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 雨に当たったのが良くなかったようで、久々に熱を出してしまった。重たい身体をなんとか動かして、上村課長に休ませてほしいと連絡すると、やっぱり俺と相合傘するんだったな、という冗談と、今日はよく休んで明日は出てくるように、という言葉をもらった。  冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを一口飲んで、そのペットボトルを首元に当てる。ひんやりとして気持ちいい。とぷんと水が揺れる音がして、そのまま意識を手放した。 〇 ☽ 〇  サヨコと俺の真夜中の水泳教室は、十四日目を迎えようとしていた。サヨコは泳いだことがないと言っていたが、身体能力が高いのか、俺が熱心に教えなくてもあっという間に25メートルプールをクロールで泳ぎ切れるようになった。  随分とほっそりとしてしまった月のせいで、プールサイドはかなり暗い。正直これほど暗いと、こんな中泳ぐのは危ないのではないかと思う。  フェンスが揺れる音がして、目を向けるといつものようにサヨコがやってきた。初めて会った日以降は、Tシャツに薄手の黒いパーカー、スキニージーンズ、そして長い髪をキャップで隠した少年のような出で立ちで現れるようになった。理由をたずねると、「女の子っぽい恰好して夜中に出歩くと、煌太がうるさく言いそうだから」と口を尖らせて言っていた。  サヨコも想定外の暗さに驚いたようで、俺の隣にそっと腰掛けると、ちょっと怖いね、と小さな声で呟いた。 「もう水泳教室は終わりかな」  たいして先生らしいことできなかったけど、と自嘲するように吐き出した言葉に返事はない。サヨコのほうに顔を向けると、大きな瞳にいっぱい涙を溜めてこちらを見ていた。 「え……」 「煌太、今までありがとう」  たかが泳ぎを教えただけで大袈裟だ。もしかして、水泳教室が終わることが悲しくて泣いてるのだろうか。別に、同じ学校なんだから夏休みが終わったって会えるだろう。なんなら家も近いのだから、残りの夏休みに会いに来たって構わない。毎晩会えるのを楽しみにしていたのは、俺のほうだ。 「こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ」  好きとか、そういう下心みたいなものがあったなんて知ったら、気持ち悪がられるだろうか。気持ちを隠そうとして伝えた言葉は、思いのほか冷淡な声となってしまった。瞬きとともにサヨコの目から涙がこぼれた。咄嗟に彼女の頬に手を伸ばすと、その手に小さな手が重なった。 「煌太、わたし……」  次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。それがサヨコの唇だと気づいたとき、びゅうと風が吹いてサヨコのキャップを奪っていった。艶やかな黒髪が零れ出るのと同時に、花の香りが漂った。サヨコを引き寄せて再び唇を重ね合わせる。雲が細い月を隠して、ほんの一瞬だけ暗闇くらやみに俺たちを閉じ込めた。  俺たちはしばらくお互いの唇の味を確かめ合った。フェンスの外側を走る車のヘッドライトに照らされるまで、ずっとそうしていた。強い白い光によって冷静さを取り戻した俺は、サヨコからようやく離れることができた。  再び暗くなったプールサイドでは、サヨコが今どんな表情をしているのかはわからなかった。ただ、サヨコは俺の手を握って、小さな声で「明日も会える?」と聞いてきた。俺はもちろん、と返事をする。 「あのね、煌太。明日は明るい時間に会えないかしら」  サヨコは俺の肩に体重をかけるように寄り添ってきた。腕にかかる彼女の髪がくすぐったい。その髪を手で梳いていると、サヨコが俺の目を覗き込んでくる。俺はサヨコの額にキスを落として、いいよ、と答えた。日中は本当は部活がある。だけど、このとき俺の頭の中はサヨコでいっぱいだった。 「どこか行きたいところあるの?」 「映画とか? あと行ってみたいお店があるの」 「行こう。どこにでも付き合うよ」  家も近いのだから、最寄り駅で待ち合わせをして、一緒に電車に乗っていったってよかったのに、サヨコは頑なにそれを拒否した。ショッピングモール二階のアクセサリーショップの前、とかなり限定的に待ち合わせ場所を指定してきた。  翌日、適当な理由を言って部活をサボった俺は、待ち合わせの三十分ほど前にショッピングモールに到着した。買うつもりのない洋服屋に入って、買うつもりがないのに鏡の前で合わせてみたり、シャツの手触りを確かめてみたりした。  無意味な時間を過ごして、ようやく十分が経過したころ、近くのトイレに向かう。用を足した後、丁寧に手を洗って、それから鏡を見て髪を少し整えた。これってデートなんだよな? あまりに突然に決まったものだから、何も下調べできないままここに来てしまった。  