「さすが先生!ドキドキしちゃいます!」 編集の井上は男のネームを掲げながら言った。井上の目は宝物を見つけた少女のようにキラキラと輝いている。 「とっても素敵なんですけど……」 そう言うと、井上の目が鋭くなった。それに気づいた男は身構える。 来るぞ、あれが来る。 「まずここですね、星を見るシーン。なんだかイマイチですね。市街地なのに、沢山の星が見えるような街灯がない場所あります?後この会話、セリフが多すぎて違和感を感じます。深刻でも重要でもない話題に対して、話す量が多すぎます。このキャラ、そんなに喋るキャラではないですよね?セリフをまとめましょう」 男は心の中で頭を抱えた。今回もダメ出しの山だ。 それを知ってか知らずか、井上は重箱の隅をつつくようにこのコマのここが、このキャラのセリフが、と事細かに指摘していく。 それを逃さないよう、男は黙って井上の指摘箇所をメモ帳にまとめた。 全て、井上の言う通りなのだ。それは男にも分かっていた。 星を見るシーンも、立地条件を考えていなかった。会話のシーンは、ダラダラ話している様子を見せたかったが、それでは読者は飽きてしまうだろう。 「すみません。今指摘された箇所、直します」 井上の指摘が終わったのを確認して、男は蚊の鳴くような声で言った。 「もっと良くしていきましょうね。先生なら絶対できますから!」 そう言う井上の目は、あどけない笑顔に戻っていた。 この笑顔だ。男は顔を赤くしながら俯いてしまう。 どんなに厳しく、どんなに大量の指摘を受けても、この笑顔に癒される。 本当に僕の作品が好きで、良くしたいと思ってくれているからこそ、沢山指摘してくれている。僕を責めている訳じゃない。これも1種の『応援の形』なんだ。 男がそう思えるようになったのは、井上のおかげだった。 男は厳しい家庭に産まれた。両親どちらも教師で、勉強を叩き込まれた。テストで良い点が取れなかった時や、問題が解けなかった時は、殴りはしなかったが、どうして間違えてしまうのかと語気強く迫られたものだ。男はひたすら謝り、その場を凌いできた。 僕は、出来損ないだ。 勉強はできる。スポーツは人並み。でも、でも、だめなんだ。 そんな感情に心は支配されていった。 中学生、高校生になると、勉強の傍ら漫画を書くようになった。数少ない友人の影響だった。 勇者が魔王に立ち向かう話。ヒーローが街の平和を守る話。平凡な少年が障害を乗り越えて可愛いヒロインと結ばれる話。男は想像を紙に映していった。 描くこと。お互いの作品について友人と語り合うことがこの上なく楽しかった。 テストの点も比較的良い状態をキープできたため、両親には漫画を書いていても何も言われなかった。テストの点がとても良い時は、臨時でお小遣いが貰えた為、それを漫画購入代に充てていた。 何となくで志望していた大学に入学し、漫画サークルに入った。サークル内で、切磋琢磨した結果、メキメキと画力をあげていった。 ここで、男の人生に転機が起きる。 サークルで1冊の同人誌を書き、イベントに出展したのだ。 忘れもしない。パッとしない高校生が、マドンナと結ばれる話だ。これは高校の頃描いた漫画をリメイクしたもので、男の妄想の具現化だ。 「あの、この漫画書いた方とお話できませんか?」 イベントの終了時間が近づき、片付け始めた時のことだった。息を切らせながら若い女性かが男に話しかけた。 オフィスカジュアルに着られている印象の女性で、サークルの女性メンバーとは違う雰囲気を纏っていた。 女性経験のない男は狼狽え、サークルメンバーに助けを求めるが、誰も気づいていない。 さらに、息を切らした女性は、男の描いた漫画の表紙を指差していた。 どうせ僕に声がかかるんだ。僕が答えるしかない。 「ぼ、僕ですけど……」 どもりながら答える男を見て、女性は目を見開いた。 一体なにを言われるんだ?男はその場から逃げ出したかったが、足が動かなかった。 「この漫画、最高ですっ!」 息を切らしながら女性は満面の笑みを浮かべた。 サークルメンバーに褒められるのとは違う喜びに満たされた。 これが男と井上との出会いだったのだ。 その後、井上から差し出された名刺に書かれた出版社を見て、男は腰を抜かした。 男も読んでいる、有名な漫画雑誌の名前が書いてあったからだ。 そして出版社で待ち合わせ、編集長と話をし、デビューする運びとなった。 今では、兼業可能なスーパーの品出しをしながら、漫画家をしている。
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