The Heart of the Tree
19 江戸松さんの本心

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 長椅子に座ったままで眠っていた俺を父がゆすり起こした。 「手術が終わった」  父のその言葉に、俺の脳みそは一瞬で覚醒した。手術室から医者が出てきた。俺達を見つけると疲れた表情で歩み寄ってきた医者だったが、近付くにつれて表情が笑顔に変わった。 「手術は成功しました。もう安心ですよ」  立ち上がった俺たち家族3人は口々に「ありがとうございます」と言った。母は一歩下がると、泣きながらの最敬礼を3回追加した。 「いやー、思っていたよりも脳内の出血は酷い状態でした。正直なところ、患部を見た瞬間に成功率は3パーセントも無いと思いました。ところが娘さんの生命力の凄いこと。不思議な話ですが、手術中の娘さんの全身はオーラに包まれている感じがしました」  それを聴いた瞬間、俺は「ちょっと出て来る」と言い残して、病院の救急搬送用出入口から飛び出した。自宅の方向に向かって自転車を全速力で漕ぐ。ちょうど朝日が昇り始めたところで、街はすっかり明るくなっている。  十数分後、俺はゼイゼイ言いながら、自宅傍の公園に自転車を乗り入れた。正面から朝日が差し込み、江戸松さんはよく見えない。俺は自転車を乗り捨て、江戸松さんの大きな陰に入った。  江戸松さんを見上げると緑だった松葉が全て赤茶色に変色していた。そう、江戸松さんは楓を助けるために神通力を使ったのだ。俺はその場に膝から崩れ落ちた。交信したのはたったの一度きり、親しい思い出など全く残っていない江戸松さんではあったが、俺の目からは自然と涙があふれ出た。 「江戸松さん・・・」  その時、俺の心に呼びかけがあった。 「卓実・・・」  弱々しいメッセージだが、間違いなく江戸松さんのものだ。見上げると、江戸松さんの天辺付近に少しだけ緑の部分が残っており、そこに白いオーラが掛かっている。 「江戸松さん・・・。ありがとう」  俺はメッセージを送り返した。 「礼を言うのはワシの方じゃ・・・。約100年前、お前の先祖の三四郎さんしろうとワシは親友だった。時代が激しく移り行く中で、日本の行く末、庄屋家の行く末を案じて、毎日、毎日、ワシらは三四郎が何を為すべきかを語り合うのが日課だった・・・」 「そうだったんだね」 「ところがある時、東京で数か月間を過ごした三四郎は不治の病に侵されて帰ってきた。ワシは毎日、毎日、全力でパワーを送ったが、数年後に三四郎は医者から余命1年と宣告された。その事を知ったワシは神通力を使って三四郎を救う決意をした。どうしても最後のお別れを伝えたくて、三四郎に別れを告げたところ、三四郎は怒って立ち去ってしまった。そして、姿を消した直後に三四郎は自ら命を絶った」  オーラが少しずつ小さく、弱くなっていく中で、江戸松さんは俺にメッセージを伝え続けた。 「ワシが神通力を使って三四郎を助けると言えば、三四郎が拒否することは想定すべきであった。ワシは最後のお別れを伝えたいという自分の我が儘わがままのために三四郎を死なせてしまったのだ。黙って決行すべきだったとずっと後悔していた・・・」 「三四郎は江戸松さんにずっと庄屋家を守って欲しかったんじゃないかな」 「三四郎はそう思ったのだろう。しかし、ワシの代わりになる精霊は他にもいるが、三四郎の代わりはらぬ。三四郎を死なせてはならなかったのだ。それ以来、ワシには三四郎の一族と交信する権利は無いと思い、以来、黙り続けてきた。そんなワシに、お前は失敗を帳消しにするチャンスをくれた。100年来の苦悩に終止符が打てる。あの世に行ったら三四郎にも堂々と会える。ありがとう・・・」  江戸松さんを包んでいる空は、春の柔らかな朝日を浴びて薄い水色に染まっていた。微かに残っていた江戸松さんのオーラは、氷が解けるようにその空に吸い込まれて消えた。 「江戸松さん」  呼んでも、もう返事は無かった。  涙をぬぐって見渡した空は雲一つなく、悲しいほどに美しかった。                                  完                                

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