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 翌日月曜日、ぼーっとする頭を抱えて、沙弥香は出勤する。相変わらず、ストッキングにスニーカーを履く感触が気持ち悪い。  昨日の別れ際の渉の目がずっと瞼の裏に残っていた。所詮沙弥香は塾の講師。学校の教師よりも深入りができない。ひとりの塾生に過度に干渉することは明らかに良くない。それでも、あの目に見つめられているようで、よく眠れなかった。  今日は中学受験コースの4年生の授業がある日だ。渉は来るだろうか。来たとしても沙弥香との接点はない。言語化できないもどかしい気持ちを持て余し、職員室で散漫にペンを回していた。  渉を担当している職員たちには、昨夜のことを話をしておいた。当然だが、皆一様に驚いていた。普段から虐待を受けているような様子は見られないらしい。傷や痣なども見たことがないそうだ。落ち着いて授業を受け、成績の良い、おとなしい優等生。それが渉への講師たちが持つ揃った印象だった。  *   子供たちがやってきて校舎が賑わいだしてきた。 「地味先生!ここの過去問の長文、どう訳すの!?」 「んー?あー、これはね、thatの後ろから……」 「あの……」  公立高校受験を控えた生徒の質問に、沙弥香が職員室で答えるていると控えめな、少し震えた声がかかった。  沙弥香と生徒が顔をあげると、そこには水無月渉の母親がいた。よく見ると、その後ろに渉の姿も見える。渉は右のこめかみに大きな絆創膏を貼っていた。 「ああ、どうも……。ごめん、ヒロカズ、ちょっと待ってて」  質問をしてきた生徒を待たせると、沙弥香は立ち上がる。 「こちらへどうぞ。あ、渉はいいですよね?」  母親がこくんと首を縦に振る。 「渉、先に教室に行ってな。今度も大丈夫だろうけど、もうすぐ模試だし、次は全国100位に入れるよう頑張ろうな!」  そういって沙弥香は歯を見せて笑う。渉はぱっと顔をあげると、大きな目をキラキラさせる。 「先生、僕の成績知ってるんですか!?」 「知ってるよ、渉ならもっと上を狙えると思ってる」  渉は満面の笑みを湛えると、大きく頷いて、職員室から駆け出ていった。 「あ、おーい、走るなよ!……と、すみませんでした。こちらへどうぞ」  塾生が自由に入れる職員室の奥には小さな会議室がある。沙弥香は壁のホワイトボードに使用の旨を記載し、鍵を取ると、会議室の扉を開け、電気をつける。 「こちらでお待ち下さい。私は、質問に答えてから参ります」  そう言って手で示すと、渉の母は会釈をしながら会議室に入っていった。扉を閉めると、沙弥香は、質問をしてきた生徒のもとに戻る。 「ごめんごめん。えーとね、この文は長いからわかりにくいんだけど、ここで分割すると読みやすくなって……」  問題が解決した生徒は、沙弥香にグータッチをして去っていった。私立の滑り止めも合格し、第一志望の公立も合格確度の高い子だ。頑張ってくれればと見送る。  そして、沙弥香は会議室の扉をノックして開けた。

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