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 沙弥香は急いで扉の鍵を開ける。  ガチャンと、重い音ともに渉が飛び込んでくる。コートも着ていない。チェックのシャツにセーターを重ね着した姿だ。  どう考えても異常事態だった。沙弥香がいくら面倒事を嫌っていようと、この状況を放置できるほど、ひとでなしでもなかった。 「渉!?どうした!?」  沙弥香は動転して大声を上げる。 「先生!先生!良かった!誰もいなかったら、僕、どうしたらよかったか……」  いつも冷静で物静かな渉が、別人のように取り乱していた。 「どうし……」  沙弥香の言葉は途中で空に消える。渉の少し長い髪の隙間から、赤が見えた。渉は、右のこめかみの辺りから出血していた。白いセーターにも少し血が染み込んでいる。 「渉!?怪我しているの!?」  渉は泣きじゃくるばかりで返事をしない。  沙弥香は周りを見渡す。タオルなどない。ハンカチは使用済み、不潔なもので傷口を押さえるわけにいかない。迷った挙げ句、ティッシュを何枚か引き抜いて、血を流しているところに当てる。渉は一瞬顔をしかめたが、自分の手でティッシュを支えた。 「病院にいこう!事情はあとから聞くけど、親御さんは来られないのね!?」  たかが塾講師に必死の助けを求めてきたのだ。両親の助けが得られない状態に間違いはないだろう。  渉は頷く。 「家で怪我したの!?警察呼ぶ!?」 「警察は呼ばないで!うちの……うちのことだから……。僕にはどうしても止められなくて……!」  どうやら家庭内のトラブルのようだ。  とにかく、渉を病院に連れて行かなくては。沙弥香は車のキーや財布の入ったバッグを引っ掴み、コートを乱暴にハンガーから外すと、渉の肩にかける。  そして、沙弥香は渉の手を握る。 「病院にいこう」  校舎の戸締まりだけして、渉の手を引いて歩き出す。 「駐車場まで歩ける?私の車で行くよ」  渉はしゃくりをあげながら、また無言で頷く。  真っ暗な夜。先程まで心地よく感じていた闇と静寂が、今は不安を連れてくる。星は見えない。どこまでも吸い込まれそうな空に、渉のすすり泣く声と、沙弥香の少し荒い息の音だけが、浮かんでは消えた。

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