編集と僕。
旅行の誘い

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

「ところで先生」 井上が改まった様子で声をかける。 「はい」 男も自然と背筋を伸ばした。 「あの件、考えて頂けましたか?」 その言葉を聞いた途端、男の顔に陰りがみえる。 「あの件というと、あれですね」 「はい、旅行の件です」 話は2週間前に遡る。残暑が厳しい日だった。 作業が一段落つき、2人は休憩を始めた。 男は、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、井上は持参したルイボスティーを飲んでいた。 喉も潤い、作業に戻ろうとした矢先、何かを思い出した井上は男を呼び止め言った。 「先生!一緒に出かけましょう!」 唐突な提案に、男は飲んでいた麦茶を吹き出しそうになった。 すんでのところで麦茶を飲み込んだが、むせてしまい話にならない。 しばらく井上に背中をさすってもらいながら、井上の話を聞くことにした。 もちろん、プライベートで出かけようなどといった、夢のような話ではなかった。 「先生に、うちの出版社が出している主婦向けの漫画雑誌で、旅レポ漫画を書いて頂きたいんです」 「はぁ……」 明らかに男は気落ちしている。 もちろんむせたことによる身体的な疲弊や、仕事での旅行の誘いで落胆したという点もある。ただ、それだけではなかった。 「先生のファン、絶対増えますよ」 普段通りに目を輝かせながら話す井上。対して男の顔はどんどん曇っていく。 「旅行、嫌いなんですよ、僕」 「え?いいじゃないですか。知らない場所に行ったり、お土産買ったり。なかなか行けない場所にも行けますよ?」 旅行の何が嫌なのか分からないのだろう、井上は首を傾げる。ふんわりと巻かれた髪が揺れる姿を、男は複雑な表情で見つめる。普段ならうっとりと見つめているだろうが、そういう訳にもいかなかった。 「とにかく、嫌なんです」 その日は、何と言われようと男は嫌だの一点張りで通した。もちろん井上も折れなかったが、時計の針が時間外を指したこともあり、「ゆっくり考えておいてください」と言って帰ったのだ。 「嫌だと言ったじゃないですか。申し訳ないですが気持ちは変わりません」 男がそう言うと、井上はカバンの中から旅行雑誌を何冊も取り出した。 「閑静な街です!」 「嫌です」 「神社巡りしましょう!」 「神なんて信じません」 「紅葉狩りなんてどうです?」 「紅葉を狩りたくないです」 「じゃあ駅地下のグルメを!」 「僕はスーパーの安売り弁当食べますからいいです」 「海見ますか?」 「山派です」 「山も大丈夫ですよ……?」 「登るのが嫌です」 段々と、自分の発言が子供の我儘に聞こえ、男はため息を付いた。 いくら仕事でも、誰が一緒にいても嫌なものは嫌だ。 脳裏を過ぎる映像。あの日の音。 それらを振り切るように男は頭を振った。 「とにかく、嫌なんですよ」 男は吐き捨てるように言い、ちらりと井上を見た。 「行きましょうよ……先生……」 今にも泣きそうな顔で、男の顔を覗き込む。 言い返そうにも、井上の姿を見ると何も言い返せない。 さすがの男も、言葉が詰まってしまった。 それでも、これだけは譲れない。 「い……やです」 男は言葉を絞り出すと、席を立った。 「先生どこに――」 「近く……」 玄関の近くに置いていたカバンを取ると、逃げるようにアパートを出た。 「先生……」 1人アパートに残された井上は、天井を眺めていた。眺めるのをやめると、スマートフォンを手にし、電話を掛けた。 「お疲れ様です。失敗しました。私、ダメかもしれません」 頬を涙が濡らすが、拭うことはなかった。 「あの、はい。そうです。先生が嫌がって」 目から涙がとめどなく溢れていく。 井上は自分の気持ちを電話相手に伝えた。5分程度経ち、電話を切った。 「こんな時くらい、傍にいて下さいよ。好きなんですから」 その顔は、男の前で見せる顔より大人びていた。 その頃男は、ラーメンをすすっていた。 昼間は若い男性で満席になっている人気店だが、15時を過ぎた今は、カウンター席に座った男と、少し離れた席で若い店員がまかないを食べているだけで、席は空いていた。 ズルズルと麺を啜り、脂が沢山入ったスープを流し込む。 大学時代からのストレス解消法だ。男は酒もタバコも受け付けない健康体で、ギャンブルもやらない。 「すみません、激うまラーメンもう1杯」 替え玉などはしない。スープも含め、完食しているからだ。 「お兄さん、目座ってるけど大丈夫ですか?」 人当たりがいい、アルバイトの学生が心配そうに男を覗き込む。 男は眼鏡の奥から鋭い眼光を向ける。 「もう1杯」 眼光に突き刺され、学生は飛び上がった。 「は……はいっ!器お下げします!」 普段なら温厚な印象を与える男だが、こうなると恐怖を与える存在に変わる。 負のオーラを、怒りや情けなさといったどす黒い爆炎で包み、自分の周りに纏わせる。 本人は無自覚だが、その豹変ぶりは、まるで似て非なる人物のようだ。 ふつふつと湧き上がる感情。過去の悲しみ。 話すのが苦手な男は、誰にも話せなかった。 それは男の、最初で最後の卒業旅行の話だ。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません