「んんー……」 そんな唸り声が、後ろから聞こえてきた。収太郎は、心ここにあらず、といった状態のまま、そちらに体ごと向いて、視線を遣った。目を覚ました受橋が、右手で瞼を擦りつつ、左手を上に伸ばしていた。 彼は、椅子から、がたり、と立ち上がった。「何だよ、今のでかい音……」などとぼやきつつ、イートインスペースから、のろりのろり、と出る。カウンター前の通路に入ると、収太郎のほうへと歩いてきた。左目は、瞼が三分の一ほどしか開いておらず、右目は、右手で擦られ続けていた。 受橋が惨状に気づいたのは、収太郎の二メートルほど前にまでやってきた時のことだった。二人とも、体を、相手のほうに向けており、お互いに正対するようになっていた。 受橋は、第一に、怪訝の表情を浮かべた。「あ……?」第二に、驚愕の表情を浮かべた。「あああ……!?」第三に、恐怖の表情を浮かべた。「うわ、うわ、うわ……!」 (あっ、しまった、このままじゃ変な勘違いをされるかも……!) そんな懸念が脳内で湧いたことにより、収太郎は、我を取り戻した。なんて言えば誤解されずに済むだろう、と考えを巡らせ始める。しかし、彼が良案を思いつくよりも前に、受橋が、その場の床に、がばっ、と土下座した。 「助けてくれ。助けて。助」今にも泣き出しそうな調子の声で言った。「お願いします。おねぎゃいしましゅ」じょろじょろじょろ、と排尿し始めた。「ひにたくないれしゅひにたくないれしゅ」ぶぷーっ、という放屁音が鳴った。 「ちょっ、違う、違うって」収太郎は、我にもなく、受橋に近づいた。腰を曲げ、彼の肩に触れようとする。「おれがやったんじゃなくて──」 収太郎の台詞を遮って、受橋が、「うがあああ──」と絶叫し始めた。彼は、がばっ、と顔や体を上げると、収太郎めがけて飛び出し、タックルを食らわせた。 「ぐほおっ!?」 回避できるわけもなく、そのまま突き倒された。肩甲骨や広背筋、尻などに、強い衝撃および激しい鈍痛を受け、一瞬だけ息が止まった。ズボンの右ポケットから、スマートフォンだの財布だのが飛び出して、床に落ちた。 受橋は、収太郎の下腹部の上に乗っかり、マウントポジションをとった。「なめんじゃねえ! なめんじゃねえぞおっ!」ごつい指輪だらけの拳で、収太郎の顔面をぶん殴り始めた。「こちとら元プロレスラーだ! 殺せるもんなら殺してみやがれっ!」どかっ。がすっ。べきっ。ぼこっ。「おりゃあっ! 殺すっ! 先にこっちが殺してやらあっ!」 顔じゅうが衝撃と鈍痛に塗れ、口の中に血が広がり歯が散らばった。呻き声を上げることすらできなかった。なんとか防御しようとして、手で顔を覆おうとしたが、受橋は、それらを払いのけたり、それらごと殴りつけたりした。 「これでも食らいやがれっ!」 そう絶叫すると、受橋は、右手の親指・人差し指・中指を、収太郎の左眼窩に突っ込んだ。なんとも形容しがたい鈍痛と感覚が、脳を揺るがした。 その後、彼は、間髪入れずに、右手を引いた。ぶちぶちっ、べりべりっ、などといった音とともに、左眼球が引っこ抜かれた。 「ひゃひゃひゃひゃひゃ、どうだ、ざまあ見やがれっ!」受橋は、右手を握り締めると、収太郎の左眼球を、ばちゅん、と潰した。「そうだ、やってやる、前から興味あったんだ、どうせ殺されるならやってやるぜ、目ん玉の穴をぶち犯してやるぜっ!」自分が穿いているズボンの、円錐のごとく膨らんでいる股間のファスナーを、じいー、と開き始めた。 直後、受橋は、ぴたっ、と手を止めた。その表情から推測するに、どうやら、何かに気づいたようだ。彼は、視線を、収太郎の頭よりも後ろのほうに向けていた。 「そうだ、こいつを使って……!」 