「おい、お前、待てよ」 そんな声が後ろから聞こえてきたが、領崎(りょうざき)収太郎(しゅうたろう)は、自分に対する台詞だとは思わなかったため、引き続き、玄関口に向かった。 「お前だよ、そのまま、このコンビニから出て行くつもりか?」 そう言われて、収太郎は、ぴたっ、と足を止めた。(なんだ、おれが話しかけられているのか……)思わず、眉間が険しくなった。 直後、玄関扉が、ういいん、と自動で開いた。悪寒に襲われたが、外から入り込んできた真冬の冷気のためか、これから厄介事に見舞われるという直感のためかは、わからない。外は、軽い絶望感さえ抱くほどに真っ暗だった。今が深夜であるせいだ。 収太郎は、警戒の表情をしながら、後ろを振り向いた。その数メートル先では、中年の男性店員が一人、腕を組んで仁王立ちしていた。顔には、強い敵意が、ありありと浮かんでいる。胸の名札には「受橋」「うけはし」と書かれていた。体つきはがっしりとしていて、両手の指には、ごつい指輪が多数はめられていた。 「お前、万引きしようとしているな?」受橋は、人差し指を、びっ、と突きつけてきた。「その袋に、未精算のブツがあるだろう」 収太郎は、相手の指す先──自分が右手に提げているレジ袋に視線を遣った。その中には、テトラチョコという駄菓子が十数個、入っていた。 「いやいや、誤解だよ」彼は、首を、ぶんぶんっ、と激しく横に振った。「ちゃんと金を支払ったさ。疑うなら、レジ係に訊いてみればいいじゃないか」 思わず、受橋よりも後ろのほう、カウンターに視線を遣った。彼が今いる玄関口は、店舗の東壁の北端付近に位置している。カウンターは、北壁と平行に、東西に伸びるようにして設けられていた。レジは、それの東部に一台、西部に一台、設けられていた。 そして、西レジの所に、若い女性店員が一人、立っていた。胸の名札には「取原」「とりはら」と書かれている。冷めた目つきをして、虚空を睨んでおり、収太郎のほうに目を向けようともしなかった。 「いいや、訊くまでもねえ。おれも見ていたよ、お前がレジで金を支払っていたのはな」 「えっ?」軽い安心感が湧いた。「なんだ、だったら──」 「問題は、その後だ」安心感が霧消した。「お前、もう一度、売り場の駄菓子コーナーに行っただろ?」 「ああ、そうだけど……」曖昧に頷いた。 テトラチョコを買う前、収太郎は、駄菓子コーナーにて、六次元ドーナツという名前の商品を見かけていた。その時、それのパッケージに描かれているマスコットキャラクターに対して、微小な違和感を覚えたのだ。 その後、レジにて金を支払っている間に、思いついた。あっ、そうだ、もしかして、あのキャラ、被っている帽子の種類が、数日前に目にした時から変わっているんじゃないか、と。それで、テトラチョコを買った後、駄菓子コーナーに戻り、その予想が当たっているかどうか、確認した。それから退店しようとしたところで、受橋に声をかけられた、というわけだ。 「おれは誤魔化されねえぞ。お前、駄菓子コーナーに行った時、レジ袋に、テトラチョコを何個か追加しただろ。なるほど、上手い手口だな。十数個のテトラチョコが、二個か三個、増えたって、ぱっと見ただけじゃ気づかない。そう、おれみたいに目ざといやつでなければな」 「いや、だから、誤解だって!」思わず声が甲高くなった。「そんなこと、していないよ」 「だったら、証明しろよ」受橋は、ふん、と鼻息を出した。「レシートを見せてみろ。買ったテトラチョコの数が書かれているだろ。それが、レジ袋のテトラチョコの数と合っているなら、放免してやる」 「わかった、わかったよ……」はああ、と大袈裟に溜め息を吐いてみせた。「ええと、レシートは、貰った直後に手放したんだが……」 再び、受橋よりも後ろのほうに視線を遣った。店舗には、南北に伸びている陳列棚が、北部に四台、南部に四台、並べられており、それらによって、縦横の通路が形成されていた。