イサナと鱗片
31. 追いかけてくる記憶

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 その夜、沙弥香は浴びるように酒を飲んだ。  沙弥香は酒に強い。特に今日は飲んでも酔えない。  久方ぶりに過去を思い出した。孤独であることにも気づかなかった、あの忌まわしい過去。簒奪者たち。そして、搾取をまるごと受け入れていた間抜けな自分に腹が立って仕方がなかった。酔ってしまえ。酔ってしまえ。そう願うのに、頭は覚醒する一方だった。  沙弥香は荒れた。翌日が仕事だろうと関係がなかった。誰にも気づかれない孤独を抱えた自分と渉が、群れをはぐれた一匹のイワシと重なる。その鱗のきらめきが目に焼き付いている。  渉に言ったことは無責任だと思った。沙弥香は偶然、橋本という救済者に出会えただけだ。彼女に出会えたのは沙弥香の何らかの努力によるものではなく、ただの運だ。渉が同様の存在に出会えるとは限らない。  橋本に連絡をしなくなってから、3年以上経つ。一度連絡してみようかと思うが、彼女にとっては取るに足らない出来事だったであろうことを思うと、いつまでも依存しているかのようで、心が拒絶する。  寂しいと、孤独だと思うのに、誰も近づけることができない。人との触れ合いを切に願う渉と違い、沙弥香はもう素直にはなれなかった。年齢もあるかもしれないし、性格もあるかもしれない。  ひとりぼっちは、仲間はずれは自分のほうだと思った。  *  翌日、沙弥香はわずかに重い頭を持ち上げる。目が覚めると、午前10時だった。出勤まで少し時間がある。  二日酔いというほどでもない。昨日もきちんと片付けをしてから寝た。長年の家事習慣のおかげで、沙弥香の部屋はきれいに整っていた。  水道をひねると外気に冷やされた冷たい水が流れてくる。グラスで受けて、ぐっと飲み干す。冷たい塊が喉を落ちていった。  家にいても手持ち無沙汰だ。読みかけの文庫があるが、今は読む気になれない。身支度をして、早めに出勤することにした。どうせ、残業代はつかないのだ。  冷水で顔を洗う。鏡の中の自分は、酷く心細そうに見えた。  沙弥香は鏡のを撫でてひとりごち、自嘲する。 「ブサイクで地味だなぁ。由衣香と違って」  いつもどおりの紺のパンツスーツ。最低限の化粧。黒の合皮パンプス。  外見に金をかけるという習慣がない。  最低限の化粧品をドラッグストアで買うときですら、罪悪感がつきまとう。  こんなことにお金を使うくらいなら、家に渡さなきゃ。  実家と絶縁してから5年にもなるのに、未だ、内なる声に苦しめられる。そのたびに自分に言い聞かせる。私がお金を渡さなければいけない場所はなくなったんだ、と。 「ほら!何やってるの、どんくさいわねえ!」  女性の声のあとに、小さな女の子の泣き声がする。お隣の一軒家の奥さんと娘さんだ。  沙弥香は、相変わらず、その声に身をすくませる。  かつての母と自分を想起させる。どこまでも、何年経っても、追いかけてくるのだと思うと、誰かにすがりつい手泣きたいような気持ちになった。

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