大学の授業をさぼり、さらにはバイトも休んで、朝っぱらからパチスロ屋の新装開店イベントに並んで参加する予定だった草薙拓哉(くさなぎたくや)だったが、思わぬ開店延期の不遇にあい、結局、今の真夜中になるまで、一人暮らしの狭いアパートの一室で、グダグダしていたのが原因なのかも知れない。 普段なら出ないはずの、スマホにかかってきた非通知の電話に出たのは。 本来は非通知や知らない番号の電話は出ない草薙なのだが、余りにも非生産的かつ暇すぎた一日。退屈の極みを感じた草薙は、その退屈しのぎの一環として、徒然と深い思慮なくあえてスマホを取ってみた。 「はい、もしもし……」 と覇気のない草薙の受け答えとは裏腹に、スマホ越しに帰ってきた台詞は怒号にも近い熱気が籠った一声だった。 「草薙君だね!?」 「へ? は、はあ」 「草薙拓哉君で間違いないね!?」 「あ、はい。そうですけど、どなた様ですか?」 声音の温度差の激しい両者の会話。一方、どうやら低い声からして相手は成人男性。草薙は訝し気になりつつも平静に対応していたが、相手の声量に圧倒される部分もあり、傾聴した態度でスマホを耳に押し当てていた。 「私の事はどうでもイイ。兎に角、早くそこから君は逃げるんだ!」 「ここから逃げる? どうしてですか」 「詳しく説明する時間はない! 君は自分のアパートにいるんだろ? だったら早くその場から脱出しろ」 「ち、ちょっと意味が分からないんですけど……」 「ええい、もう仕方ないな。これから君の事を殺そうとする奴が来るんだよ! だから早く逃げるんだっ」 「は、は、はあ? それこそ全く意味が……」 「もう、そんな事をああだこうだ言っている暇はないんだ。今、君が持っているスマホを片手に直ぐに外へ出ろ。逃亡の仕方は私が指示する。私は君を救いたいんだ!」 「何か勘違い、そう、電話をかける相手を間違えているんじゃないんですか?」 「君は草薙拓哉君なんだろう?」 「え、ええ。まあ、そうですけど」 「だったら君は抹殺のターゲットだ。間違いない。狂気の権化としか呼びようのない殺人鬼がこれから君を襲ってくる!」 「え、え、ええ? 何で、ど、どうして?」 「そんな事までは私は知らない。それは奴に聞かなきゃ分からん事だ。それにイカれている奴だから理由など考えても無駄だろう。ただ兎に角、君はそんなクレイジーな奴に何故か狙われているんだ。そこにいたままでは確実に殺されるぞ!」 威圧的ではある。だが、それ以上に電話越しの相手の声は緊迫感に満ちていた。 草薙はスマホを強く握りしめながら、 「じ、じゃあ、あなたは一体誰なんですか?」 「だから、そんな悠長に説明してる暇はないんだよ。早く私の言っている通りに部屋を出るんだ!」 「そんな訳の分からない話を聞かされただけで、僕が……」 と草薙が喋っている最中だった。インターホンが鳴ったのは。 「え?」 思わず硬直する草薙。スマホ越しの電話相手は、草薙の微妙な呟きに気づき、 「どうした?」 「いえ、今、インターホンが鳴って……」 「駄目だ! 絶対にドアを開けちゃいけないぞ。奴だ、マッドネスな猟奇殺人鬼だ!」 マジか? 草薙の脳裏によぎる電話相手の話の信憑性。草薙がしばらく声を潜めていると、またインターホンが鳴った。その後も草薙は音無しの構えで動こうとはしない。電話相手も空気を察してか、先ほどまでの檄のある言葉を発せず沈黙を守る。 すると鍵をかけているドアノブ越しから、強引にガチャガチャと扉を開こうとする音が聞こえた。一応、チェーンロックもしているが、それすらも揺ら揺らとする程の激しい腕力による施錠行為。 「うわっ!」 計らずも悲鳴をあげた草薙。その声に反射的に口を開いた電話相手。 「どうかしたのか!?」 