サヨコ
10

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 結論から言えば、俺は紫にフラれなかった。サヨコに再会したことを報告し、ケジメをつけるために過去の想いの告白をすることを許してほしい、と言った俺に、紫はやっぱり『しょうがないなあ』と言って笑った。  怒らないのか、不安にならないのか、と訊いたけれど、紫は『そう思ったところで、私にはどうしようもないことだから』と言うだけだった。その横顔が寂しそうに見えて、俺の選択は間違っているのではないかと思った。でも、きちんとケジメさえつければ、紫にちゃんと向き合えるはずだから。  すぐにでも決着を付けたかったのに、俺はサヨコの連絡先を知らなかった。顧客の担当者に電話して、メールでいいと言われていた用件をどうしても対面で、とお願いしてアポイントを取り付けた。  いつものようにエントランスをくぐり抜けて、受付に向かう。俯いて作業をしているのか、サヨコは俺が来たことに気づかない。 「すみません」  声をかけて驚く。顔を上げたのはサヨコではなかった。知らない人だ。 「ご来館予定の方でしょうか? お名前と会社名いただけますか?」 「えーと、あの、そうなんですが……遠野さんって今日いらっしゃらないんでしょうか?」 「……どういったご用件でしょうか?」  慌てふためいて、サヨコの名前を出した俺に訝しげな視線を送ってくる。怪しまれるのも無理はないだろう。 「いつも彼女の笑顔に癒されていたもので……今日はいなくて残念だなって」 「あー。美人ですもんね。でも、遠野さんって誰とも付き合わないってよく聞きますよ。夜のデートだけは行くみたいですけど。気を持たせておいて、嫌な感じですよねえ。しかも、夜だけっていうのがなんかいやらしい」  同僚の女は自分が仮にも受付の女であることを忘れてしまったのかのように、意地悪そうに目を細める。日光アレルギーのことを知らないのか、それともサヨコが公表していないのか。どちらにしても、あまり良くない噂が広まっているのだということはよくわかった。彼女の悩みも苦しみも知らないくせに、と腹の底に苛立ちが募っていくのを感じた。 「遠野さん、急に会社辞めちゃったんですよ。母親の具合が悪くなったとかって噂で聞きましたけど。困っちゃいますよね」  彼女は綺麗に手入れされた指先で、髪をいじりながら、たいして困ってもいなさそうなトーンで喋り続けた。怒りで沸騰しそうだった頭は、サヨコが会社を辞めてしまったという事実で急速に冷やされた。 「辞めちゃったって……いつですか?」 「先週くらいだったと思いますよ」 「そんな……遠野さんと連絡取ることってできないですか?」 「無理ですよ。あたし、遠野さんの連絡先なんて知らないですし。ま、知ってても教えないですよ。人の連絡先を勝手になんて」  連絡先は教えなくても、噂話はぺらぺらと喋っちゃうくせに。そんなことはさすがに言わないけれど。彼女がそうなら、他の人に聞いてもサヨコの情報は手に入らないだろう。それ以上サヨコのことを聞くのはやめにした。  もともとメールで済むような用件だったから、打ち合わせはすぐに終わってしまった。夏の間はまだ明るかったこの時間も、秋の入り口に立ったからか薄墨色の空に気のはやい星が瞬き始めている。  思いがけずひとりの時間ができてしまって、ふらふらと街を彷徨った。数歩進むごとに空の色が黒く煮詰まっていくみたいだ。秋なんか、嫌いだ。サヨコが消えたあの年も、秋が来るのが早かった。いつもの風景が色を失っていくたびに、夏が遠ざかっていくのを実感して落ち込んだ。サヨコにはもう二度と会えないって突きつけられるみたいだったから。  最後にふたりで飲みに行ったときのサヨコの泣き顔を思い出して、胸が痛んだ。どうしてサヨコは俺にひと言も告げずに会社を辞めてしまったのだろう。でも、もしかしたら言おうとしていたのかもしれない。先にサヨコとの間に壁を作ったのは、間違いなく俺だ。自分の身勝手な理由で、彼女を突き放してしまったことを今更ながら後悔した。  母親のために結婚しようと決意したサヨコ。