そう呟くと、受橋は、収太郎の下腹部から離れた。しかし、収太郎は、とうてい、何かしらの行動を起こす気にはなれなかった。ただただ、放心状態で、床に、仰向けに寝転がり続けた。 天井には、防犯ミラーが設けられており、そこには、周囲の景色が映り込んでいた。受橋は、床に転がっている、商品であるカクテルグラスの入った箱や収太郎のスマートフォンなどを左右に蹴飛ばしながら、カウンター前の通路を、西に向かって移動していった。 彼は、ほどなくして、黒ジャンパー男の左足の手前あたりで止まった。そのあたりの床に落ちている拳銃を凝視していた。 「目ん玉の穴の後は、こいつで、お前の額に穴を開けて、脳味噌をぶち犯してやるぜっ!」受橋は、そんなことを喚きながら、拳銃を取った。 次の瞬間、どおん、という音が辺りに鳴り響いた。受橋が拳銃を掴んだのが、ひどく乱暴だったせいで、トリガーが引かれ、弾丸が発射されてしまったのだ。銃口は、彼の体のほうを向いていた。 「……」 弾丸は、受橋の背中、肩甲骨の間あたりを突き破って、外に飛び出した。彼は、その場に、ばったり、と俯せに倒れると、そのまま、微動だにしなくなった。その背に開いた風穴から、血が、ごぼごぼごぼっ、と噴き出し始めた。 拳銃は、発砲の衝撃により、使用者の右手から飛び出した。それは、宙を舞った後、カウンター前テーブルの上、東端付近に落ち、がしゃん、という音を立てた。 「はあー…………はあー…………はあー…………」 収太郎は、仰向けに寝転がったまま、荒い息を繰り返していた。鼻が潰れてしまっているようで、口呼吸しかできなかった。もはやどんな状態になっているのかもわからないが、顎を閉じられず、口から、血液やら唾液やらが、だらだら、と溢れていっていた。視界は、左目を失ったせいで、平面的になっていた。 数分が経過したところで、(びょ……病院……一一九番……スマホ……)などと思考できるほどには、体力が回復した。ズボンのポケットに右手を入れる。 しかし、その中は空っぽだった。(……?)収太郎は、可能な範囲で首を動かして、辺りを見回し、スマートフォンを捜した。 目当ての物は、大して苦労せずに見つかった。それは、陳列棚と陳列棚の間の通路──ちょうど、収太郎の頭の右横から伸びている──の途中に転がっていた。受橋が、マウントポジションを解除した後、拳銃を入手しようとして移動している最中に、床に落ちていたそれを蹴飛ばしたに違いなかった。 (拾いに行かないと……その前に、とりあえず、立とうか……) そう心中で呟くと、収太郎は、全身に渾身の力を込めて、動き始めた。まず、両手を床について、上半身を起こした。次に、体を左にひねり、四つん這いの姿勢をとった。最後に、カウンター前テーブルの縁を掴んで、よろり、よろり、と立ち上がりだした。 数十秒が経ったところで、ようやく、立つことができた。スマートフォンのほうに視線を遣ろうとして、体を右にターンさせ始める。その途中で、店舗の東部が視界に入った。 カウンター前の通路の途中、東レジの付近には、収太郎が取りに行こうとしていたレシートが床に落ちていた。黒ジャンパー男や受橋に踏んづけられ、飛ばされたせいで、そこまで移動したに違いなかった。 その先、東壁は、ガラス張りとなっており、外の様子を確認することができた。いつの間にやら、駐車場には、パトカーが三台、停まっていた。警官が六人、それらの陰に身を隠し、コンビニ内の様子を窺っていた。 (そうか、取原の緊急通報で来てくれたのか……! やったぞ、これで、もう、一一九番通報の必要はなくなった……早く、彼らに助けてもらおう) そう心中で呟いた、次の瞬間、警官たちのうちの一人が、「もう、どこにも逃げられないぞ!」