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「久しぶり。ごめん、急に」 「いや、いいよ。何? この前言ってた彼女の惚気話?」  俺は誰かに話を聞いてもらいたくなって、大学時代からの親友である金田かねだを飲みに誘った。金田はゼミの仲間だった。卒論提出間際はオンライン通話でお互いに励まし合いながら明け方まで書いていたことはいい思い出だ。少なくとも俺は、金田のことを戦友のようなものだと思っている。 「ああ、まあ。とりあえず乾杯しようぜ」  ジョッキを持ち上げて、ガチっと音を立てて乾杯をする。この店のオススメという氷漬けの檸檬が大量に入ったサワーは、まだ溶けていないからかほとんど焼酎の味しかしなかった。カラカラと音を立てて撹拌する。 「なんか、悩み? 惚気話って顔じゃない」  お通しをつまみながら近況報告を終えたタイミングで、金田に指摘される。人の表情をよく見ている彼は、悩みを引き出すのがうまい。いつも先回りして話を切り出してくれる。 「さすが、鋭い」  苦笑いしながら答えると、軽く鼻で笑われる。 「いや、お前がわかりやすいだけ。それで?」 「うん……金田はさ、昔好きだった人に再会したらどうなる?」 「どうって……何その質問。石崎はどうなるの?」  ジョッキに手を伸ばして一口飲む。さっきよりは檸檬の味がした。蜂蜜みたいな甘さが抜けると、ほろ苦さが残った。 「……この話、たぶん長くなるけど平気?」 「はは、そんなこと気にするなよ。とことん付き合うよ」  明日はお互い予定もないから、エンドレスで飲んでいられる。さすがに、学生の頃とは違うから、徹夜するつもりはないけれど。もう一度ジョッキをぶつけ合ってから、俺はサヨコのことを話し始めた。  昔、好きだったこと。  想いを伝える前にいなくなってしまったこと。  特定の相手を作らずに奔放な生活を送ってきたこと。  それでも紫という恋人ができたこと。  そして、サヨコと再会したこと。 「ずっと会いたかったはずなんだよ。だけど、再会した今は苦しいだけだ」 「苦しい? どうして?」 「それがわからないから困ってる。俺、おかしいのかな。紫のこと大切にしたいと思っているのに、サヨコのことばかり考えてるんだ。紫と一緒にいるときですら」 「彼女のことも大事だけど、そのサヨコちゃんって子のこともやっぱり好きってこと?」  レモンサワーを一気にあおる。頭がくらくらした。 「俺が、サヨコのことを、好き?」 「え? そういう話じゃないの?」 「いや、だって、俺には紫がいるし。サヨコのことは、なんていうか放っておけなくて。とにかくさ、幸せになってほしいと思ってる」  金田はそっと水の入ったグラスを渡してくれる。喉を鳴らすように飲み下したけど、随分とぬるくなってしまっていて、頭がすっきりすることはなかった。 「ふうん。石崎が自分で幸せにしてやろうとは思わないんだ? サヨコちゃんのこと」 「いや、サヨコはもうすぐ結婚するみたいだし。俺がサヨコにしてあげられることなんてないよ。それに……」 「それに?」 「サヨコはきっと、今の俺のことなんか好きにならない」  金田は枝豆を口に放り込みながら、話の続きを促した。 「俺たち、あのとき両想いだったんだ。サヨコは、あの頃の俺のことを好きだって言ってくれた。もう一度会いたいって言ってくれた。でも、大人になった今の俺は……ひどいもんだろ? 今更正体明かしたって、幻滅されて終わりだよ」 「でも、今の石崎のことも嫌ってなんかないだろ。デートに誘ってくれるくらいなら」 「それはたぶん、都合が良かっただけなんだよ」  金田はすっかり黙ってしまって、ジョッキを回すようにしてレモンサワーをかき混ぜた。氷漬けだった檸檬はとっくに溶けてしまって、半透明の液体に果肉がふわふわと浮かんでいる。店内のBGMとどこかのテーブルから漏れ出る浮かれた笑い声に耳を傾ける。この店で神妙な顔をしているのはきっと俺たちだけなんだろうな。  ごとり、とジョッキを置く音に顔を上げると、金田が渋い顔で俺を見ていた。 「厳しいことを言うとさ、石崎。お前はただの二股男だよ。自分ではサヨコちゃんのことそういう風に見てないつもりかもしれないけどさ。