サマースプリンター・ブルー
どろりとぬるいシェイク

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 朝から空を覆っていた雲は、午後からやはり雨を降らせた。雨の日の部活は筋トレメニューのみとなり、いつもより早い時間に終わることになる。  デオドラントシートで汗を拭き、ぱっと制服に着替えると、私は一番に部室を飛び出た。  今日は火曜日だ。  筋トレ中、まるで極上の名案でも思いついたみたいに、はっとひらめいた。  何時まで開館しているのかもわからないし、書道部の活動はどうなっているんだろうと思いながらも、私は傘をさし、深く考えるより先に足を動かしていた。  カウンターの中に、松永くんはいた。私を見た松永くんは瞳をぱちくりさせていた。彼がほんの数ミリほど、驚いている。その変化は私ほど彼を観察しているものでないとわからないほど、ささいな表情筋の動きではあったけれど、「驚いた時こういう顔をするんだ」と、私はきゅんと胸をつつかれてしまった。 「雨で、部活早く終わって……」  へらへらしながら私はそこまで言い、舌先が固まった。その先に続くのは「松永くんに会いたくて来た」という想いなのだけど、こんな人前で、うかつに口にする言葉ではない。 「雨、もう少ししたらやむかなと思って」  なんとかそれらしい言葉を口の外に押し出すと、松永くんはじっと私を見た。その瞳に見つめられると、下心が透過されてしまいそうだ。私は目を泳がす。 「ここ、18時には閉めなきゃいけないんだ」 「……あ、そうなんだ!」  壁に掛かる時計を見ると、18時になる10分前だった。 「もうそろそろだし、よかったら一緒に帰らない? 青葉さん」  私の水色の傘と松永くんの黒い傘が並ぶ風景など、予想していなかった。傘が雨粒をはじく音が、ふたりの間の静けさを埋めている。しかし私の耳元で鳴り響くのは、ばっくんばっくん心臓を叩く鼓動の音。 「……松永くん、授業中によく耳を触るよね」  ふと思い出し、道の先のほうに視線を向けたまま、私はそっと訊いてみた。 「うそ、本当?」 「本当。無意識なの?」 「いや、眠たいときの癖なんだけど、そんなにしょっちゅうやってたのかな」 「わからないけど、たまたまよく見かけたから」  結構やってましたよ、と思ったけれど、つねに見つめていたことがバレてしまうので言わなかった。 「今日は、書道部の活動はないの?」 「うん。活動日は、基本的には週3日。月・水・金。月曜は自主練日みたいなものだから自由参加で、僕はときどきしか出てないから、ほぼ週2かな」 「そっか。なんかさ、テレビとかでやってる、書道パフォーマンス……? ってやつもやるの?」 「うちの書道部はやらないんじゃないかなぁ。去年もなかったから。地味でしょう」 「ううん。書道の字って、なんかこう生きものみたいっていうか、とくに松永くんの字は、なめらかで落ち着きのある感じなんだけど、よく見ると結構力強さが滲んでたり、きれいだけど活き活きしてて、うまく言えないけど……、もっと見てみたいと思わされる」  言葉にしようとするとちっとも足りない。松永くんの書は本当にすてきだ。文化祭で見た書道部の展示の中でも、ひときわ輝いて見えた。この恋心を差し引いて見ても、松永くんはうまいのだと思う。現に何度か賞なども受賞していたし。そう思いながら横目で隣を見ると、松永くんも私を見ていた。どく、と胸が掴まれる。 「ありがとう。青葉さんにそう言われると嬉しいよ」  え、という口の形を戻すのも忘れ、口を開けたまま心臓の温度を上げていると、 「青葉さん、走るフォームがすごくきれいだなって見てたんだ。去年の体育祭で。100メートル走でも1位になってて。でも、すごく悔しそうな顔してた」  彼の言葉に、記憶がぐるんと巻き戻しされる。  五月。入学してすぐに開催された体育祭。 「えっ、そんな顔してた……? たしかに1位になって、でも」  でも、笑っていたはずだ。ゴールしてすぐミッコが駆け寄ってきたから、笑顔でピースをしたと記憶しているのだけど……。 「友だちがいる時は笑ってもいたけど、ひとりになった途端悔しそうだった。多分、2位の子と僅差だったからなのかなぁと思って」  嘘のない人なんだろうなと思った、と彼が話す。かぁっと頭のてっぺんあたりが熱くなった。  思い出した。その通りだった。仮にも陸上をやっているのに、運動部の子に追いつかれそうになったのが悔しくてたまらなかったのだった。 「地団駄ふみだしそうなくらい」 「そ、そんなに? はは、とんだところを見られてしまって……」 「いや、すごくいいと思った。