トイレを出て待ち合わせ場所に向かおうとすると、少し先に髪の長い女の子が歩いている。サヨコかと思って見ていたが、待ち合わせ場所とは違う方向に歩いていく。旅行にでも行くような大きな荷物を持っているのが気になった。人違いかもしれないと思い、ひとまず指定されたアクセサリーショップに足を向ける。  店のほうを向いて立っていると、店内の女の子たちがこちらを見てくるからどうにも居心地が悪い。いっそのこと入ってみたらどうかと思い、近づいてみた。人が少ないほうに進みながら、ざっと眺めてみる。  ふと、目を引くものがあった。夜空の月と星を閉じ込めたようなデザインのヘアゴムだった。これって俺たちにぴったりなんじゃないか、と手に取ると、待ち構えていたように店員がプレゼントですか、と声をかけてくる。何気なく値札を確認し、中学生の俺でも買えそうだったから、はい、と返事をした。時間もないので、そのままレジに向かって包んでもらう。 「彼女さんにプレゼントですか?」  にこにこと店員が話しかけてくる。付き合ってくれとかそういう話はしなかった。だけど、あんなキスをしたんだ。そういうことだと思っていいのだろうか。結局わからなくて、そんなとこです、と返事をしておいた。  やたらと可愛らしい包装紙のそれを鞄の奥に仕舞い込む。待ち合わせ時間まではあと五分。店の外に出ると、ぽすんと胸のあたりに頭がぶつかった。ふわりと花の香りが漂って、思わず抱きとめる。サヨコだった。 「あ、ごめんなさい」  謝りながら顔をあげたサヨコは、ぶつかった相手が俺だとわかったからか、気の抜けた顔になった。今日は白いブラウスに水色のフレアスカートという服装で、品のあるサヨコの顔立ちによく似合っている。ただ、先程見かけたサヨコらしき少女と服装も同じで、消えてしまった鞄の行方が気になった。  だが、そこに突っ立っているのが迷惑だと言わんばかりに通行人に体当たりされる。実際、俺たちはすごく邪魔だったと思う。サヨコの手を取って店から離れ、人の少ない通路に移動した。サヨコの手は、いつもよりちょっと熱くて、汗ばんでいるようだった。 「煌太、今日は来てくれてありがとう」 「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」  妙によそよそしい挨拶を交わした後、映画館に移動した。見たい映画があるのかと思っていたら、映画館に来たことがなくて、行ってみたかったのだとサヨコは言った。  映画館に入ると、来たことがないというのは本当だったようで、サヨコは目に見えてはしゃいでいた。少し暗い照明や近未来的な内装に、何度か来たことのある俺でも胸は躍る。  上映中の映画のフォトスポットがあるのを見つけて、映画の内容も知らないのにサヨコは写真を撮りたいと言う。恥ずかしいから俺は遠慮したかったのに、近くにいたカップルが親切にも撮影を申し出てくれた。  その写真で愛着が湧いたのか、サヨコはその映画を観ようと言った。運良くすぐ後の上映回があったから、すぐにチケットを買って座席を確保する。その間にサヨコの目はフードカウンターに釘付けになっていた。 「何か買う?」  声をかけると、サヨコは首を横に振る。それでもまだちらちらと見ているのが可愛い。遠慮しなくてもいいのに。 「何売ってるのか気になるから見てもいい?」  サヨコが小さく頷くのを確認して、メニューが見えるところまで進む。 「あ、あれ買おうかな。チュロス。サヨコはシナモンとチョコどっちが好き?」 「……チュロス?」 「あの細長いやつ。半分こしよ」 「えっと、じゃあシナモン」  チュロスとアイスティーをセットで購入して入場口に向かう。上映室に入る前にサヨコにチュロスを持たせる。俺はアイスティーを片手に持って、お互いに空いた手を繋いだ。指先の冷たい、いつものサヨコの手に戻っていた。 「暗いから気をつけて」  階段の下で立ち止まって、サヨコはすごい、と呟いた。別に俺が考えたわけでも、建てたわけでもないけど、初めて見る景色に感動するサヨコの隣で俺は何故か誇らしい気持ちになった。  席に着いて、ふたりの間のドリンクホルダーにアイスティーを突っ込むと、それだけでサヨコは良くできてるわね、と感心したように言った。 「チュロス、食べてみなよ。あったかいうちに食べたほうがきっとおいしいから」  サヨコは嬉しそうに齧り付いた。聞いているだけで涎の出そうないい音がして、これは上映中は食べられないな、と思った。サヨコは目をまん丸にしながら、こんなにおいしい食べ物があるのね、と言う。いちいち大袈裟で、でもそれがすごく愛おしかった。 「煌太も食べて」  そう言って目の前に差し出されたチュロスに噛みつく。サヨコが齧ったときみたいにいい音がしなかったのが少し残念だった。サヨコは二口目もおいしそうな音を出すから、きっとチュロスもサヨコに食べられて嬉しいのだと思うことにする。