「む、無理やり誰かがドアを開けようとしています!」 「だから言ったろう。奴が君を殺しに来ると!」 「ど、ど、どうすれば良いんですか?」 「もう、普通に正面のドアから出る事は不可能だ。ベランダから脱出するしかない。それは出来るだろう?」 「は、はい。一階に住んでるんで」 「じゃあ早く靴を履いて逃げるんだ。私が君を安全な場所まで誘導する!」 「へ? 誘導って……」 「だから君はスマホを持って、直ぐにその場から抜け出すんだ。その後は私の指示に従って逃げる。それが最善策なんだよ!」 もはや焦りのあまり冷静さを失っている草薙は、訳の分からない電話相手の言葉ではあるが、一抹の疑心を抱えつつ、その謎のアドバイスに従って、急いでスニーカーを履き、ガンガンと戸口から響く騒音を背にして、ベランダに向かい自室から脱出した。 「今、外に出ました」 何が何やら分からない状態で草薙は、十五夜も晴れやかな空の下、忠実に謎の電話相手に逐一行動を報告した。 「よし。君は○✕公園を知っているな?」 「は、はい。俺の家の近くにある公園ですね」 「そうだ。まずはそこに行くんだ。その公園にマウンテン・バイクがある。それからはその自転車に乗って逃げるんだ」 「へ? あ、あの、そんな事をするより、交番か何処かで助けを求めた方が良いと思うんですが」 「そんな余裕があると思うのか! 耳をすましてみろ! すぐ側から足音が聞こえるだろう。奴は常にすぐ近くにいる! 交番だろうが何処かの家に助けを求めたりしても、奴は捕まる自爆覚悟で君が助けを求め、その身体が止まった時を逃さずに瞬殺する!」 「え、ええ!」 そのような会話の間に、確かに荒々しく音を立てながら、何者かが向かっている様子に草薙は気づいた。 草薙は考える時間もないまま、すぐさま走り出し電話相手が言ったように○✕公園に向かった。 何かががおかしい? とは重々に草薙は分かってはいたが、半分パニック状態に陥っているので、その謎の電話相手に信用をおいて、電話相手が告げる指示に従う事に決めた。藁をもすがる思い、といような状況や状態に陥ると人間は得てして正常な判断を出来なくなる……の典型でもあった。 無我夢中に走る草薙。だが、周りを見れば多くの歩行者が側をよぎっている。一方でどうやら後方から自分を追う気配は感じる。どちらにしても○✕公園などに向かうより、誰かに助けを求めた方が良策だと草薙は思い始めたが、 「君が誰かに助けを求めたその瞬間こそが、奴にとっては殺人の絶好のチャンスになってしまうんだ。それこそ君だけではなく、君を助けた人にまで危害を加える事になる。ヘタすれば共倒れだ。つまり、一瞬たりとも、止まる事は許されない。君は私の指示に従って走り続けなければならないんだ!」 と片腕で電話を耳に当てながら、一方、片腕を振り子のように振りながら走る草薙は、徐々にスピードは落ちてジョギング状態になりながらも、嫌が応にも謎の電話相手の言う事に従った。 そして、息も切れ切れに人通りが少ない○✕公園の近くに草薙がやって来ると、すぐに公園内にある公衆トイレの壁に立てかけられたマウンテン・バイクを見つけた。 いまだに自分を追う影の足音が耳に残る草薙は、すぐさま鍵のかかっていないその自転車に跨った。草薙はスマホ片手に器用に運転しながら、電話相手の一言一言を注意深く聞く。 「□△森林道を知っているか?」 「え、ええ」 「じゃあ、多少遠いがそこへ向かうんだ」 「□△森林道ですか? ど、どうしてです」 「そここそが今君が最も助かる場所なんだよ」 「しかし、□△森林道はよっぽど人通りが少ない所で、ちょっとした上りの山場がある……」 「まだ君は理解していないのか。君が今置かれている状況は、他人の助けに期待して求められるような正常な事態ではないんだ。