南北通路は、西壁と一列目棚の間、一列目棚と二列目棚の間、二列目棚と三列目棚の間、三列目棚と四列目棚の間、四列目棚と東壁の間の、合計五本で、東西通路は、カウンターと北部棚の間、北部棚と南部棚の間、南部棚と南壁の間の、合計三本だ。 収太郎は、西レジのカウンターの通路側に注目した。そこには、不要レシート入れが設けられており、その中には、一枚のレシートが、くしゃくしゃに丸められた状態で突っ込まれていた。あれだ。 「ちょっと待ってくれ、取ってくる」 そう言うと、収太郎は、カウンター前の通路を、すたすた、と西レジに向かって歩きだした。受橋は、「ふん、逃げ出そうなんて思うなよ」と言うと、イートインスペース──玄関口の横に、長テーブルが一台、東壁に沿うようにして据えられているだけの、非常にシンプルな空間──に置かれている椅子を引っ張り出して、それに腰かけた。 二つあるレジの間には、長テーブルが、カウンターに沿うようにして配されていた。その上には、なんとかいう漫画のコラボ商品が多数、陳列されていた。魔術師のイラストがラベルに描かれているワイン、侍のイラストが紙パックに描かれている日本酒、サイボーグのイラストが持ち手に描かれているコルク抜き、カウボーイのイラストが底面に描かれているカクテルグラスなどだ。 数秒後、一列目棚と二列目棚の間あたりに差しかかったところで、ズボンの右ポケットから、ぴろりん、という電子音が聞こえてきた。スマートフォンのメール受信音だ。 (なんだよ、こんな時に……)収太郎は、顔をしかめながら、右手をポケットに突っ込むと、スマートフォンを引っ張り出した。 乱暴に手を動かしたせいか、同じ所に入れていた財布まで、一緒に出てきた。それは、ポケットから零れ落ちると、床に、どさっ、と着地した。 間髪入れずに、じゃらんじゃらん、という音が辺りに響き渡った。財布が床に衝突した拍子に、小銭入れの蓋が開いてしまったらしく、各種の硬貨が飛び出したのだ。それらは、四方八方に転がっていった。 (うぐ、面倒な……) 収太郎は、はあ、と軽い溜め息を吐いた。スマートフォンをポケットに戻すと、小銭を拾い集め始める。 その後、数分が経過した。彼は、床に落ちていた一円玉を拾うと、財布に戻してから、(ええと、これで全部か?)と心中で呟いた。 きょろきょろ、と辺りを見回す。ほどなくして、南部の三列目棚と四列目棚の間に、五百円玉が一枚、落ちていることに気づいた。 (おっと、危ない危ない……あんな大金を拾い損ねるところだった) そう内心で独白すると、収太郎は、三列目棚と四列目棚の間を、南に向かって進んでいった。しばらくして、目的地に到着したので、五百円玉を回収した。 (よし、これで全部だな。……っていうか、受橋のやつ、やけに静かだな。てっきり、おれが小銭を拾い集めている途中で、「早くしやがれ」とかなんとか、文句をつけてくるかと思っていたんだが……) そう考え、収太郎は、ちらり、とイートインスペースに視線を遣った。受橋は、椅子の背にもたれ、腕を組み、脚を開き、目を閉じていた。耳を澄ませたところ、小さないびきまでかいている、とわかった。 (なんだよ、あの野郎、寝ていやがる……しめた、このまま出て行ってやろうか?) その案について、収太郎は、考えを巡らせ始めた。その間に、客が一人、入店してきた。赤いジャケットを着た、若い男だ。 (……いや、やめておこう)そう心中で呟いて、首を、ゆるゆる、と左右に振った。(それじゃあ、万引きの誤解をされたままだ……それはよくない。おれは、今後も、このコンビニを利用するつもりだからな。さっさと、レシートを受橋に見せよう) そう胸中で呟くと、収太郎は、まず、スマートフォンを取り出し、さきほど受信したメールの内容を確認した。それは、いわゆる迷惑メールの類いだった。顔をしかめると、端末を、元の場所に戻す。 次に、西レジを目指すのを再開した。南部の三列目棚と四列目棚の間を、北に向かって歩いていく。しばらくして、十字路──北部棚と南部棚との間に形成されている東西通路との交差点──に出たので、左折した。 