――ジーンズとスニーカー、長袖Tシャツ。 私は貧乏大学生で、所謂ファッションというものには関心が無い。 ――セミロングに揃えた髪と、もはや顔の一部と化してしまったメガネ。 だから彼氏もいないし、というか縁が無い。 ――今夜の夕食が入った買い物帰りのエコバック。 食事は出来る限り自炊で賄う。これが一番、経済的だ。 ――中古レコード屋のロゴが入った黒い手提げ袋。 私の唯一の趣味であり、贅沢であり、友人への土産でもある。 ――夕暮れの街を漂う、何処か懐かしい郷愁という名の空気感。 私という平凡な毎日を流されるように生きている人間を切り取った、何気ない風景の一つ。 ――夕焼けの、高くなった初秋の空を優雅に泳いでゆく大きなクジラ。 これも私以外の人間の、共通した当たり前の光景。 この世界の全ての人類は、クジラは海にもいるが、空にもいると思っている。 これは最近出来た「常識」だ。 世界と云うものは絶えず変化してゆく生き物のようなモノだけれど、さすがにクジラが空を飛ぶのは余りにも非常識すぎる。 私は一年前の今頃、神様を拾った。それからというもの、私だけが世の常識というものの外にいる。 『君は羊の全部』 「おかえり、貴路」 玄関を開けると友人がシャツにノーブラ、パンツ姿で出迎えてくれた。 猫間 貴路というのが私の名前なのだが、この名字も名前も好きではない。理由は特に無い。強いて挙げるなら、語感が可愛くないというのが理由だ。 「あのなぁ、そういう格好で家の中をうろつくなって言っても、本当に聞き分けないよなお前は!」 「だって暑っちいのですよ」 この自由人が花屋敷 薄桃。歳は私と同じくらい。彼女は神様だという。 彼女が死ねば、この世界そのものが消えて無くなる。というより、始めから存在しなかったという結果になるらしい。 俄には信じがたいが、空を飛ぶクジラも、水溜りの中のもう一つの世界も、花屋敷 薄桃が私の目の前で創ってみせたので、とりあえず私は彼女の言葉を信じることにした。 他にも数々の奇跡を披露してくれたから、彼女を神だと思い込むことで自分の中の常識と非常識に何とか折り合いをつけているのかもしれない。 とかく、この世は不思議で溢れているものだ。 「今日の御飯は何かなー」 薄桃が私の顔を嬉しそうに覗き込んでくる。 サラサラに流れる髪、白い肌、細い眉も長い睫毛も、その下の大きく澄んだ瞳も……あー、もう言いたかないが美少女というやつだ。まぁ、神様が私みたいに平凡な顔立ちではらしくないとは思うけども。 「今日は焼き鮭とアサリの味噌汁、カボチャの煮つけ、サヤダイコンの炒めもの……」 「ほうほう」 薄桃はいつも御飯の献立を目を輝かせながら聞く。神様からしたら珍しい料理……なのだろうか。 本当はサンマの塩焼きの予定だったのだが、今年は漁獲量が過去最低ということで、身が小さいわりに値段がお高いので控えた。 庶民の食卓事情も変わってゆく。今年の私が去年の私と違うように。 アパートで一人食事をしていた頃と比べると、今は料理をするのが楽しいと思えるようになった。やはり食べてくれる人がいると張り合いが違う。 隣の部屋から「カム・トギャザー」が聴こえてきた。 「ボリューム、少し絞りなさいよ」 薄桃が今日買ってきたレコードをかけたのだ。これは彼女のために買ってきたようなものだったから、勝手に聴かれても構わない。 私自身、ビートルズは高校生のときに一通りCDで聴いていて、ほとんどの曲は知っている。ただ、LPレコードでは持っていなかったし、ジャケットも大きなサイズで欲しかったから、少しずつ集めているのだ。 横断歩道を渡るメンバーたちのジャケットで有名な名盤『アビイ・ロード』が世に出て五十年目を迎えた年に、人類史上最大の台風が日本列島を襲った。 その怪物は静岡県伊豆半島に上陸し、関東地方から東北にかけて大きな爪痕を残した後、三陸沖あたりで温帯低気圧に変わり、ベーリング海で姿を消した。 私の住んでいる町は被害らしい被害は出なかったが、それは偶然なのだろう。単に運が良かったのだ。 結局、人間はどうしたって自然と云うモンスターには敵わないのだと思い知らされた今回の大災害。 夜、灯りが点いて、温かい食事が食べれて、安心して眠れることはとても特別なことなのだと改めて思い知った。 人間と云うのはかなりいい加減だ。こんな惨状を目の当たりにしないと、今ある幸せにも気がつけない。私自身もその内の一人で、何処を切っても普通の愚かで鈍い人間である。 