僕は気持ちがあまり表情に出ないというか、出すのが苦手だから」 「そうなの?」 「うん。そんなつもりはないんだけど、弟と写真撮るといつも同じ顔って言われる。薄ら笑いだって」 「そんな手厳しい弟がいるんだ」 「うん」  次々飛んでくる新しい情報の矢を、全て嬉々ききとしてキャッチしながら、私はムフフとしていた。  それならあのいつもの微笑は、牽制、の意味ではないのかもしれない。  なんて心の中で舞っていると、並んで帰るのも束の間、 「僕、こっちだから」  もう分かれ道にさしかかっていた。彼は徒歩通学だから、駅のほうへは向かわない。  ばいばい、と手を振ると、私はハードルを飛ぶみたいに水たまりをジャンプして、駅まで走った。傘の骨が一本ひっくり返るくらい、勢いよく。  それからというもの。小説の五章を読み終える頃には、学校内や、帰り道に姿を見かければ互いに声をかけ合うようにまでなっていた。休み時間、売店でばったり会った時には、紙パックのジュースを飲みながら他愛のないおしゃべりに興じ、その中で彼が書道を続ける理由も知った。「自己表現のひとつとして書く人も多いけど、僕はそんなにはっきりした理由はなくて。ただ、書きたいから書いてるってだけなんだ。紙の前に立つと自然と書きたくなる。でもそれが楽しい」そんな風に松永くんは話してくれた。素朴な衝動にもとづき続けているところも、どこか自分と通ずるところがある気がして密かに心がゆるんだ。多分頬もゆるんだ。私はわかりやすいので。    *  夏の完全下校時刻は19時。部活を終え、駐輪場を通り過ぎ校門へ向かう途中、松永くんの姿を見つけた。ひとりであることを確認し、その背中にそうっと声をかける。 「次々とメンバーが死んでいく……」 「うん」 「いちおう自分も推理しながら読むけど、全然犯人わからない。松永くん、途中でわかってた?」 「ううん」  松永くんが相変わらず淡い笑みを浮かべる。小説の話をすると、彼は「うん」か「ううん」しか言わない。うっかりネタバレをしてしまいそうだから、首を振ることだけに徹しているそう。  してくれてもいいのに、と思う。私が本当に気になるのは犯人やトリックなどより、好きな小説について楽しげに語る姿や、喋りすぎてネタバレしてしまい、焦ったりへこんだりする松永くんの姿なのに。  なあんて、新鮮な夏ミカンみたいな甘酸っぱい気持ちをあふれさせていると、 「今日は、こっちに用があるんだ」  いつもの分かれ道にさしかかった時、彼はそう言い駅へと続く道を指した。私は夏ミカンの甘酸っぱさをごくごく飲み干し、「そうなんだ」と笑顔を弾けさせた。 「『なごみ』に寄りたくて」 「あぁ、駅のそばの」 『なごみ』は駅の近くにある、地場野菜や自然食品を扱っている小さな店だ。うん、と松永くんが頷く。  海から運ばれてくる潮風が私たちの髪を揺らす。並んで歩きながら、私はそっと前髪を撫でつけ、風から守る。 「買いものを頼まれたの?」  訊くと、松永くんがなにかを考えるように、ほんの一瞬だけ空に視線を泳がすのを私は見逃さなかった。何事にも動じない彼がめずらしい、と思っていると、 「うちは母親がいないから、家のことはずっと父親と僕で分担してやってるんだ。ここ数週間は父さんの夜勤が続いてて、僕がご飯の支度を受け持ってる」  松永くんはさらりとした口調で言った。彼がいつもの如くにこりと微笑む。すっとわずかに細められた目の色はやはり深く、よく磨かれた黒曜石みたいにきれいだ。 「すごい、私は調理実習で野菜切るのもひと苦労だったのに」 「僕もまだそんなにできないよ。食事はほとんど父さんが用意してくれてたんだけど、転職してからは夜いないことも多くて。調べたり、いろいろしながらやってる。弟の好き嫌いが多くて大変だけど、あそこの店のトマトはよく食べるから」  彼の、瞳の奥の強さの理由に触れた気がした。彼にはもう大切なもの、守るべきものがはっきりとあるのだと思った。家族のことを語る瞳は、凪いだ海のように穏やかで、慈愛に満ちていた。潜在的な想いの強さが目の奥で密になり、静かに光をたたえている。  その目の強さに、美しさに、もう誰も気づかないでほしい。  私だけでいい。瞳の奥の尊い事実に触れるのも、私だけがいい。  彼は『なごみ』へ向かい、駅に着く少し手前の道で別れた。背を向ける松永くんの制服の白シャツはパリッと清潔だ。あのピンと伸びたきれいな姿勢でアイロンがけしている彼の姿が浮かんで、「好きだーーーーーっ!」と叫び出したい衝動に駆られた。  私は改札ではなく、海へとつながる道を走った。夕方のなまぬるい風をびゅんびゅん切って走る。肩甲骨から羽が生えたみたいに体は軽く、足が自然と前に飛び出す。