その母親の具合が悪くなったということは、容態にもよるけれど、三か月という結婚までの期限を早めていてもおかしくないのではないだろうか。あれこれ考えたところで、彼女との唯一の接点を失ってしまった俺は、それを知る術がないのだけれど。  会えないと思うと、会いたくて仕方がなくなる。もしも、またサヨコがひとりで泣いていたらと思うと、胸の奥が掴まれたみたいに痛くて苦しくなった。サヨコには婚約者がいる。だから、ひとりで泣いていることはないだろう。だけど、やっぱりサヨコに泣いてほしくなんかない。  ……違う。もしもサヨコが泣いているのなら、俺がその涙を拭ってやりたい。  もっと早くにこの気持ちに気づくべきだった。サヨコが今どこにいるかわからない以上、寄り添ってやることもできないんだから。  ふと目に入った喫茶店に近づくと、見慣れた横顔を見つけた。紫と……部長だ。どうしてふたりが一緒にいるんだろう。そういえば、少し前に部長と会議室から出てきた紫の様子はおかしかった。それなのに、俺は自分のことばかりで、紫の話を聞いてあげることもしなかった。  今、目の前にいるふたりは随分と親密そうだ。ふたりはただの上司と部下の関係なのだろうか。紫のことを信じてあげられない俺は最低だ。だけど、不思議と憤りとかは感じていなくて、むしろ俺なんかより部長のほうがお似合いなんじゃないかって、そんなことまで考えた。 ☽ 「煌太? どうしたの? やだ、いつからここにいたの? こんなに冷たくなって」  紫の声に目をひらく。頬に温かい手のひらが触れて、紫が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。そういえば、紫の家に来たんだっけ。合い鍵を置いてきてしまったみたいで入れなくて、ドアの前で待っていたんだ。 「ほら、風邪ひいちゃうから入って。立てる?」  ふらふらと立ち上がった俺は、押し込まれるようにして紫の部屋に入った。玄関で再び座り込んだ俺を困った顔で見て、紫はぱたぱたと廊下の奥に消える。戻ってくるなり、肩に膝掛けを被せてくれた。 「大丈夫? ご飯は食べたの?」  首を横に振る。紫は困ったな、と呟いて考え込む。 「冷凍してたご飯があるかも。それでお茶漬けくらいなら用意できるけど、食べる?」  今度は首を縦に振る。そんな俺を見て、紫は眉尻を下げて笑った。 「煌太君、どうしちゃったのかなあ? とってもかわいいけど、声が聞きたいな」 「……どうして」 「ん?」 「どうして俺なんかに優しくしてくれるの?」  ふわりと包み込まれるように抱きしめられる。好きだからに決まってるじゃない、と言った紫からは、いつもの俺の好きな香りがしなかった。肩を押し返して、距離を取る。 「紫、ごめん。俺……ずっと紫に甘えてた」 「別に、私は構わないけど。そういうところも含めて好きだから」  紫の優しさに、大切に思われることの心地よさに、溺れてしまいそうになる。だけど、俺がここに来た目的をきちんと果たさないといけない。そう思いながらも、食卓に招かれて腰を下ろしてしまう。空腹と寒さで倒れそうだったから。  促されるまま、紫が用意してくれたお茶漬けを夢中で搔き込んだ。紫は俺の向かいに座って、頬杖をついて俺の様子を見守っている。 「紫は食べてきたの?」 「うん。部長と軽くね」  てっきり誤魔化されるかと思っていたのに、紫はあっさりと部長と一緒にいたことを白状した。やましいことなんかないということか。紫と部長がそういう仲なのであれば、身を引く形で別れを告げられると考えていた自分が、浅ましくて嫌になる。 「煌太には言ってもいいかな……私ね、ニューヨークに行こうかと思っているの」 「え? 旅行?」 「そうじゃなくてね。海外転勤の話を持ち掛けられてて」  どんな言葉を返すべきか悩んだ。紫は俺を信頼してこの話をしてくれたはずで。恋人という立場であれば、『応援している』と送り出すか、『行かないでほしい』と引きとめるかなのだろう。 「もう決まったの? いつから?」 「まだ悩んでるけどね。行くことになったら年明けから二年は向こうかな」 「紫は行きたいの?」 「行きたいと思ってる。海外で仕事するのは夢だったから。