「御飯できたから、運ぶの手伝って」 ラストナンバーである「ジ・エンド」を聴きながら、二人でレコード・プレイヤーが置いてある部屋まで皿を運ぶ。 私の住んでいる部屋にはテレビが無い。以前、NHKのしつこい受信料の取り立てに辟易して、テレビをリサイクルショップに売ってしまったのだ。 薄桃とシェアしてからは、二人で会話しながら食事をするのが日課になっている。 音楽が終わって数十秒の無音の後に「ハー・マジェスティー」が流れて、このアルバムは終わる。 ワインをたくさん飲んで酔っ払わなきゃ、女王陛下を褒めるのは難しい。とか、そんな内容の詞が可笑しいポール・マッカートニーの小品だ。世界最初のシークレット・トラックでもあるらしい。 これはメンバーの意図するところではなくて、エンジニアがボツ曲のデモテープを勘違いして入れてしまった偶然の産物ということだ。おかげで緊張感漂うアルバムB面の最後を、適度にらしく緩和させる効果を生んでいる。 レコードを聴く限りでは、ビートルズは最後まで彼ららしさを見失わなかったのではないだろうか。 「だったら、このアルバムは奇跡だね」 薄桃がいただきますの後、夕食に手をつけながら言った。 「前にも言ったけどさ、奇跡は人が起こすものなの」 私は台風十九号が去った後に、「神様なら災害をどうにか出来なかったのか」と無責任に薄桃を責めた。そのときに「神様は想像して創造するだけ。奇跡は人が起こすものだよ」と薄桃から言われて、「神様ってアテにならないんだね」などと偉そうな言葉を吐いた。同時に自分では何もしないくせにと、私は私を軽蔑したものだ。 「例えばビートルズというバンド。彼らは奇跡の感染源なのさ。メンバーはただ純粋に音楽を作っていただけだよね。そして同時代にいたミュージシャンたちが彼らに影響を受けて、いくつも奇跡のようなアルバムを生み出した。意識的にしろ、無意識的にしろね」 薄桃が何かを語りだすと長いので適当に聞き流す。音楽に奇跡という概念を考えながら聴いている人はいないだろう。 私は焼き鮭の身に付いている小骨を避けながら、温かい秋の風味を御飯と一緒に噛みしめる。 「あの時代、あの場所で、ビートルズというバンドが偶然生まれたことが重要なんだ。遅すぎても早すぎても、またメンバーやプロデューサー誰一人欠けても英国ロックのビッグバンは起こらなかった。起こったとしても、ブームのベクトルは同じ方向へは向かわなかっただろう」 「まぁ、サージェントペパーシンドロームという言葉もありますしね」 私は適当な言葉を選んで会話が成立しているように振る舞う。ああ、お味噌汁美味しい。 「つまり私が何を云いたいかというとね。奇跡は感染源があって、伝染するということなんだ」 薄桃は興味深い話題は饒舌になる。神様はビートルズが大層お気に入りらしい。 「名盤は作ろうと思って作れるものではない?」 そういえば「奇跡の一枚」なんて言葉もあったっけ。 「その通りさ。奇跡はね、人が生み出すものなんだ。神様はキッカケを与えるだけなのさ。逆に言えば、ソレしかできない」 名盤『アビイロード』を聴いて、薄桃は食事も忘れて興奮している。語るか食べるか。どっちかにしてほしい。 「奇跡は日常の中で毎日起こっている。人がそれに気づかないだけ――なんでしょ?」 それが彼女の口癖で、私はもう何遍も耳にしている。 「それよりも早く御飯を食べちゃってよ。片付かないからさ」 薄桃は慌てて箸を忙しなく動かす。 神様らしくない神様。創造するだけで、何もしない神様。 薄桃は変わっている。神様のくせに妙に人間らしいというか、だから私は時々彼女が神様であることを忘れて接してしまう。 「ごちそうさまでした」 「お粗末様」 私が料理を作って、薄桃が洗い物を片付けるというのが二人の決まりだ。その間に私は風呂に入ってリラックスをする。 十月ももう半ばだというのに、残暑の陽炎が所々にまだ残っている。 私は泡だらけの体をシャワーで洗い流してから、狭い湯船に浸かって震えた。 高校生の頃、私は周囲の生徒たちに比べて大人だと思っていた。 同じクラスの女生徒に憧れて、洋楽を聴くようになったのも彼女の影響だ。 彼女は美しい外見をしていたが、いつも教室で独りだった。馴れ合わない凛とした態度に、その精神の孤高さに、私は憧れたのだ。 でも、彼女は私が想像していたような強い人間ではなかった。むしろ彼女は特定の男子に依存してしまうような弱い人間だったのだ。 私は高校生活の中で、彼女にキツく接した。