一度止まったら、殺人鬼の刃に襲われる。今はただ一時たりとも立ち止まらず、逃げ続けるしか命が助かる方法がないんだよ。それにはまず身を隠す。その場所こそがこの近辺なら□△森林道で、言わばそこが現在の状況で考え得るベストの身を潜める場所なんだよ!」 「は、はい」 電話相手の語勢に押され、草薙は不信感をも忘れて、一所懸命に自転車を漕いだ。今の草薙の心理状態では正しい思考が働かず、この謎の電話相手こそが自分を救える唯一の人間だとも思えてきた。この人に従えば、この異常な状況から脱せられる、と。実際に後方から追ってきていた何者とは距離が遠のいている気配を草薙は感じた。 だが、やはり草薙にもこの意味不明な状況を知りたい気持ちに駆られているので、スマホ片手に自転車を漕ぎ漕ぎ、電話相手から何らかの情報を聞き出そうとする。 「いや、しかし、あの、あなたは一体誰なんですか?」 「今の時点では詳しい事は言えない。だが、今、君を救う事を出来るただ一人の人間だと思っているし、君を助ける事を自らに課している者だ、とまずは自称しよう」 「は、はあ。そうなんですか。じゃ、じゃあ、僕を追っている殺人鬼とやらは何者なんです? 正直、僕は人に恨まれる、それこそ殺されるほど憎まれるような仕打ちをした記憶はないんですが」 「その点は説明が難しいのだが、敢えて言えば君は奴のゲームに巻き込まれた、というか奴における殺人遊戯のターゲットに不幸にも選ばれたというか……」 「何ですか、それって? ぼ、僕はそいつとは顔見知りではないんでしょ!?」 「私だって詳しい事は分からない。ただ君がその殺人鬼に狙われている情報だけを私は知り得ただけ。それを頼りにせめて君の命を出来る限り救助しようと私は思い立っただけなんでね」 「…………」 不可解な部分が多すぎる電話相手の説明に戸惑う草薙。しかし、それ以上に身元不明の電話相手からの、救う、助ける、の言葉に、草薙の安堵は担保され、むしろその電話相手にこそ信頼を得るようになってきた。奇妙な共犯関係が草薙の中には成立し始めた。 草薙の中では狂気じみたシチュエーションではあるが、シュールにも感じる今の立場に、深読みにも似た思料が浮かんだ。 何者とも知らない存在から僕は疾走して、何者とも知らない存在の助言を聞きながら逃走している、僕。何が何だか分からない構造の中で僕は踊らせられているような状況。何も分からず、何も知らず、僕はもがくように走る、自転車を駆ける。僕の意志とは関係なく、謎の物事が進んでいる。これってまるで僕と社会の関わり具合と同じじゃないか? いや、一般庶民が目に見えない何かに操作されているように、僕の今の状況はまるで大衆と社会の連関性の縮図を体現しているのではないか? 神の見えざる手、ではないけど市場ならず、社会の構図も疑似的に人間たちが企図した計画やアルゴリズムでは解かれないような、何か大きな運命か宿命に捉われている。僕は今、実験的にも個人レベルで複雑化する社会の性向、というか動向というものを実践させられている……まさか、そんな通り魔的に発生した義務、任務、責務を負わされているのかも知れない。殺人鬼に選ばれた、というよりは、僕は選ばれし現代社会の分かり難さを、小市民代表として理解する者なのではないか? 日々、何の生産性もなく建設的な青春、人生を送っていない草薙は、的外れとは自覚していない拡大解釈をもってして、ある意味自分を鼓舞していた。 走れ、タクヤ! セリヌンティウスという名の真実と勝利と正義が待っている! と草薙がイっちゃっているポリシーを持っているかどうかは分からないが、少なくとも自らの疾走の末に成果が待ち受けているという、確信じみた思いはあった。それは精神的な報酬かは分からない。 