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 翌日にはすっかり熱も下がり、私はいつも通り店に出た。いつも通りを装って、悠ちゃんとオープン前の準備をする。そう意識している時点で全くいつも通りではないのだけど、とにかく平然を繕う。  島に来たばかりの頃とは状況の異なるぎこちなさに内心うなされる中、 「来週のカフェライブなんだけど」  由紀子姉さんが、私たちに声をかけた。  私がこの夏、小豆島で過ごすことを決めた最大の理由。  それは、敬愛するミュージシャンの弾き語りカフェライブがこの店で開催される、というところにあった。  テーブルに大きなスケッチブックを広げ、ステージや客席の配置を三人で模索する。カフェライブって初めてだ。どんなライブになるんだろう。お客さんはどういう風に楽しむんだろう。私が大好きなあの曲は演奏されるのだろうか。そう想像するだけで胸が弾んでくる。 「まあだいたい配置はこんな感じかな」  由紀子姉さんがざっくりとしたレイアウトをスケッチブックに描いた。紙の白が、午前の陽光に照らされきらりと光り、由紀子姉さんの配置図まで輝かせている。その構図を頭の中で組み立てていると、「あ、悠ちゃん。ちょっと食材運ぶの手伝ってもらえる?」由紀子姉さんはそう思い出したように席を立ち上がり、悠ちゃんとともにキッチンへ去っていった。  私はスケッチブックの上で、すらすらと鉛筆を動かしていた。客席に座る動物たち。踊るように泳ぐ魚の群れ。楽しくなった時のクセみたいなもので、こういったささやかな落書きをするのが幼い頃から好きだった。 「わぁ、かわいい……」  いつの間にか戻ってきた悠ちゃんが、じっと私の手元を見つめる。 「葵ちゃん、うまいね」 「え、あはは……。昔から、よくノートとか教科書の隅に落書きしてて」  動物とか、海の生き物とか、そんなものをよく描いていた。教室で友だちとはしゃぐようなタイプではなかったし、きっかけは暇つぶしのひとつだった。 「そうだ。ライブのポスター描いてみたらどう?」  背中から声がして、振り返ると由紀子姉さんがスケッチブックを覗き込んでいた。 「えぇ、いや……、そんな大したもの描けないよ」 「そうかしら。すごく素敵だけど」  姉さんがじっと絵を見つめる。うんうん、と悠ちゃんが頷いている。  私はおそるおそるスケッチブックをめくり、新しいページに、パッと浮かんだイメージを描いてみた。  海の底でギターを奏でる、人の格好をしたシロクマの絵。描いている途中、「わぁ」とか「ほぉ」とか、ふたりの息を潜めた感嘆の声が耳に届き、頬骨をむくむくと高くさせてしまう。  誰に見せるでもなく、ひとりでこっそり描いてきたこの絵を、こんな風に見せたのは初めてだった。絵を描くことはずっと好きだった。だから、褒めてもらったことが素直に嬉しくて、嬉しすぎて、私は「ふぅ、ふぅ、」と興奮した呼吸を抑えきれないまま立ち上り、 「……描いてみたい、です」  そう、口走っていた。えんぴつを握ったままのこぶしに、ぎゅっと力をこめる。イメージは何となく固まっている。でもこれまで落書き程度でしか描いたことない。ふたりが期待するような絵になるかわからない。でも、描きたい。姉さんと悠ちゃんは朗らかに笑い頷いてくれた。  私は、挑戦することを決意した。  定休日がくるとポスターの制作を始めた。鉛筆で下書きを描いては納得いかず消し、また書き直す、ということを何度も繰り返した。こんなにきちんと描くのは初めてで、下書きだというのに手のひらに汗が滲んでくる。  それからバイトが終わればすぐにうちに帰り筆をとった。