本当は仲良くなりたかったのだけど、どうしても無理だった。 彼女は悪くない。私が狭量だったのだ。 彼女に一言謝りたい。それがずっと気にかかっている。 「またツイッター? 好きな人をフォローしてんだっけ?」 「……好きだった人だよ」 私が高校時代に好きになった人は、出会った時点で既に付き合っている彼女がいた。だから私の初恋は告白も儘ならないまま終わったのだけど、きっと、だからそのせいで自分の心に決着がつかないまま、宙ぶらりんになってしまっているのだ。 彼は華奢で透明で、およそ男性らしさという記号に欠けた人であったが、いい加減なところが少し薄桃に似ている。およそSNSなんてやらないような人だったのだけど、いつも一緒にいた彼女の影響が彼を変えていったのかもしれない。 「それ、いい加減やめなよー。ストーカーみたいだよ」 薄桃の一言で私はスマホをテーブルに置いた。 成就するチャンスすら与えられなった青春の影踏み。なんて表現をしてみれば、少しは聞こえが良いかしら? でも確かにやっていることはストーカーに近い不毛な行為だ。 彼も変わってゆく。私も私の周りも変わってゆく。想いだけが変わらないなんて嘘だ。 「私ね、これでも高校生のときは結構成績も良くて優等生だったんだよ」 「へぇ……」 「でも、そんなことは何の意味も無いことなんだよね」 「そんなこともないでしょ」 薄桃は布団を敷き終わると、嬉しそうに寝転がって笑った。 「そのときの貴路には、とても意味のあることだったんだよ。きっと」 私は過去のことを滅多に薄桃に話さない。薄桃も積極的には聞きたがらないし、私も薄桃の過去には触れない。 ただ、どうやら学校には行っていたらしい。いつの時代の話だかは知らないけれど。 「女子高生の貴路って、どんな娘だったの?」 「自分のことで一杯一杯で、周りのことが見えてない。いつだって自分本位な子供だったよ」 って、今とそう変わらないね。と、私は上手いとはいえない作り笑いを浮かべて誤魔化した。 「レコードを聴くのだって当時憧れていたクラスメイトの影響だし、私って器だけ気にしているカラッポな存在なの」 私は気恥ずかしさから電気を消した。まだ寝る時間には早い。 「台風のさ……」 ベッドに横になって暫くたってから、私は夜に呟くように囁いた。 「被災した人達にくらべたら、私の悩みなんてちっぽけで贅沢で、悩みのうちには入らないんだろうけどさ」 返事が無い。もう眠ってしまったのかもしれない。 目覚まし時計の一定した秒針の音に、静かな雨のノイズが絡みついて不協和音になった。 私と薄桃が一緒に居る理由は至極単純なものだ。寂しいからに他ならない。 こんな不完全で不安定で、弱い生き物。 神様はどんなつもりで人間と云うものを創造したのだろうか。それは多分、寂しかったからで、だから人の姿を神に似せたのかもしれない。 神様も人も、等しく寂しがりやなのだとしたらいいな。どこか安心できる。 「ボランティア……参加してみようかな」 「いいんじゃない? やってみれば?」 暗闇から返事が返ってきた。 「起きてたのかよ」 「まぁね。行ってきなよ被災地のボランティア」 「薄桃も一緒に行こうよ」 「私は神様だから行かないよ」 「なんだかなぁ。アテにならない神様だね」 「アテにならないよ。親が子供の宿題をやるようなものだからね」 妙な例えだ。でも薄桃らしくて、私は布団の中で笑った。 「私は力仕事には向いていないし、出来ることといったら簡単な料理くらいのものだから、役に立つかどうかは分からないけどね」 「貴路は何でも頭で考えてから動くからなぁ。何も考えずに行動から入ってごらん。君らしくなくて良いじゃないか」 どういう理屈だ。まるで私らしいのはダメみたいじゃないか。 「失敗したら慰めてくれる?」 「そのくらいなら神様としての許容範囲内だから任されるよ」 明日、大学のボランティア受付のドアを叩いてみよう。きっと奇跡は薄桃の言う通り、人が起こすものなのだ。そして奇跡は毎日、当たり前のように起きている。 私達は皆、弱くて寂しい羊だから、群れを作って、助け合わなければ生きていけない。 神様は羊たちをただ見ているだけだけれど、羊はそれだけで、きっと安心なんだ。 私は祈りのようなものを捧げながら、今度こそ眠りについた。 ――きっと、明日は大丈夫。 《君は羊の全部、了》
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