だが、確実に何かが待っている、という強い気持は抱いていた。 そんな草薙の心理状態も知らず電話相手は草薙に発破をかける意味で叱咤激励する。 「大丈夫か、草薙君。辛いかも知れないが、今は逃げるしかないんだ。まずは奴から離れてから、君の姿を隠しその後に奴の目をくらましたら警察に行く。奴はクレイジーでサイコパスだ。周りの目など気にせず、共倒討ちは元より奴からすれば君を殺す事だけが目的であり全て。脅すわけではないが、奴の殺人衝動意欲と言えばいいのか、それの思いは理解不能の言葉では言い表せない」 「狂人、なんですかね」 「確かに計画的とは思えない相手の行動だ。だが、その計画成就は決まっている」 「僕を殺す事でしょう」 「そうだ。君は今、追われている恐怖感に耐え切れるか?」 「耐え切る、というか逃げ切って奴を遂には捕まえてやりますよ」 「おお、何か急に凄い鼻息が強くなってきたな、草薙君。頼もしく感じて来たぞ」 「何だか不思議な感情なんですけど、驚くとか怖いとかより、苛立ちというか怒りというか、そっちの思いの方が強くなってきてるんです」 「それはなかなか強靭なメンタルだ。この短い時間で直ぐにこの異常な状況に順応している。君は私が想像する以上にタフな若者なのかも知れないな」 「いえ、あなたのアシストがあっての事です」 退屈で気力なのない日常から、急転直下、狂気じみた非日常的な状況に陥ってしまった人間の心理状態は、一般人の普遍的に持つ律というものを変えさせるのか、もしくは狂わせるのか。 草薙は現時下、自らが襲われている異常事態をもはや、それが逍遥する程度の軽い気持ちのように甘受して、まるで当然、必然、否、一つのミッションとして迎え入れ始めた。 僕は奴から逃げ切り、さらには奴を確保するという役目を、必ず達成できる。 そんないまいち理解できない終着点を想定して。 さらには謎の電話相手とのコール・アンド・レスポンスの変化。このような異常な状況だからこそなのか、ある種孤立した位置にある草薙を、唯一サポートしている。明らかに訝しく怪しい顔が見えない電話だけの話し相手なのに、草薙は先ほどまでの疑いを、その電話相手に抱いていない。 ストックホルム症候群という心理学の言葉がある。犯罪に巻き込まれ人質になった人間が、犯人と行動するにつれて、徐々に同調していき仲間意識が芽生えて、信頼関係が築かれていく……という心理過程だが、その意識に近いものか。 第三者から考えればあまりにも信用のおけない、というよりそれ以前の問題として、心許なさや懐疑心が気持ちの方が前に出て、そのような身元不明の相手の指示に恭順して従う、などという事は想像に難い。 だが、草薙にとってはそのような心理論法は通じなくなっていた。 アブノーマルな言葉の下、それに草薙の思考は収斂して、そこから発展して、謎の電話相手の協力と指示による殺人嗜好のある精神異常者の成敗、というこれもまた意味不明な義務を課し、自身の感情を発起させていた。 「□△森林道には順調に進んでいるか?」 「はい」 「体力的には大丈夫かね?」 「ええ、中学や高校とバスケ部でしたんで、体力や脚力には自信があります」 いつしか草薙と謎の電話相手のやり取りは、まるで友達同士で話すようなフランクなノリになっていた。 とうに謎の電話相手が言う、これまた謎の殺人鬼とやらの距離はどうやら大きく離れたようで、気配もなくなっているのだが、草薙はスマホ片手に自転車を疾駆させる。暗闇深き□△森林道に続く道へ。 余程、今走っている道の方が人気もなく危うい状況に傍からすれば見えるが、異様な上気を発している草薙とっては何の疑いもなく、愚直なまでに□△森林道を向かう事を自然な行動としていた。