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 午前10時5分。窓から差し込む夏の陽が、店内を白く照らしている。首筋にじんわり汗が噴き出すのを感じながら、耳に入ってくるあやふやなメロディの鼻歌に、私は少しイライラしていた。 「ゆうちゃん、そろそろ買い出し行かないと」 「待ってー。まだ日焼け止め塗ってない」  悠ちゃんはもうすぐ肩につくくらい伸びた髪をひとつに束ね、その真っ白なうなじにのんびりクリームを伸ばしている。ヘアゴムについている宝石を模した女の子らしい飾りが、陽の光を受けてきらりと光る。  私は聞こえない程度の音量で、小さく息を吐いた。店の開店時間まであと1時間を切っている。 「大丈夫だよ、あおいちゃん。スーパーまでの近道、教えてあげる」  そう甘ったるい声で言い、悠ちゃんはにっこりと笑った。  令和元年。  17歳、夏。  残りの一ヶ月、果たしてこの子とふたりでうまくやっていけるだろうか……。と、私は早々に雲行きのあやしさを感じていた。 ――ことの発端は、一ヶ月ほど前のことだった。 「夏休み、小豆島しょうどしま行ってこない?」  居間のソファでだらりと寝転びスマホをいじっていた時、そういった声がキッチンから聞こえてきた。「えぇ……」私はスマホから目を離さないまま、しかしはっきりと否定をこめた声色で母に返した。 「ほら、由紀子ゆきこが小豆島でカフェを始めたって話したでしょう」 「あぁ、古民家カフェだっけ」  由紀子、というのは母親の妹だ。彼女は昔から旅を愛する人で、関東に身を置きながら、暇さえあれば都会から田舎まで様々渡り歩いていたのだけど、いよいよ数年前、ひとり小豆島に引っ越しをした。さらに今年の春先には古民家を改装し、長年密かに夢見ていたという“田舎でカフェ開業”を実現させたのだ。お店の名前は『アンテナ』。由紀子姉さんが好きなミュージシャンのアルバム名からとったらしい。  私は、幼い頃からよく由紀子姉さんの真似をしていた覚えがある。  由紀子姉さんと母は随分歳の差がある姉妹で(たしか10歳近く離れているはずだ)、ひとりっ子の私にとっては、叔母さんというよりも姉のような存在だった。  頻繁に会っていたわけではないけれど、でも子どもながらに、由紀子姉さんにはいつも“独特の空気感”みたいなものを感じていた。私はそれに鮮烈に惹かれていて、彼女が身につけているものは全ておしゃれに思えたし、本を読んでいる姿を見かければこっそりタイトルをメモし、真似して読んだ。とくに、イヤホンをさして音楽を聴く横顔はいっそう大人びて見えて、よく片耳をおねだりしては一緒に聴かせてもらった。その音楽たちは、いつも鼓膜の奥で心地よく響いたものだ。  そういったわけで、私の趣味、とくに本や音楽の好みは由紀子姉さんの影響を受けている部分も多い。小学生の頃プレゼントしてもらった『空の飛び方』というスピッツの名盤は、私のバイブルのようなアルバムだ。  「これまでバイトの子とふたりでやりくりしてたけど、夏休みの一ヶ月間だけもうひとり雇いたいんだって。それで葵はどうかって言っちゃった」  洗い物を終えリビングに移動してきた母の声で、由紀子姉さんの回想は途切れた。  はぁ? と思った。思っただけでなく、そのまま口からこぼれた。 「ちょっと、言っちゃったって……」 「うん」 「いや、うんじゃないし。え、由紀子姉さんは何て?」 「『葵ちゃんが良いならぜひ』って」  ううん、と語尾をぼやかして返事をした。もしこれが、まったく赤の他人の店を手伝うというのならば、私は即断っていたし、母にもキレていただろう。  私は、はっきり言って大変人見知りな性格だ。三人で営業するとなるともうひとりの子ともそれなりに関わらなければならないだろう。知らない土地で、しかも初対面の人と一ヶ月近く共同作業をするというのはハードルが高い。巨人の侵入を阻むための壁くらいはるか高い(これは漫画の話でのたとえである)。  しかし一方で、由紀子姉さんがずっと心を焦がし続け、ようやく完成させた店、というものには強烈な興味をかき立てられた。   そうして、やれんのか自分……という自問自答の繰り返しと、さらに由紀子姉さんとの電話相談の結果、満を持して、私は東京を離れ手伝いに行くことを決めたのだった。  悠ちゃんの言う近道を駆使し、無事牛乳とハムを買って店に戻り、急いで開店の準備をする。  『アンテナ』は全部で17席。キッチンを由紀子姉さん、フロアは私と悠ちゃんが担当している。海沿いの、昔ながらの風情ある家が軒を連ねる中に、この店はひっそりと佇んでいる。午前11時オープン。風が涼しくなり始める18時を境にカフェはバーに変わる。そのタイミングで私と悠ちゃんはバイトを上がるので、店には由紀子姉さんのみになるのだが、夜は昼間ほど忙しくないらしく、今のところひとりで店に立っているみたいだ。  店内は、由紀子姉さんのセンスで装飾されている。旅先で購入したという何ものとも言い表しがたい、不思議でノスタルジックな置物たちや、ほとんど春樹とカフカと焚き火の本しかない本棚、変な生き物(動物かもしれない)が描かれた絵など。この素敵な店を私はもちろんすぐに気に入った。  そういったサブカル的インテリアと、島の野菜をふんだんに使った12種類のおかずが彩るランチプレートが若い女性にうけ、その評判は口コミやSNSで徐々に広がり、私たちはそこそこ忙しく働いている。  