と大声で言った。「大人しく、人質を解放して、投降しろ!」 (なっ……おれ、強盗犯だと思われているのか……!?)通常なら、目をみはるなり口を開けるなりするところだが、顔じゅうに重傷を負っているせいで、何のリアクションもとれなかった。(人質なんて、いないんだが……駐車場にいる警官たちにしてみれば、そんなこと、わからないよな。 とにかく、早く外に出て、投降しよう。初めのうちは、警察の対応は、手荒いかもしれないが……おれが、犯人でないどころか被害者であることは、すぐにわかってくれるはずだ。店の防犯カメラには、この災厄の一部始終が記録されているだろうし) そう考えると、収太郎は、よろり、よろり、と玄関口に向かいだした。両手を上げようとしたが、そのたびに肩甲骨あたりが痛むせいで、できなかった。受橋に突き倒され、その部位を床に強打した時、負傷したに違いなかった。 数分後、彼は、東レジの付近にまで到達した。(これ以上の誤解を防ぐためにも、なんとか、反抗する気がないことをアピールしないと……)そんなことを考えながら、右足を、一歩、差し出した。 ずるりっ、と靴底が前方へと滑った。同時に、床から、ぽーん、と、何かが前に向かってすっ飛んでいくのが見えた。それは、収太郎が取りに行こうとしていたレシートだった。踏んづけてしまったに違いなかった。 (わっ……!) 左腕が本能的に動いた。ばっ、と左斜め後ろあたりに突き出す。肩が、ずっきんっ、と強く痛んだ。呻き声を上げることすらできないほどだ。 〇・五秒後、左掌を、カウンター前テーブルの上、東端付近に、だんっ、とつくことに成功した。しかし、それから間髪入れずに、どおんっ、という轟音に鼓膜をつんざかれた。同時に、左掌が、大きな衝撃を受け、真上へと突き飛ばされた。 (なあ……!?) 収太郎は、顔を、がばっ、と左手のほうに向けた。その時、宙を舞っていた拳銃が、東レジの清算金額表示ディスプレイに、がしゃっ、とぶつかったところだった。さきほど、左掌をカウンター前テーブルについた時、ちょうどそこに位置していた拳銃を、上から押さえつけてしまったのだろう。その拍子に、トリガーが引かれ、弾丸が発射されてしまったというわけだ。 (く……!) さいわいにも、左掌をカウンター前テーブルの上についた直後に、右足を床に下ろすことに成功していため、平衡感覚はだいぶ取り戻せていた。数歩、ととっ、と後退して、体のバランスを完全に回復させる。その最中、前方にて、ぱりん、という音が鳴った。弾丸が東壁を貫通したのだろう。 数秒後、駐車場のほうから、どかあん、という大きな音が聞こえてきた。同時に、東壁や玄関扉が、がたがたっ、と振動し、外から、ぱあっ、と明るい光が差し込んできた。 (……!?)収太郎は、顔を、がばっ、と前に向けた。 駐車場に停まっているパトカーのうち一台が、ごうごう、と燃え盛っていた。さきほど収太郎が発射した弾丸が、ガソリンタンクに当たり、そのせいで爆発したのだろう。車両の左横では、警官が一人、仰向けに倒れていて、金属片の突き刺さっている喉仏から、血を、ぴゅううう、と噴き出させていた。右横では、警官が一人、火だるまとなっていて、アスファルト上を、ごろんごろん、とのたうち回っていた。 (そんな……あんな事態を引き起こすつもりなんて、なかったのに……)上唇で下唇を押さえつけた。(これじゃあ、ますます、凶悪犯だと誤解される……とにかく、一刻も早く投降しないと……!) そう考え、収太郎は、再び移動を開始した。それから数分が経過したところで、ようやく、玄関マットの上に到達した。