むしろこの遁走、さらには□△森林道に到着する事に生き甲斐に近いものすら感じ始めていた。恐ろしい程の飛躍した発想だが、今起こしている行動こそが自身の存在意義なんだ、とも。 大学に入って以来、否、今の今まで自分の人生に充実感というものを知らなかった草薙拓哉。恋人もいなければ、大学の授業にも関心はなく、最低限卒業の単位を取るだけの受講。何の大学サークルにも属してなく、日がなTVゲームのバグを探す単純反復作業なバイトを繰り返し、グランドオープンのパチスロ店に徹夜で並ぶのが唯一のライフ・ライン。所謂、リア充とは程遠い生活。 それが突如巻き込まれた理解し難いある種の極限状況。それがきっかけとなり草薙は「生」の尊さ、というか生への渇望を知った。一度、重病になった人間が健康のありがたみを知る。一度、飢餓状態になった人間が、食べ物のありがたみを知る。普段は気づかないが、水のありがたみを知る。空気のありがたみを知る。そのような平常時には考えない事柄や、極度のリバウンド経験と似たようなもので、その経験、体験を通過している事が機会となり、果たして草薙が自らの生の意義を見出したのかは分からないが、草薙本人にとっては自らの人生においての、重大なビルドゥングス・ロマン的かつアイデンティティの形成的な位置付けていた。自分史的にはマイルストーンになるべく最重要イベントとして。 草薙の精神と行動は奇態として一致して、常人の考えるそれとは一線を画しているように見えた。謎の電話相手とのやり取りにおいても、草薙の発言は湾曲した内容になり、草薙は妙な熱気をもって例の電話相手に語りかける。 「それにしてもこの自転車で駆ける、というか疾走するというのも何だか示唆的ですね」 「示唆的? どういう事かね」 「何か変に気分が高揚してるからなんですかね。僕自身がこの危機的状況に陥っている事に意味があるのではないか、と思ってきたんです」 「ほう、その本意(ほい)は?」 「僕は今、この現代社会の問題を全身で抱えているような、そう、イエスが人類の原罪を背負ったように、僕がこの奇怪すぎる、言わば通過儀礼か使命のような行為をしている事によって、世界の仕組みの体現をしているような感覚になっているんです。ランナーズ・ハイとは違うと思うんですけど、それでもアドレナリンとかが必要以上に分泌してるんですからなのか。僕っておかしな事を言ってるんですかね?」 「いや、その君の心理は理解できるよ。まさしく君は今、伝説になりつつあるんだ」 「やはり同調してくれますか」 「ああ、勿論」 「良かった。やっぱりあなたは僕の理解者だったんだ」 「当然だろう。だからこそ私は君を救いたいんだ」 「そうですよね。だけど、ただ一つ不安に思う事があるんです」 「何かね?」 「僕は今、現代社会を、その縮図を自らに課してこの試練と向き合ってると声を大にして言いたいのですが、この僕が今進めている疾走行為が、無名の一般庶民が失踪していつの間にか社会から抹殺されてる理由の可否のない脅威と予感も抱いてるんですよ」 「何やら哲学的な解釈をしているようだね」 「いえ、そんな高尚な精神的営為ではないのですが、確か失踪者、つまり、行方不明者って年間で八万人ぐらいいるって聞いた事があるんです。僕はその問題も包摂して全てを具現化しているのではないか、とも」 「成程、なかなか深意が濃く、その問題に答える自信が私にはないな」 「いえいえ、イイんです。僕がちょっと大きく考えすぎちゃって、妙な事を言ってるだけなんですから。多分、僕の気持ちが発奮してるから余計な憂慮をしているだけなんです。実際には今自転車を駆けている逃走、いえ、疾走しきる事は奴を出し抜く、それは勝負に勝つという風に考え始めましたから。逃げているんじゃない、僕は奴と勝負しているんだ。