でも……」  紫は右耳に髪をかけながらそう答えた。その仕草は強がっているとき、無理しているときの癖だ。きっと紫はまだ決めかねているんだ。 「煌太のことが心配」  そう言いながら紫は俺の手をそっと握った。握り返したくなる気持ちをこらえる。 「俺のことは大丈夫だよ。行きたいなら行ったほうがいい。応援するよ」 「私がいなくても大丈夫?」  俺ってそんなにひとりじゃ生きていけなそうな男なのかな。それとも、紫とそういう関係になる前のだらしない男に戻ってしまうことを心配されているのだろうか。 「大丈夫だよ。っていうか、俺のことは忘れていいから」  その言葉を受け止めて、意味を理解した紫は表情を歪ませた。湿った声で「どうして」と言う彼女につられて泣いてしまわないように、目に力を込める。 「俺、やっぱりサヨコのことが気になるんだ。紫のことも大事にしたかったけど……きっと傷つけるから。ごめん、別れよう」  紫の大きく開いた目から涙が溢れて、頬を伝っていく。傷つけるから別れよう、なんてよく言えたものだ。今、この瞬間にも間違いなく紫のことを傷つけているのに。 「あー……そっか。よかった。煌太、ちゃんと気づけたんだね」  瞳を潤ませたまま、紫は微笑んだ。責められると思っていたのに、こんなときまで優しくされて調子が狂う。いっそのこと罵倒してくれたほうがよかった。 「ごめんね、煌太。私のほうこそ、煌太の本当の気持ち、気づいていないわけじゃなかったのに、ずっと知らないフリしてた。煌太が悩んで、苦しんでるのもわかってて、それでも繋ぎとめようとしてたの」 「紫は悪くないよ。全部俺が悪い」 「……そうね。じゃあ、せめて私から終わらせたことにさせて」 「もちろん……異論はないです」  空になった食器をシンクに片付ける。そのままでいいよ、と言われたけれど、申し訳なくてスポンジを泡立たせた。紫は静かに俺の隣に立って、泡を流したばかりの食器を布巾で拭う。こうしているとふたりで料理した日のことを思い出す。間違いなく、楽しかったのに。我慢していたのに、ついに涙が溢れ出してしまった。 「いて……目に泡入っちゃった」  すぐ嘘とわかるようなことを言ってしまって、これなら何も言わないでいたほうがよかったかな、なんて思ったけどもう遅い。紫は俺の顔を覗き込んで、呆れたような顔で笑った。 「もう。どんな洗い方したのよ。私のほうまで飛んできたわよ」  紫は自分の目元をごしごしと拭う。 「ごめん。これで最後にするから」  紫はそう言いながら俺の背中に腕を回してくる。これで、最後だから。そう自分にも言い聞かせて、そっと抱きしめ返した。 「もう痛くない?」  俺の身体に巻き付けていた腕を下ろして、紫が囁くような声でそう訊ねてきた。もう終わりなのだな、と思いながら、腕の力を緩めると、紫は俺の顔を見上げていた。 「うん、平気。紫は?」 「私も大丈夫。どうする? 夜遅いし泊っていく?」 「え?」  泣き腫らした目のせいか、寂しそうに見えるその表情に傍にいてあげたほうがいいのだろうかと悩む。 「バカ。冗談に決まってるでしょ。明日もあるんだからさっさと帰りなさい。石崎くん」  紫は俺の背中をバシバシと叩いて、明るい声でそう言った。それから、右手で髪を耳に掛ける。強がってるんだってわかるけど、きっと今は優しくするべきじゃないんだ。紫が我慢しているんだから、俺もしっかりしないとだめだ。  腕時計をわざとらしく確認する。 「遅くにすみませんでした。終電近いので、急いで帰ります」  部屋の隅に転がっていた鞄とコートを手に取ると、足早に玄関に向かう。靴を履いて、紫の頭に伸ばしかけた手を触れる寸前で引っ込めた。 「気を付けて帰ってね」 「はい。お世話になりました」  静かに扉が閉まる音がした。夜風は冷たくて、ぶるりと体が震える。それなのに、頬がなんだか温かくて、触れてみたらまた涙が零れていた。  なんだよ、さっき十分泣いたはずだろ。  月の見えない夜。星だけが煌々と輝く空は、たくさんの涙をたたえているみたいに見えた。

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