下書きが完成すると、商店街の文房具屋で道具を買い揃え、着色は水彩絵の具を用いることにした。  実際に色をのせてみると、頭の中のイメージと微妙なギャップが生じたりして、薄めたり他の色を足したりしているうちにごちゃごちゃになって、着色作業においても幾度もやり直しを重ねた。  無理だ! と自暴自棄になり破り捨てそうになることもあったけど、しかし、浮かぶあの笑い顔が筆を握り直させ、毎日一筆一色と真摯に向き合った。   * 「できました…!」  ライブ当日。絵の具の落としきれていない手で、一枚の用紙をそっとテーブルに置いた。ギリギリまで着色の調整をして、さっきまで必死にうちわを扇ぎ、完成してポスターを乾かしていた。  ポスターを囲むようにして、悠ちゃんと由紀子姉さんがじっと見つめている。私は両方の黒目を精一杯右に寄せ、どきどきしながら悠ちゃんの横顔を盗み見た。 「すごい、絵が、息をしてるみたい」  悠ちゃんが絵を見つめたまま言った。 「やわらかい色みとかも葵ちゃんっぽいっね。淡くて遠い夢みたいな、ちょっと不思議な感じ」  悠ちゃんが目を細めて笑う。嬉しさが、際限なく溢れて止まらない。でも嬉しいのにうまく笑えない。気を抜くと、無差別級に顔がにやけてしまうのが恥ずかしくて、もぞもぞと口の端を引き締め「ありがとう」、そうお礼を言った。  その時ドアの開く音がして、彼がやってきた。 「今日はよろしくお願いします」  丁寧に頭を下げるロックスターに、背骨にぴゅんっと緊張が走る。横目で見た悠ちゃんの顔もほんのり強張っていることに気づくと、少しだけ肩の力がゆるんだ。「こんなに近くで見たの初めて」「私も。かっこいいね」そんなことをひそひそ話しながら、私たちは由紀子姉さんに従い準備の手伝いをした。    *  窓の外は夜の色が広がり、店の中は満員のお客さんが心をそわつかせている。  店のレトロな時計の針が19時ちょうどを指す。  店内の明かりが一気に消え、間接照明だけが灯る。彼が登場すると、一斉に大きな拍手が沸き起こり、カフェライブは幕を開けた。  店の隅っこに椅子を並べ、私と悠ちゃんも音楽に体を揺らす。アコースティックアレンジで演奏される曲たち。アコギのあたたかい音色とともに紡がれるまっすぐな歌声には、より生々しい情感が込められていて、直接心に触れられたみたいにどきどきした。  ある曲のイントロで、「わっ」と思わず小さな声が漏れた。慌てて両手で口元を覆う。一番好きな曲だ!  ぶるぶると身を震わせていると、隣の悠ちゃんが、ぐっと親指を立て頷いた。ふふ、とひそやかな微笑みがふたりだけの間に漂う。  ロックスターが夏の終わりの切なさを歌いあげる。大好きな曲が、胸の中でより特別に鳴り響き続ける。ずっとこの夜のままでいたいな。この甘く懐かしいような気持ちを、いつまでも感じていたい。    終演後、私たちは直接感想を伝えさせてもらった。言葉が詰まってうまく話せなかったけれど、「ありがとう」とお辞儀を返してもらって、悠ちゃんときゃあきゃあ喜んだ。 「あのポスター、素敵だね」  彼が壁に向かって指差す。どきん、と心臓が大きくバウンドする。 「あ、ありがとうございます」 「君が描いたの?」  ぎこちなく頷くと、すごいね! と彼が驚いたような顔をした。動揺して、声もどもってうまく返事ができなかった。SNSに投稿してもいいかと訊かれたときは耳を疑った。「はい!」と悠ちゃんが元気いっぱい返事をした。  楽器の撤収が済むと、ロックスター一行はまた丁寧に頭を下げ店を去っていった。 「葵ちゃんの絵はやっぱりすごいんだよ!」 「すごく、嬉しかった……」 「良かったわね。