直後、左足の爪先が、がっ、と何かに衝突した。ばっ、と一瞬だけ足下に視線を遣る。床の上、南部の三列目棚の横に、かご──店員が商品の出し入れに使用する物──が放置されていた。 (……!) 体のバランスが崩れ、上半身が前傾した。なんとか、倒れまい、として、右足で、けん、けん、と跳ねる。目の前に、北部の三列目棚の南端に置かれている、冷凍商品の陳列ワゴンが迫ってきた。 (く……!) 収太郎は、ワゴンの南の縁を左手で、東の縁を右手で、がっ、がっ、と掴んだ。なんとか、アイスクリームの山にダイブする、というような事態は避けられた。 そう安堵した次の瞬間、股間が、ワゴンの南東角に、ごりゅんっ、と激突した。 (ぐう……!?) 股間に重苦しい鈍痛が響き渡り、顔から血の気が引いていった。収太郎は、すぐさま、下半身をワゴンの南東角から離すと、苦痛が和らぐのをひたすらに待ち始めた。とうてい立っていられず、その場にしゃがみ込む。西レジのほうから、「スプーン要ります?」「ああ、頼む」という会話が聞こえてきた。 (…………ふう……だいぶマシになった。まったく、とんだ災難だな……) 収太郎は、そう脳裏で独白しながら、立ち上がり、移動を開始した。二列目棚と三列目ワゴンの間の通路に入ると、そこを、北に向かって進んでいく。最初のうちは、やや内股になっていたが、すぐに、本来の感覚を取り戻し、いつもの姿勢で歩き始めた。 しばらくしてから、カウンター前の通路との交差点、丁字路のようになっている所に出た。次の瞬間、左半身に、どしっ、という衝撃を受け、耳に、ぐちゃっ、という音が飛び込んできた。西レジのほうから来た赤ジャケット男とぶつかったのだ。彼は右手にレジ袋を提げていた。 収太郎は即座に謝罪した。「すみません」 「すみません、って、お前なあ……」そう言いながら、赤ジャケット男は、ばっ、とレジ袋の中身を確認した。「クソが……モンブランがぐちゃぐちゃになっていやがる……! 最後の一個だったってのに……!」 「す、すみませ──」 台詞は、途中で打ち切られ、代わりに、ぐふうっ、という呻き声が口から漏れた。赤ジャケット男が、拳を握った右手で、収太郎の腹を、どぼっ、と殴りつけたのだ。 収太郎は、床に、どっ、と左膝をつき、カウンター前テーブルの上に、ばっ、と右手をついた。赤ジャケット男の、「喧嘩売ってんのか、この野郎!」という喚き声が聞こえてきた。 「い、いや、そんな──」 台詞は、またしても途中で打ち切られた。鼻に強烈な衝撃を受け、首から上が後ろへ突き飛ばされたからだ。赤ジャケット男が、収太郎の顔に、どかっ、と膝蹴りを食らわせてきたのだ。 (──) 収太郎の上半身は、そのまま、後傾していった。数秒と経たないうちに、背が、どしん、と床に激突し、仰向けに転がった。鼻から、だらだら、と血があふれ始め、体内に流れ込んだほうは、喉を刺激しながら下りていき、体外に漏れ出たほうは、口に入り込んで鉄の味に塗れさせたり、衣服を汚したりした。 彼の右手は、カウンター前テーブルの上から滑り落ち、床に触れていた。テーブル上に陳列されていた商品は、左右に弾き飛ばされていて、ひっくり返ったり床に転がったりしていた。 「ふん……ゴミクズめが」 そう吐き捨てると、赤ジャケット男は、玄関口に向かい始めた。その途中、収太郎の横を通り過ぎる時に、彼に向かって、ぺっ、と痰の混じった唾を吐いた。それは、収太郎の左頬に、べちゃっ、とへばりついた。 それからまもなく、赤ジャケット男は退店した。収太郎は、いわゆる放心状態に陥っており、動けなかった。 数十秒が経過したところで、てれれれん、という、玄関扉の開閉を知らせる電子音が聞こえてきた。 (まさか、赤ジャケット男が戻ってきたのか……!?) そんな恐怖に駆られて、がばっ、と上半身を起こし、後ろを振り返った。さいわいにも、抱いた心配は杞憂に終わった。入店してきたのは、黒いジャンパーを着て、肩から黒いボストンバッグを提げた、若い男だった。 