扉が左右に開いたので、玄関口に向かって、右足を差し出す。 爪先が、ぽんっ、と何かを蹴飛ばした。思わず、そちらに視線を遣る。それは、彼が取りに行こうとしていたレシートだった。床から数センチ浮いた状態で、すっ飛んでいった後、駐車場に着地して、ころんころん、と転がった。 数分後、収太郎は、外に出て、玄関口の前に立った。いつの間にやら、駐車場からは、通常の制服警官はいなくなっていた。代わりに、多数の機動隊員が、店舗を取り囲み、垣根を形成していた。みな、特殊警棒だのライオットシールドだのを構えており、ひどく強い敵意に満ちた眼差しを向けてきていた。 「なんだとっ!?」 そんな大声が、機動隊員たちによる垣根よりも後ろのほうから聞こえてきた。そこには、機動隊員の制服を着た中年男と、スーツを着た若い男がいた。 「それは本当か!?」中年男が大声を上げた。 「間違いありません!」若い男も大声で返した。二人ともひどく興奮していた。「さきほど、コンビニの防犯カメラのリアルタイム映像を、リモートで確認しました! 今、店内に、人質はいません! あいつ一人だけです!」 「おっしゃあっ!」中年男は、がばっ、と収太郎のほうを向くと、びしいっ、と彼めがけて右手を突き出した。「取り押さえろおっ!」 機動隊員たちが、いっせいに、収太郎めがけて突進した。 (うおっ……!) 待ってくれ、と言おうとしたが、言えなかった。げほっ、と咳き込んだり、ぶはっ、と血を吐いたりすることで、精一杯だった。 数秒後、機動隊員たちの構えているライオットシールドのうち一枚が、収太郎の体に、どかっ、と激突した。 (……) もはや呻き声を上げることすらできなかった。収太郎は、きりもみ状態で吹っ飛ばされた後、地面に、どちゃっ、と俯せに倒れた。 その時、口の中に、何かが、ぐしゃぐしゃっ、と入り込んできた。 (く……!?) 口の内側の肉および舌により、その物体の形状や触感などを味わった。それは、くしゃくしゃに丸められた紙だった。さきほど、付近の地面に落ちていた、収太郎が取りに行こうとしていたレシートに違いなかった。 そんなことを考えている間に、体の周囲に、機動隊員たちが、わらわらと集まってきた。彼らは、拘束のためか、収太郎の頭や手足を、ぐい、ぐいっ、と動かし始めた。 (わわっ──) 収太郎は、そんな声を内心で上げた。その拍子に、知らず知らず、舌や喉に力が入った。ごくん、という音が鳴る。血液や唾液、歯やレシートが、飲み込まれた。 けれども、それらは、胃袋には入らなかった。咽頭のあたり──食道および気道の手前──において、レシートを先頭として、詰まったのだ。 (な……!?) 収太郎の顔から、血の気が、さあっ、と引いた。なんとか、口や喉に力を込め、レシートを飲み下すなり吐き出すなりしようとした。 しかし、いずれも叶わなかった。そもそも、顔じゅう体じゅう、どこもかしこも痛いわ疲れているわで、ろくに力を入れられなかった。 (うぐぐぐぐ……!) 収太郎は、なんとか、喉に物が詰まっていることを機動隊員たちに知らせようとした。ところが、当然ながら声は出せず、手も足もろくに動かせなかった。顔は、ほとんど地面に押しつけられていて、彼らの視界に入りすらしなかった。 (……) 心臓の鼓動が、どくんどくんどくん、と、どんどん速くなっていった。顔じゅうが激痛に塗れているにもかかわらず、目を見開き、残った歯を食い縛った。その後も、気が狂いそうになるほどの苦しみは続いたが、数十秒が経ったところで、ようやく意識が途絶えた。 〈了〉
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