それじゃあ、花火やろうか」  え、と振り返ると、花火セットを両手いっぱいに抱えた由紀子姉さんが、にこりとした。   *  夜の海辺には、月明かりとふたりぶんの花火だけが光を灯している。ぱちぱち音を立て弾ける花火を空に掲げ、彼女に向かってぶんぶんと大きく振ると、遠くで煙草を吹かす由紀子姉さんが手を振り返してくれた。 「もう投稿されてるかなぁ」  私の花火がちょうど消えたとき、悠ちゃんが言った。私たちはさっきから彼のインスタグラムを開いては閉じてを繰り返していた。 「実際こういうのって、どういうタイミングであげるんだろうね」 「今頃何してるのかなぁ〜。打ち上げ? ビール?」 「明日も朝から高松でラジオの収録あるって言ってたし、もう休んでるんじゃない?」  などとおしゃべりをしながら、悠ちゃんが再びインスタを開いた。 「あ」  私たちは、ほぼ同時に顔を見合った。 “ありがとう、楽しかった。”というコメントとともに、写真はポストされていた。写真にはたくさんの「いいね!」が押されている。悠ちゃんは瞬時にいいねのハートマークを押すと、ゆっくり画面をスクロールさせた。絵に対する好意的なコメントも何件かあった。「すごいすごい!」と言いながら、悠ちゃんは人のコメントにも躊躇なくいいねを押している。 「悠ちゃん」  熱心に画面に目を凝らす悠ちゃんに、私は言った。鼓動は続けざまに音を刻んでいる。 「あのね」 「うん」 「私ね」 「うんうん」 「……絵の勉強、してみようかなって思ってる」  ここ数日、ずっと考えていたことだった。  無心に絵を描いている時間は、脳みそが熱くたぎっていくような高揚感があった。それに、もっとこう描きたいと思ってもなかなかうまく表現できず、そのたびに悔しい思いをした。 「もっと、ちゃんと描いてみたいんだ」  彼の投稿と、それに悠ちゃんの喜ぶ顔が、最後の最後に背中を押してくれた。  うん、と悠ちゃんがサイダーみたいに弾けた笑顔を見せてくれた。かわいいな、と思う。どく、とまた心臓が静かに動く。  それからまた花火を光らせた。私は火を灯すついでのように、「悠ちゃんって男の人と女の人、どっちが好きなの?」とか、馬鹿なふりをして訊いてみようかと思ったけれど、やっぱりそうは言えなくて、 「悠ちゃんは、恋人とかいるの? モテそうだよね〜」  と軽やかな口調を意識して、訊いてみた。それだけで口の中がカラカラだ。胸の真ん中はずっと熱くて、鼓動の音は高くうるさい。 「恋人は、いたことないんだぁ」 「そっか」 「いい人だな、って思ったことはあっても、好きかって言われると、あんまりピンとこなくて」 「じゃあ……、どんな人がタイプなの?」 「んん〜。きっと、好きになった人が好き!」  そういう曖昧なやついらないんだけどな、と勝手に気持ちが青く荒み、「あぁそう」とつれない返事をしてしまった。 「やっぱりね、僕自身がはっきりと、この人は“特別”だ! って心からビビッときた人と、お付き合いしたいなって思うよ」  ふふ、と悠ちゃんが微笑む。  とてもやわらかな言い方だけど、明確で芯のある響きを感じた。  こういうところは、やっぱり男らしいのだなと思う。  悠ちゃんの“特別”になれるのはどんな人なんだろう。  ぱちぱち輝く花火が、悠ちゃんの横顔をきれいに光らせている。  かっこいい人? かわいい人? 男らしい人? 女の子らしい人?  訊いてみたいけど、訊くのが怖い。  でも、それでもやっぱり知りたいよ。もっと近づきたいって思う。  ねぇ、おしえて。  女の子らしい男の子の、悠ちゃん。

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