イサナと鱗片
8. 水無月渉

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 驚かさないように、渉の視界に入る位置から近寄る。しかし、渉は手元の本を読んでいて、全く顔をあげない。その本は、なんと塔星ゼミナールが提供している参考書だった。もうボロボロに使い込まれている。 「水無月、渉くん……だよね?」  渉は飛び上がって顔をあげる。その反応に沙弥香も驚いたが、怪しまれないようにすぐに続ける。 「あ、私、塔星ゼミの氷見!今日は私、休みで、たまたま来てて!高校受験コースの授業を持ってるから渉と話したことはないのだけれど、一応校長だから……知ってる?」  沙弥香は初対面にも関わらず、渉を下の名前で呼び捨てにする。塔星ゼミナールではこのスタイルで統一することが奨励されていたし、彼女としてもしっくりくるのでそのようにしていた。  渉は目をパチクリさせたが、沙弥香の顔に思い当たったのか、ほっとして腰を下ろす。  その様子に沙弥香も安心する。 「氷見先生……はじめまして。水無月渉です。中学受験コースです」  渉はちょこんと立ち上がると、可愛らしくぺこりと頭をさげる。  熟成たちは小学生も中学生も、沙弥香のことを「地味先生」や「地味子」と呼ぶ。子供に「氷見」と正しい呼び方をされることは久しぶりで、沙弥香は思わず目を丸くする。 「先生、僕のことなんで知ってるんですか?」  渉が尋ねた。 「そりゃあ中学受験コーストップ独走だしね。でも、それ以前に、私も校長だから、通っている子たちの顔と名前は覚えているのよ」  沙弥香は渉の警戒を解くために笑ってみせる。  渉は驚いたようで、 「全員ですか?」 「うん、全員。私、昔から人の顔と名前を覚えるの、得意なのよ」  渉は黙ってじっと沙弥香を見つめている。  沙弥香はハッとする。渉の緊張は多少解けたようだ。渉に何故こんなところで、ひとりで勉強しているのか聞かなければ。  沙弥香は再度周りを見渡す。保護者らしき影はない。沙弥香の身分を明かせば怪しまれることはないし、引き渡せればそれで良かったのだが、そう簡単にいかないようだ。  急にキョロキョロと周りを見回しだした沙弥香に、渉は不思議そうな目を向ける。  沙弥香は言った。 「ねえ、渉。保護者の方は?」 「僕ひとりで来ています」  即答された。 「え!いいの!?」 「パパとママには反対されていますけど、塾での成績が良いから見逃してもらってます」  絶句する。そして、沙弥香は気づく。今日は平日だ。さっきも小学生の子供たちを見た。渉も小学生だ。 「……学校は?」  しばしの沈黙の後、渉は膝に置いた参考書をぎゅっと握り、答えた。 「……ごめんなさい」  その回答に、沙弥香は渉の心情を察する。 「あ、説教しようとかじゃないんだよ!気になっただけだから。それも見逃してもらってるの?」 「春陵に入学できれば、小学校の勉強なんてどうでもいいって、ママが……。だからときどき休みます……」  沙弥香は目眩がする。渉の母親を思い出す。大人しそうな人だった。そんなことを言う人とは思えなかった。  しかし、虐待が明確だとか、そういうことでもない限り、一介の塾講師が家庭の教育方針まで口を出すのは憚られる。どんどん口調が重くなっていく渉のほうが気になり、話題を変えることにした。 「水族館、好きなの?」 「え?」 「平日からこんなとこにいるなんて、魚とか好き?それともペンギン好き?」  渉の目に光が灯った。初めて渉が歳相当の少年に見えた。 「水族館が好きです。水や海の生物に囲まれていると落ち着きます。僕、前の誕生日にここの年間パスポートを買ってもらったんです」  なるほど、と沙弥香は得心がいった。同時に、ちょっとした共感も覚えた。水に囲まれていることが好きなのは、沙弥香も同じだ。  沙弥香は考える。この子は、全寮制の春陵では苦しい想いをするだけなのではないだろうか。公立のトップ高校には自由な校風の学校も多い。そうした環境のほうが、伸び伸びと暮らせるのではないか。  もちろん、口には出さない。保護者から進路を相談されればそう答えるが、そうでもないのに干渉はできない。 「そっか。私、ここには今日初めてきたけど、いいとこだね。私も水の中の雰囲気が好きだな」  渉は笑顔になる。 「ねえ、渉。いつもここで勉強してるの?」 「したり、しなかったり……。家でしていることのほうが多いです。今日は……気分転換です!」 「そっか。あ、一個だけ説教するけど、ここは暗いから目が悪くなるぞ。なるべくやめておけよ」  渉はバツが悪そうに笑った。  渉が何かを隠しているのは明らかだった。しかし、沙弥香は踏み込まなかった。渉が知られたくないと思っていることを無理に明らかにするのは、乱暴だと思ったからだ。

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