タイムが伸びている時の感覚に似ている。今、長年伸び悩んでいた短距離走のタイムが縮まり出しているのだから、その感覚が鋭くわかる。  もうきっと、この恋は止まれない。  浜辺まで走ると、私は大の字に寝っ転んで夕空に向かって大声で叫んだ。 【午前練終わったら、シェイク飲みにいかない?】というメッセージがミッコから届いたのは、日曜の午前中だった。  というわけで私たちは現在、真夏のマックで、またおしゃべりにふけっているところ。 「シェイク、一年中ヨーグルト味でいいのに」  ミッコがストローをくるくる回し、まだ固めのシェイクを溶かしている。私もこの味が好きだ。爽やかな甘みがお気に入り。とくに、この夏にぴったりな味。  オスカル先輩との進捗報告かなと思いながらハンバーガーをかじっていたのだけど、丸々一個食べ終えた頃、「最近、松永くんとどう?」ミッコが訊いてきた。 「なんか、ずいぶん親しくなれた気がする」 「恋愛の話題とか、出たりするの?」 「恋愛……、っていうよりも、借りてる本の話とか、その日の授業の話とか、そんな感じかなぁ」 「好きな人がいるかどうかとかさ」  それを尋ねるというのは即ち、「私はあなたに好意を抱いてますよ、だからその辺気になります」そう暗に言ってるのと同義ではないか! と、いう思いでミッコを見るも、なにやら「しらー」とした顔をしている。  しかし、ミッコの言わんとすることもわかる。時は夏休み直前。じっくり時間をかけて距離を縮めてきたけれど、もうそういう発展した段階に踏み込むべきなのだろうか。  などと考えていると、「あぁ、もう回りくどいのやめ!」ミッコがきぃー! と歯を剥き出し小暴れし出したので、「わかったわかった」と慌ててなだめていると、 「ちがう、私が伝えなきゃいけないことがあって。あのね」 「う、うん」 「松永くん、彼女がいるらしい。他校に」  頭上に、うそーん、という漫画でしか見たことない言葉が、ずしりと降ってきた。  待って。どういうことだ。いくつもの感情があぶくのように浮かんでは弾け、消えていく。ミッコの言葉の意味は理解しているのだけど、それについて悲しいのか悔しいのか信じられないのか苦しいのかが、わからない。唐突すぎるあまり気持ちが追いついていないのか、私が無意識に心をガードし感情を鈍らせているのか、わからない。 「昨日、部室で恋バナになって。誰が誰を好き、みたいな。松永くんの名前全然出てこないから、私、あげてみたんだよね。そしたら、 『松永くんも結構人気あるよね。告白した子何人か知ってる。ちょっと何考えてるかわからなくて不思議な感じもするけど。でも彼、多分他校生と付き合ってるよ。私、よくデートしてるとこ見かけるもん。この間も見たけど、年上っぽい感じだったな』  って。この辺に住んでる子だし、嘘つくような感じの子でもないから……」  ううん、と語尾のぼやけた頼りない声が出る。松永くんは人気があったのか、と自分だけが彼の素敵さを知っている気になっていたことを恥じた。松永、というのはありふれた苗字だが、うちの学年には彼ひとり。彼の話で間違いないだろう。くわえて、  松永くんに彼女。年上。  一度に次々と情報が注がれたのだけど、彼女、年上、という言葉はどこか現実的な響きを伴わず、耳から心になかなか沈んでこない。私が受け入れたくないだけなのか。 「でも、その子も本人から直接訊いたわけじゃないから、噂みたいなものではあるけど……」 「そうだね……。ミッコ、ありがとう」 「ありがとうって、顔が死んだ魚みたいになってる……! 私的には、本人に確かめるのが一番だと思うけど」 「うん。私もそう思うよ。訊いて、みる……!」  私の頼りなさはいつも語尾に出る。ミッコもそれに気づいており、「とりあえず飲もう!」とお酒でも飲むみたいにシェイクを口にした。  私はライブハウスで声をかけられてからの日々を思い返していた。  彼の瞳。静かに宿る光の強さ。その理由。  彼の淡さ。微笑み。そして近ごろ時折見せてくれる微細な表情の変化。  少し冷静になると、心許なさは確かにあるけど、意外にもそれほど悲しんでいない自分に気づく。  楽観的、と言われればそれまでだけど、やはり松永くんから彼女がいるような気配は感じられず、私には、きっと噂にすぎないだろうという根拠のない自信があった。  そうだそうだ、と言い聞かせるように、勢いよくシェイクを吸い上げる。どろりとぬるくなった液体が口の中で粘つき、なんだか、ちょっと嫌な感じが舌に残るのだった。

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