結局のところサヨコちゃんに未練ありまくりなんだろ。彼女に隠れてふたりで食事に行ってるんだろ? それってさ、立派な浮気だと思うよ」 「そんなこと……」  浮気じゃない、なんて断言できそうにはなかった。それどころか、金田に指摘されたことでこんなにもサヨコのことばかり考えてしまうのは、今でも彼女のことが好きだからなのかもしれないと妙に納得してしまう自分もいた。 「ふたりとも選ぶなんてできない。むしろ、どちらからも選ばれない可能性があるということを頭に入れておくべきだ。いずれにしろ、石崎は自分の気持ちとちゃんと向き合ったほうがいいよ」 「自分の……気持ち?」 「そう。自分にとって、本当に失いたくないのはどっちか。真剣に考えてみな」 ☽  散々遊んできたくせに馬鹿みたいな話だけど、『浮気』という言葉はなかなかダメージが大きかった。紫のことを大事にしたいという気持ちに嘘はない。このままでは、彼女をきっと傷つけてしまうだろう。  それでも、目を閉じるとあの夜のサヨコの泣き顔が思い浮かぶ。俺が煌太だと打ち明けたら、サヨコは受け入れてくれるだろうか。どちらかに決めるのは、それからでも遅くないんじゃないか?  ふっと湧きあがったその考えを振り払う。さすがにそれは、自分でも最低だとわかる。  もう、サヨコに会うのはよそう。別に、俺なんかいなくたってサヨコの人生には何も影響しない。むしろ、俺なんかいないほうが、サヨコはきっと幸せになれる。 「こんなもの持ってるからいつまでも過去に捕らわれるんだ」  この十数年大事にしていた携帯電話を乱暴に放り投げる。嫌な音がして慌てて拾い上げると、画面にヒビが入っていた。結局、壊れても捨てられなくて、引き出しの奥にしまい込んだ。 〇 ☽ 〇  月曜日、出社すると紫が席にいなかった。今日は終日オフィスにいるはずなのに。そわそわしながらメールチェックをしていると、部長と一緒に会議室から出てきた。なんだか思いつめたような表情をしているのが気になった。  その後も紫はぼんやりとしていることが多くて、視線を送ってみてもなかなか目が合わない。何かあったのだろうか。俺のせいだろうか、なんて自意識過剰な思考に陥るのは、これまでの自分の行動がいかに軽薄なものであったかをようやく認識したからなのかもしれない。  金曜日は金田と飲みに行って、いつもはふたりで過ごす週末も、ひとりで家に閉じこもっていた。中途半端な気持ちで紫に接するべきじゃないと思ったから。じっくり考えてみて、これからどうすべきか結論は出たつもりだ。 「あ、待って、佐原先輩。お昼一緒にどうですか?」  昼休みを告げるチャイム音が流れてすぐ、立ち上がって紫に声をかけた。紫は振り返ると気まずそうな顔で笑う。 「ごめん、今日は先約があって」  そう言い残して、鞄を掴んでオフィスを出て行ってしまった。残された俺にフラれたな、なんて声を掛けてくる同僚がいた。それはただの冗談に違いないんだけど――俺たちが付き合っていることすらこいつらは知らないんだ――、今の俺には結構キツい。俺なんか選ばれなくてもしょうがない、なんて思っていたけど、実際にフラれるのを想像したら胸が苦しくなった。  チャンスなんていくらでもあると思っていたのに、話したいときに限って俺たちは噛み合わない。ろくに顔を合わせることもできないまま、あっという間に週末がやってきてしまった。  その間、サヨコのいる会社に訪問することもあったけど、俺はサヨコと目を合わせないようにした。大人げないって言われるかもしれない。だけど、ダメなんだ。サヨコに見つめられて、誘いを断れる自信がなかったから。情けないことに。  定時のチャイムが鳴って、紫の様子を窺う。ここのところ忙しそうで、残業ばかりしているみたいだ。力になってあげたいのに、『大丈夫』だって言うから引き下がるしかなかった。紫が帰るまで粘ろうと思ったけど、やることもなくなってしまって、仕方なくオフィスを後にした。 【紫、今日も遅くなる? 話したいことがあるから、部屋で待ってていい?】  メッセージを送って、返事も待たずに紫の家に向かう電車に乗り込んだ。いつもはすぐ着いていた気がするのに、途方もなく長い時間に感じてしまう。