作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 引き出しの一番上を開けて、今はもう電源が入らなくなってしまった古い携帯電話を取り出した。サヨコがあのヘアゴムをお守りだというなら、俺にとってはこれがお守りだった。映画館で撮ってもらった写真は、自分たちのはもちろん、映りこんだ他人の服装まで説明できるくらいには何度も見た。写真のデータはSDカードに入れていたから、今でも見ることはできる。画質が随分と悪いことを無視すれば。  ずっと会いたかったのに。やっと会えたのに。どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。遠い記憶の中のサヨコは、今の遠野さんでアップデートされてしまった。俺を見つめるその瞳も、香る髪の匂いも、指先の冷たい手も、柔らかい唇の感触でさえも。  机の上のスマートフォンが震えた。紫からの着信だった。出るべきか悩んで、画面と睨み合う。暫くしたら鳴りやんで、メッセージが届いた。 【煌太、もう寝ちゃったかな? 明日、うちに来ない?】  紫のことが嫌いになったわけじゃない。だけど、サヨコとの再会に動揺している今、いつも通りに接する自信がなかった。ごめん、と心の中で謝って本当に眠ってしまおうと思った。ベッドに倒れ込んでタオルケットを顔まで引き上げると、紫の匂いがした。  一晩眠ったら、少し気持ちは落ち着いたような気がする。朝一番で紫に謝罪と楽しみにしているというメッセージを送っておいた。  昨日は酔っていただけ。疲れていただけ。紫のことが好きで、大切にしたいという気持ちは変わらない。それに、紫と俺はお互いの一番弱い部分を知っているわけだから、それでも好きでいられる相手というのはきっと他にはいないんだ。スマートフォンの待ち受け画面を確認する。こんな楽しそうな顔の俺はしばらく見ていなかったと思うな。ほら、やっぱり俺は紫といて幸せなんだ。  出社したら紫と目が合って、周りを気にしながら小さく手を振ってきた。 「おはよう。ごめんね、昨日変な時間に電話しちゃって」 「いや、なんか昨日は疲れてたみたいで寝ちゃってたんだ。ごめん」  あまりにもスムーズに嘘が出てきた。大丈夫? と顔を覗き込んできた紫に罪悪感を覚える。 「うちの布団、紫の匂いするんだ。だからかな、夢に紫が出てきたんだ。おかげで疲れなんか吹っ飛んだよ」  これは本当。詳細は思い出せないけど、紫が夢に出てきたんだ。すごく幸せな気持ちで朝を迎えたことだけは覚えている。  終業後、紫の家の最寄り駅で降りて、ふたりでスーパーに寄って買い物をした。何が食べたいか相談しながら食材をカゴに入れていく。 「なんか、新婚みたいだな」  そう呟いたら紫は腕を絡めてきた。嬉しそうな横顔を見て、俺の口角も自然と上がる。だけど、結婚の二文字を想像したら、遠野さんの顔が浮かんでしまった。 「なぁ、親が決めた相手と結婚しないといけないってなったら、どう思う?」  紫は少し悩んでから、私は嫌だなあ、と言った。 「だって、やっぱり一番好きな人と結婚したいじゃない」 「そうだよな。俺もそう思うよ」 「どうしてそんな話?」 「知り合いがそれで結婚するらしくて」  紫はふうん、と言いながらするりと腕を抜けていく。缶ビールを一本ずつ両手に持って、今日は飲もうか、と笑った。俺は頷きながらも遠野さんの結婚について考えていた。無理に結婚しなくたって、と言った俺に首を横に振った遠野さん。好きでもない相手と結婚する彼女は、どんな想いでいるのだろう。結婚する理由は恋愛ができないから? もう少し詳しく話を聞いてあげるべきだったかもしれない。 「煌太? まだ欲しいものある?」 「……いや、大丈夫」 「そ? じゃあ早く帰ろ」  一緒にカレーを作って、ビールを飲みながら食べる。俺が切った人参はすごく不格好で、見つける度に笑ってしまった。  食後にテレビを見ていたら、紫がスマートフォンの画面に目を落として、あ、と声を漏らした。それから目を細めて優しい顔で笑う。 「どうしたの?」 「友達の子ども、二人目が生まれたらしくて。すごく可愛いの」  そう言って写真を見せてくる。夫婦ふたりと長女、そして生まれたばかりの赤ん坊が写っていた。 「もしかして……」 「あ、そうそう。私の親友とずっと好きだった彼」 「そんなの見て辛くない?」 「うん。実は私もびっくりしてるの。今は煌太がいるからかな。やっぱり新しい恋すると、昔の片思いなんてどうでもよくなっちゃうものなのね」  そういうものなのか。じゃあ俺は? 俺の紫への気持ちは一体なんなんだ。ちゃんと愛しているはずなのに、サヨコに再会してこんなにも胸が騒ぐのは何故なのか。 