ね上がったのは、夏休みが明けたばかりの放課後のこと。  部室で練習着に着替えた瞬間、「あぁ!」と声が出た。他の部員が英単語の小テストの話をしているのが耳に入り、思い出したのだ。  その日は夏休み中に出されていた英語の課題の提出期限日だった。本来ならば、一限の授業で提出するはずだったのだけど、私の勘違いで間に合わなかった。というのも、私は昔からそういった課題はちゃっちゃと先に済ませるタイプで、英語もとっくに終わらせたつもりだったのだけど、いざ提出しようとした際、なぜか最後の長文読解だけが取り残されていることに気づき、休み時間と昼休みを使ってようやく最後まで済ませたのだった。  放課後、部活前に提出しに行くつもりがすっかり忘れていた。英語の岡先生は締め切りに厳しく、過ぎればペナルティで追加の課題を課されてしまう。私は慌てて提出用ノートを手に、校舎へ駆けた。  職員室に先生の姿は見当たらなかった。他の先生に聞いたところ、おそらく部活に出ているだろうということだった。  教室棟ではない棟の、三階。芸術科目は選択制で、私は美術を選択しているから、書道室を訪れるのはこの時が初めてだった。  表札が見え、一歩近づくごとに墨のにおいが濃くなる。  廊下側の窓が開放されていて、書道室前方、黒板前に立つ岡先生の姿はすぐに見えた。けれど、私のひっそりした足音に気づいたのは先生じゃなく、窓際の席で書いていた松永くんだった。 「あ、えっと、先生に用があって」  彼の瞳の真ん中に映る私は、そう小さく口を開いた。私を見上げる彼の目の色は、やはり深い。うん、と松永くんは頷き先生を呼んでくれた。書道室には松永くん含め10人くらいの生徒がいて、彼のように寡黙に筆を下ろしている人もいれば、女子同士のおしゃべりに盛り上がっている人たちも見えた。 「遅くなってすみません」  廊下に出てきてくれた先生にノートを渡す。「ギリギリセーフだな」「ギリギリ追加課題をまぬがれました」そう頭を下げると先生は笑って、部活頑張れよ、と書道室に戻っていった。  廊下を引き返す途中、松永くんの姿をちらりと見た。松永くんの背筋は、まるで見えない光の糸で引っ張られているみたいに、ピシッと伸びている。墨汁みたいにツヤのある黒目はまっすぐ書に向けられていて、その横顔から、集中力の高さがびりびりと伝わってきた。真っ黒なTシャツから伸びる、男子にしては白くて細い腕。松永くんは筆を垂直に立て、すぅ、と紙の上で静かに滑らせる。  字が、生きてるみたいだと思った。  それは大胆、というよりも、なめらかで美しい筆致ひっち。けれどおとなしいというわけじゃなく、一見穏やかな筆跡に見えるけど、実は端々に力強いエネルギーが凝縮されているような、生々しい字。  ふいに、彼の開けてはならぬ秘密の扉をこっそり覗いてしまったような興奮が迫ってきて、体がぶるりと震えた。  ちらりと盗み見たつもりが、いつの間にかガッツリ見惚れていて、また目が合った。 「あ、うまいなぁと思って……」 「ありがとう。でもそんなに見られると」 「書きづらいよね、ごめん!」 「いや、緊張するなと思って」  松永くんは頬骨をわずかに高くし、歯を見せず微笑んだ。私は前髪を撫でつけ、邪魔しちゃいけないと思いながらも、次の言葉を探していた。 「えっと……、頑張ってね!」  しかしうまい言葉が浮かばず、私はそう言い、次の彼の言葉できっと会話が終わってしまうのを寂しく思っていると、 「うん。青葉あおばさんも陸上頑張って」  彼が目を細めた。青葉さん、という音が耳の中で転がって、私の胸にくすぐったいものを響かせた。心臓の熱がそのまま顔に駆け上がってくるのを感じ、私は彼にくるりと背を向け、じゃあ、とその場を去った。  廊下を走り去った。ぐんぐんと走った。どこかから注意する声が聞こえた気がしたけど、構わず走った。 「青葉さんも陸上頑張って」という彼の言葉を思い出すたびに、心にしゅわしゅわした甘酸っぱいものが満ちていき、心臓を跳ねまくらせた。  陸部って知っててくれたんだ。  校舎を飛び出しグラウンドに着いた頃には、湧き上がる想いは体中にあふれ出し、指先まで火照らせていた。  あのまっすぐな眼差し。吸い込まれそうな瞳の黒。  彼の口からこぼれた私の名前。 「疾風迅雷しっぷうじんらい」と堂々と書かれた練習着を見れば陸部だと丸分かりだし、松永くんは気を利かせて言ってくれたのかもしれない。それでも、彼の一言は私の体をかっ飛ばさせたのだった。  その放課後の出来事以来、私は暇さえあれば松永くんを目で追いかけるようになった。  本当は、もっと前からはじまりの芽は出ていたのだと思う。多分、証明問題を板書する彼の横顔を見たときから。そういうのって、恋に落ちたことを自覚して気づくものだから不思議だ。  彼の淡い存在感。  瞳の奥の純黒。  あの黒目の深さを覗きこみたい。覗きこまれたい。もっと、そばで。  そんな想いを胸の中で転がしながら、私はただじっと、彼を見つめていた。

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