もうすぐ□△森林道に着きます。そうなったら僕の勝ちなんですよね。奴は僕を見失い、奴こそが失踪者になる。そうですよね。僕は勝ちたい」 「素晴らしい。完全に草薙君は覚醒している。そうだよ。この危険なゲームは、まさしく奴の思い通りにさせないが為の激走、いやさ、聖戦なんだ。草薙君、君こそが真の勝者であり勇者になるのだ」 「はい、僕は駆け抜けます!」 予々(かねがね)、危ういドーパミンが発生している草薙の脳内。自身の語っている事にどれだけ自分の考えを整理して合点しているのかは分からないが、謎の電話相手、いや、既に依拠すべきパートナー程にもなっているような、匿名かつ見知り合ってない仲の話し相手は、草薙の突飛とも思える発言にも丁寧に肯定して答える。まるで提灯持ちのように。 そんな電話相手の胡散臭い精励もあってか、草薙は快調に自転車を疾(と)ばして夜の道を走る。ちょうど具合の良い有酸素運動がてらにまるで自転車を漕ぐ草薙は、舌もよろしく滑らかに、 「もうすぐですよ。もうすぐ□△森林道の入り口です」 「ああ、順調だね」 「あなたのお蔭ですよ。僕の命が救われるのは」 「いや、君の頑張りこそがこの作戦を結実させたんだよ」 「恐縮です」 「そんな事ないっすよ」 「…………?」 一瞬、電話相手の喋り方がタメ口調に変わった。 すると電話相手は今まで話していたような口振りではない、動揺した発語で、 「あ、いや、目的地まで気を許さないでくれたまえ」 「は、はあ」 曖昧に相槌を打った草薙ではあるが、先ほどの一言をしてどこかで聞いた声ではないか? と思った。 さらにどうも車の走る音が電話相手の方から漏れてきて、救急車のサイレンの音や大型トラックが通り過ぎるような音も、草薙の耳に入って来た。 相手は自動車に乗っている? 草薙は電話相手の状況をそう推し量ってみた。だが、すぐに今行っている自転車を漕ぐ事に集中し直して、相手の状況を鑑みる事をやめた。 齟齬だけが残る自分勝手な大義を背負った草薙の自転車は駆け抜ける。小明(あかり)から断たれた暗なる行路を抜ける。 そして、遂に□△森林道に着いた。 草薙は声を弾ませてスマホに語り掛ける。 「着きました。やっと森林道に着きましたよ!」 「よし、見事だ」 「これからどうします?」 「しばらくそのまま道を走るんだ。そのまま私が隠れるべき場所への指示の案内をするから」 「分かりました」 草薙は馬鹿正直に電話相手の指示に従い、辻の分かれ道やワインディングもそこそこな暗がりの林道を走る。月の光だけが轍を刻む唯一の処方。 「もうすぐだ」 「はい」 電話相手の何気ない一言に、一も二もなく返事する草薙。 しかし、一瞬、草薙は妙な居心地の悪さを覚えた。 何故、相手は、もうすぐ、だという事が分かるのか? という点だった。 最初は森林道に入ったこと自体を、もうすぐ目的地に着くという意味で草薙は解釈していたが、こちら側からは恐らく目安になろう位置確認のポイントは報告してなく、実際にただ自転車で走っているだけで、何らかの看板やベンチや大きな岩場などの目印的物体は存在しない。草薙を囲む雑林に泥地気味の路だけで、報告すべき何某かの目処がない。だから自分が何処まで、その最終目的地に着くかの距離は電話相手には分からないはず。ただ盲目的に、もうすぐだ、というだけで、電話相手はまるで草薙の移動のそれを分かってるように繰り言する。 そんな疑問を草薙が抱いた時だった。 突然、横の草むらから何者かが飛び出してきたのは。 「うわっ!」 ガサガサ……バコっ! 妙な擬音だけが草薙の耳に入り込み、それ以降の草薙の意識はしばらく途絶えた。
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