暇つぶしに始めたパズルゲームは、集中力がないからか全然解くことができなかった。結局、目的の駅に着いても、紫からの返信はないままだった。  今日、ちゃんと話ができるかわからないけど、もしかしたらこの街に来るのは最後になるかもしれない。紫とちゃんと恋人同士になって、ひと月半くらい。もっと長い間一緒にいたような気がしたけれど、それは恋人じゃない期間が長かったせいだろう。  合鍵は持っていたけど、返事もないのに部屋に上がり込むのは気が引けて、周辺を歩いてみることにした。スーパーと紫のマンションくらいしか行かないから、ほとんど知らない街だ。知らないままのほうが、いいのかもしれないけれど。  目的もなく歩き回る。もっと、ふたりでいろんなことをしておけばよかった。例えばそこの屋台のラーメン屋や、立ち食いの焼き鳥屋とか、行ってみたら楽しかったかな。  感傷に浸ってしまうのは、忍び寄る秋の気配のせいだろうか。暑くて眩しい夏が終わると、街並は次第に色褪せていく。例年はしぶとく夏の顔をしていた九月は、今年は諦めが早かった。急に涼しくなったから、長袖のワイシャツは袖を捲り上げなくてもよくなったし、それどころか肌寒いと感じるくらい。  二の腕をさすりながら再び駅前に着いた頃、ようやくポケットの中のスマホが震えた。立ち止まって確認する。 【ごめん、今メッセージ見た。もうすぐ着くけど、どうしてる?】  駅前で待ってる、と入力して、送信ボタンを押すのを躊躇った。紫の都合も考えないで押しかけて、俺って本当に気の利かない男だ。疲れて帰ってくる紫に、夕飯でも用意して待っておくべきだったろうか。まあでも、俺の下手な料理食べるくらいなら、コンビニ弁当のほうがマシかも、と考え直して送信した。  ロータリーの柵にもたれるようにして待っていたら、紫が改札の向こうからやってくるのが見えた。俺のことを見つけると、頬を緩ませて手を振ってくる。俺はたったそれだけで心の底から安心した。 「遅くなってごめんね」 「ううん、大丈夫。こっちこそ疲れてるのにごめん。おつかれさま」 「どうしよっか。お腹空いちゃったし、軽く食べてから帰るのでもいい?」  紫は俺の腕を掴んで、行ってみたいところがあるの、と楽しそうに笑った。さっき見たばかりの焼き鳥屋の前を通過する。 「ここもね、気になってるんだけど、今日はお酒飲まないほうがいいよね?」 「あ……うん、そうだね」  そうして立ち止まったのは、屋台のラーメン屋の前だった。 「行きたかったのってここ?」 「うん。いつもいい匂いしてて気になってたんだけど、ひとりで行く勇気なくて。いい?」 「いいよ。俺もさっき見て行ってみたいなって思ってたから」  緊張しながら暖簾をくぐり、こんばんは、と声をかける。ぐつぐつと煮えるスープの湯気の向こうで、オヤジさんがいらっしゃい、と少し黄ばんだ歯を見せて笑った。迷いながら一番オーソドックスそうな醤油ラーメンを注文した。  待っている間に、紫は肩までの髪をくくった。これまで髪を結んだ姿は見たことがなかった気がする。ふわふわの髪がぎゅっと束ねられて、小型犬の尻尾みたいだ。 「髪結ぶんだ? ラーメンだから?」 「そう、ラーメンだから。麺類は気合い入れなくちゃね」  それからまもなくして、目の前にどんぶりが並べられた。俺たちの会話を聞いていたのか、気合い入れて食えよ、とひと言添えて。  いただきます、と手を合わせて、スープを口に運ぶ。あっさりとした醤油味だ。寒さを感じていた体にすうっと染み渡るようだった。  横目で紫を見ると、気合い充分にずずっと麺を啜り上げたところだった。負けじと麺を吸い込む。少し柔らかめの麺。煮卵は黄身がしっかりした固茹で、メンマと海苔も乗っていて、子どものころ家族で食べに行った近所のラーメン屋の味を思い出す。特別美味しいわけじゃないけど、なんだかほっとする、懐かしい味だ。  スープも残さず、は無理だったけれど、俺も紫も綺麗にラーメンを平らげて、ごちそうさまをした。お腹の内側から温かいと、幸せな気持ちになる。  もう少しだけ、幸せでいさせて。そう願うように紫の手を握って、秋の甘い匂いがしはじめた夜道を歩いた。

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