そこで、ようやく、収太郎は、今の自分がなかなか恥ずかしい姿をしていることに気づいた。慌てて、カウンター前テーブルの縁に掴まると、よろりよろり、と立ち上がり始めた。取原は、何も話しかけてはこなかったが、それが逆にありがたかった。黒ジャンパー男は、収太郎には目もくれず、彼の横を通り過ぎると、西レジに向かった。 収太郎は、しばらくして立ち上がりきると、ふ、と軽く安堵の息を吐いた。同時に、黒ジャンパー男が、西レジの前に立った。彼は、右手を上着のポケットに入れると、そこから拳銃を取り出し、銃口を取原に向けた。 「手を上げろ」 取原は目を、収太郎は口を全開にした。 「手を上げろっつってんだろっ!」 そんな黒ジャンパー男の怒鳴り声の直後、取原は、ばっ、と両手を上げた。同時に、じりりりり、というベル音が店内に響き渡り始めた。 「ふん、緊急通報ボタンを押したか……まあいい、そのケースも想定済みだ」 そう言いながら、黒ジャンパー男は、ボストンバッグを肩から外し、カウンターに、どさっ、と置いた。その時に生じた微風により、収太郎の目当てのレシートが、ふわっ、と動いた。それは、不要レシート入れの縁を越え、外に飛び出すと、カウンターの縁も越えて、床に、ぽてっ、と落ちた。 「この辺は、道路が、かなり入り組んでいるし、最近は、多数の工事が行われていて、あちこちが通行止めになっているからな……警察が来るまで、それなりに時間がある。おらっ、さっさとレジの金を詰めやがれ! てめえを殺して、おれが代わりにやってやってもいいんだぞ!」 取原は、肩を、びくっ、と震わせ、首を、こくこく、と縦に振った。レジの引き出しを開け、中に入っている各種の紙幣を、両手でわし掴みにする。 (コンビニ強盗だと……!?) そう心中で呟いて、唾を、ごく、と飲み込んだ。未だに掴まっていた、カウンター前テーブルの縁から、手を離す。 その時、かたっ、と小さな音が鳴った。黒ジャンパー男は、一瞬だけ、視線を、さっ、と収太郎に遣り、すぐに取原に戻した。その〇・一秒後、今度は、がばっ、と顔全体を収太郎に向け、睨みつけた。彼の存在をすっかり忘れていたに違いなかった。 その後、黒ジャンパー男は、体を右に九十度ほど回転させ、収太郎に正対すると、拳銃を突きつけた。「てめえも、大人しくしていやがれ! 妙な真似をしたら、遠慮なくぶっ放すからな!」収太郎のいるほうに向かって、右足を、一歩、差し出した。 その時、黒ジャンパー男の右足の靴底が、床に落ちている、収太郎の目当てのレシートを踏んづけた。 右足が、ずるりっ、と前へ滑った。 「わあっ!?」 黒ジャンパー男は、情けなさすら感じられるような声を出した。その後は、まるで万歳でもするかのように両手を上げつつ、体を後傾させていった。レシートは、ぽーん、と、カウンター前の通路を、東に向かってすっ飛んでいった。 一秒も経たないうちに、黒ジャンパー男は、どしんっ、と仰向けに倒れた。その時、彼の後頭部は、床に激突する寸前で、どすっ、という音とともに急停止した。 「ぐ──」 黒ジャンパー男の呻き声は、どおん、という音にかき消された。彼が拳銃のトリガーを引いたのだ。 直後、取原の眉間に風穴が開いた。彼女は、その場に崩れ落ると、そのまま動かなくなった。前頭部および後頭部に出来た銃創から、血液が、びゅううう、と噴出し始めた。 拳銃は、発砲の衝撃により、使用者の右手から飛び出した。それは、宙を舞った後、床の上──黒ジャンパー男の左足の手前あたり──に落ち、がしゃん、という音を立てた。 (な…………なんてことだ……) 収太郎は、呆然として、黒ジャンパー男と取原を交互に眺めた。黒ジャンパー男の首の後ろ、うなじのあたりには、床に落ちているコルク抜きの針が、垂直に突き刺さっていた。それの尖端が、彼の盆の窪を貫き、死に至らしめたに違いなかった。
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