バイトの経験はあったけれど、飲食店での接客業は初めてで、その初めて経験することのほとんどを悠ちゃんに教わった。  悠ちゃんに初めましての挨拶をした初日のことを思い返すと、ゔ、と心の隅で何か鈍いものがうごめく。  私たちが同い年だと分かった瞬間、悠ちゃんはぱぁっと目を見開き、 「嬉しいっ。楽しい夏休みになりそうだね! よろしく!」  そうかわいらしい声で言葉を放ち、ぺかーと発光するように笑った。ゔ、と後ずさりそうになる自分の気持ちに共鳴するように、テーブルに置いていたスマホのバイブが鳴った。悠ちゃんから目を逸らしスマホを手に取ると、 「うわ〜! ロック画面すごくおしゃれ! これなんのやつ? かわいいね!」  そう勝手に画面を覗き込んでくるこの子が、私は苦手だと思った。    *  定休日、初めてのドライブ。  窓の外を流れる景色は、当たり前だけど東京とはまったく別物で、新鮮なものに触れるときの素直な興奮があった。 「窓開けてみて。いいにおいするよ」隣でハンドルを握る由紀子姉さんが言った。全開にした窓からは、蒸れた植物の香りと海風のにおいがふわりと滑り込んできて、鼻腔の奥をくすぐったくする。  街には高い建物がなく、どこまでも広い群青色の空は眩しく光っている。植物のつるが生い茂る廃墟に近い退廃的な建物もあれば、学校(おそらく高校だろう)はけっこうモダンなつくりだったり、新しいものと古いものが同時に存在している景色はどこか非現実的で、不思議な情緒があった。  ドライブを楽しみながら、私たちは今、『瀬戸内せとうち国際芸術祭』のアート作品を巡っているところだ。それは島のあちこちに、様々なジャンルの芸術作品が展開される、三年に一度の祭典で、私が小豆島滞在に心惹かれた理由のひとつでもある。  先ほど拝見した『小豆島の恋』という作品は、なんと全て竹で作られた巨大ドームで、大きさは立派な一軒家ほどもあった。中に足を踏み入れると、竹と竹の間のかすかな隙間から真っ白に澄んだ光が透けていて、幻想的な空間演出も相まって、何だか神聖なものがとっぷりと胸に注がれていくような清らかさを感じた。 「オリーブ公園も行ってみよう。芸術祭の展示はないけど、綺麗な場所よ」  ぐんぐんとハンドルを切り、由紀子姉さんが丘に続くゆるやかな坂道を上っていく。もちろんオリーブ公園もネットで検索済みで、行きたいと思っていた場所だったので私は元気に頷いた。  バタン、と助手席のドアを閉め車から降りると、頬を撫でる風が少しひんやりしていることに気づく。小高い丘に敷地を広げるその公園は、濃く明るい緑色のオリーブの木がいっぱいに生い茂っていて、広大な瀬戸内海せとないかいも見渡すことができた。  平日だからか人はまばらで、心地のよい静けさの中、風が揺れる音まで聞こえてくるみたいだ。すぅーっと肺いっぱいに空気を吸い込む。体の中が浄化される感じがして、ラジオ体操ばりに何度も深呼吸をしていると、「こっちー」と由紀子姉さんに呼ばれ、慌てて彼女が手招くほうへ向かった。  緑の道を抜けた先には、外国の童話に出てきそうなかわいらしい白の風車があった。 「ギリシャ風車。かわいいでしょう」 「うん。何か、絵本に出てきそう」  ギリシャ風車、と洋風な名前がつけられているけれど、それはとても小豆島に似合っていた。抜けるほど青い空と、空と繋がりそうな青い海と、オリーブの緑の中にたたずむ白色の風車、という景色は、立派な額縁で切り取ってそのまま東京に持ち帰りたいと思うくらい心を落ち着かせるものがある。額縁の代わりにスマホを構え、私はまた一枚、小豆島の景色をおさめた。  それからまた島を巡り、豊かな自然と芸術祭の作品を思うままに堪能していると、気づけば陽は暮れ、初めての休日はあっという間に終わりを迎えた。  うちに帰るとふたりでぱっと支度をして、素麺の準備をした。テーブルに素麺と麦茶を並べ、手を合わせる。冷たい麺がつるつると喉を通っていき、火照った体の熱を逃がしていく。 「悠ちゃんとは、どう?」  夢中になって麺をすすっていると、ねぎをまぶすついでみたいに由紀子姉さんがさらりと訊いてきた。 「うん。よく教わってるよ」 「友だちになった?」 「ううん、んー……」 「なあに、それ」  由紀子姉さんがおかしそうに笑っている。ゔ、とまた鉛のようなものが胸の底で震える。 「多分、まだ……」 「あらあ、そう。きっと仲良くなれると思うんだけど」  むふふ、と微笑む姉さんに、何を根拠に……と気が重たくなる。  悠ちゃんは天真爛漫てんしんらんまんを絵に描いたような子で、いつもくるくる表情を変え眩しく笑う。あまりに眩しく。それは、誰かにとっては癒し、とかそういったものかもしれない。けれど私にとっては、ああいうあまりに強い輝きはただ心を緊張させてしまうだけだった。内気で口べたな私にとって、まるで心のありようをそのまま表現できる悠ちゃんは、ある種の恐怖でもあった。それは未知のものに触れる恐ろしさみたいなもので、悪い子ではないと理解していても、あのまっすぐな瞳で見つめられると、心を見透かされてしまいそうで怖い。自分の根の暗さが、よりくっきりふち取られるみたいで怖い。そういう感覚。だからどうしても防御したくなり、それが結果的に、避けるようなかたちになってしまっている。  とは言え、この夏が終わるまではあの子と仕事をともにしなくてはいけないのだ。ゔ、を押し込むように一気に素麺をすすり、麦茶で無理やりお腹の底に流し込んだ。

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