もう一口だけもらって、あとはサヨコにあげることにした。 「すごくおいしかったわ。煌太、ありがとう」  口の周りに砂糖をつけたまま笑うサヨコが可愛くて、すごくキスしたくなった。幸い、まだ人はまばらで、俺たちが何してようが誰も気づかない気がした。小さな声で呼ぶと、首を傾げて俺を見るサヨコに近づいて、下唇の砂糖を指で払う。俺の理性がきちんと仕事してくれてよかった。  劇場内の照明が落ちて、サヨコが息を呑んだ気配がする。大きな瞳はスクリーンに釘付けになって、俺が隣にいることなんか忘れちゃったんじゃないかなと少し悔しくなる。膝の上で小さく握られた手に触れてみようかと思ったけれど、邪魔したら悪いからやめておいた。  伸ばしかけた手をアイスティーに進路変更すると、サヨコはこちらを向いてにっこりと笑う。唇が何かを伝えようとしていたから、耳を近づけると、吐息の混ざる声で楽しみだね、と言った。顔をサヨコのほうに向けたら思ったよりも近くて、俺の理性はあっさり降伏してしまった。柔らかい感触に脳が溶けそうになったけれど、いよいよ本編が始まる音が聞こえてぐっと堪えた。  サヨコには言わなかったけど、実はこの映画は最近友達と観たばっかりだった。だから俺は、八割くらいは隣でサヨコが笑ったり泣いたりするのを見ていた。俺にとってはそっちのほうがよっぽど有意義な時間だったから。  エンドロールが終わって、照明が明るくなるまでサヨコはずっとスクリーンを見つめ続けていた。こんなに一生懸命観てくれるなんて、監督もさぞ嬉しいことだろう。俺はだいぶ薄くなってしまったアイスティーを飲みながら、監督に嫉妬していた。 「煌太、一口ちょうだい」  カップを持ったままストローをサヨコのほうに向けると、その先端を咥える。目が合うと、ストローを咥えたままふふっと笑う。それだけでさっきまでの嫉妬なんて吹っ飛んでいった。目の前でこんな可愛い子が笑ってるんだ。これを幸せ以外になんというのだろう。  映画館を出た後は、サヨコが行ってみたいと言っていた店に連れていかれた。なんてことのないカフェだったけれど、そこでもサヨコはきょろきょろとして、見るものすべてが特別なものだというようにうっとりとした顔をした。  席についてメニューをふたりで眺める。パンケーキが有名なお店らしく、映画館でチュロスを食べさせなければよかっただろうかと少し後悔した。 「煌太、パンケーキ二枚乗ってるみたい。一枚ずつ食べましょう」  サヨコは全然食べれるみたいで安心した。クリームとか乗ってるようなのだとキツイなと思っていたが、サヨコが選んだのはオーソドックスなやつで、バターがひとかけ乗っているだけだった。本当なら紅茶とかコーヒーも飲みたかったけど、俺の財布がだいぶ悲鳴をあげていたからやめておいた。  注文を終え、パンケーキが出来上がるのを待つ時間に、サヨコと会う前に購入したものを鞄から出した。 「これ、サヨコに似合うかなって思って。気に入ってもらえるといいんだけど」 「嬉しい。何かしら。煌太、開けてもいい?」  あんまり期待されても大したものじゃないし、逆に申し訳なくなってくる。どうぞ、と言うとサヨコは包装紙のシールとかセロハンテープをすごく丁寧に剥がした。そして、取り出したヘアゴムを両手で大事そうに持って、綺麗ね、と目を細めて笑った。  パンケーキを早々に食べてしまうと、迷惑だろうと思いながらも俺たちは水をちびちびと飲んでカフェに居座った。サヨコはさっきの映画の話をしていた。家で観るのとは迫力が全然違う、と本当に楽しそうで、また連れていってあげたいと思った。 「そろそろ帰るか。家まで送っていくよ」  カフェを出て並んで歩きながら、軽く握った手はそっと離された。サヨコは一歩引いて、首を横に振る。 「あのね、煌太。わたし、明日引っ越すの。だから、もうあの学校にも行かないし、もうきっと会うこともない。最後に素敵な思い出ができて嬉しかったわ。短い間だったけど、本当にありがとう」 「え? 最後とか、思い出とか……もう会うこともないとか言うなよ。新しい住所は? 俺、会いに行くから」  もう一度手を強く握ると、サヨコはぽろぽろと泣き出してしまった。 「遠いところに行くから。きっと簡単には会えない。それに、うちはよく引っ越すの。だから、友達とか親しい人は作らないようにしてきたの。別れが辛いのはわかっていたのに……煌太、ごめんなさい」 ――わたしたち、出会わなければよかった  消え入りそうな声で、でも、たしかにサヨコはそう言った。そのまま俺に背を向けて歩き出してしまったサヨコを俺は追いかけることができなかった。  その日の夜、俺は学校のプールでサヨコを待った。いつまでも彼女は来なくて、朝方に帰宅した俺は母親に怒られた。  サヨコは満月の夜に現れて、新月の夜に俺の前から消えた。

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