「煌太。一緒にいてくれてありがとう。今、すごく幸せなの」 「紫、愛してるよ」  愛してる。言葉にしたら確かなものになると思っていた。それなのに、胸の中の違和感が消えなくて戸惑う。紫は少し驚いたような顔をしたけど、私も、と言ってくれた。だけど。キスをしても、抱きしめても、体を重ねても、どこかむなしい。愛しているはずなのに。 ◯ ☽ ◯  今日も受付にはやっぱり遠野さんがいた。だけど、いつもと違った。目が合った瞬間に花が咲いたみたいに顔を綻ばせる。入館証を俺の手に握らせながら、あのコンビニで待ってます、と小さい声で言った彼女に、俺はただ、頷いた。  打ち合わせを終えて、受付を横目にロビーを通過する。俺は迷うことなくくだんのコンビニに足を向けていた。ガラス越しに遠野さんを見つけて立ち止まると、彼女も気づいて小さく手をあげてから外に出てきた。 「石崎さん、お疲れ様です」 「ごめん、結構待った?」 「いえ、全然大丈夫です。どうしましょう、この前のお店でいいですか?」 「うん。次はこの辺の店調べておくよ」  次は、とか言って、先回りで約束した自分がみっともなくて、笑えた。遠野さんが少し前を歩いて、俺はその後についていく。建付けの悪い戸を引いた瞬間、タバコの匂いとたくさんの笑い声に包まれた。 「そういえばタバコとか平気なの?」 「うーん、自分では吸おうとは思わないですけど、この店のは慣れちゃったというか。あ、すみません。石崎さんは苦手でしたか?」 「いや、大丈夫。俺も吸わないけど」  前回と同じ席に通され、向かい合って座る。薄桃色の唇に目が行ってしまい、顔を背けた。彼女が何も言ってこない以上、この前のキスについては不問にすべきだと思った。  遠野さんはすごく美味しそうに食べる。お通しのきゅうりとか、軟骨の唐揚げとか、しゃくしゃく、さくさく、といい音がしてくる。そういえばあのとき――映画館でチュロスを食べたときも美味しそうな音させてたっけ。思い出したら笑ってしまった。 「なんですか?」  口の周りに何か付いてると思ったのか、両手で顔の下半分を覆って、警戒するような視線を向けられる。 「いや、遠野さんって美味しそうな音させて食べるなって思って。よく言われない?」 「ええ? そんなこと初めて言われました」  もっと食べな、と軟骨の唐揚げの皿をそっと彼女のほうに押し出すと、もう恥ずかしくて食べられません、とはにかみながら遠慮された。 「恋愛できないって言ってたけど、それって恋人ができなかったってことだよね。好きな人とかは?」  箸を置いて訊ねると、遠野さんは困ったように視線を彷徨わせた。 「好きな人、ですか……わからないです。周りの人に対して、特別な感情を持たないようにしていたので。父が転勤族で……仲良くなってからのさよならが辛かったんです。両親は離婚しましたし、それに今はもう転校とかそんなものに怯える必要はないんですけど。もう癖になってしまったのかもしれないです」  遠野さんはジョッキではなく、水の入ったグラスに手を伸ばした。アルコールのせいか、頬はほんのりと色づいていて、いつもより幼く見えた。 「このまま、きっとこのままわたしはひとりで生きていくのだと思ってました。それでもいいかもしれないとも思いました。そんなときに母が、縁談を持ちかけてきたんです。離婚してからひとりでわたしを育ててくれた母に、花嫁姿を見せられないのは申し訳ないなって思って」 「じゃあ、母親のために結婚するの? それで、後悔しない?」 「後悔なんてしないと思ってました。今は、後悔してます……石崎さんのせいです」  遠野さんは俺の目を真っ直ぐに見てそう言った。テーブルの上で両手を組んで、爪を少し手の甲に食い込ませて。俺のせいって……どういうことだ? 頭がうまく回らない。 「この前のお守り、ヘアゴムをくれた人が、わたしの心の中にはずっといるんです。彼への想いは、楽しかった記憶と一緒に大切に仕舞っておくつもりでした。でも、石崎さんに会って、彼を思い出してしまったんです」  遠野さんは俯いてしまった。テーブルの上にぽたりと雫が落ちる。 「彼にもう一度会いたい……煌太に、会いたい」  伸ばしかけた手を静かに引っ込めた。どうすればいいのか、わからなかった。俺がその煌太だと名乗り出て、それでどうする? 遠野さん、いや、サヨコは結婚するわけだし、俺にも紫がいる。そもそも、こんな女遊びばかりしていた俺のことなんか、サヨコは軽蔑するに決まっている。  臆病でずるい俺は、サヨコが声も出さずに泣き続けるのを見守ることしかできなかった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません